☆1 夕焼け空に映える翼
扉が開く。年季の入ったやけに重厚な灰色の扉だから、開く時も軋みを上げた。
扉の向こうから現れたのは、一人の少女だった。顔をしかめている。重量のある扉に体重をかけ、枠に押し込むようにして閉めると、片手に持っていた鞄を投げ出すようにその場に置いた。鞄がいかにも重そうな音を発する。少女は一瞥もくれずに、重い荷物から解放されて歩き出した。
本来ならば立ち入り禁止の中学校の屋上で、髪が舞う。
夕焼けに照らされた髪は、仄かに青い。
背丈は平均。目方も平均。姿は、細身。
覇気の無い瞳。
頼りないと言う風には見えないのに、消えそうなほど一挙一動が力無い。
どこにでもいる、疲労を動作に滲ませた少女。
彼女の異質さは、残り香のように漂った。
それは青。
肩甲骨の半ばまでの、少し長めの頭髪だ。夕闇の迫る空に靡く髪は、本来青空をそのまま写し取ったかのような青色をしていた。
どう考えても不自然なはずなのに、少女の姿には黒髪もよくある茶髪も当てはめる事ができなかった。それ以外の色が想像出来ないほど、ぴたりとその青色が似合った。
ただ、目立たないように染料で黒く染めているのだ。洗えば黒が抜けてしまうので、週に一度は染め直さなければならない。
表向きではない中学校の規律は、目立たず、逆らわず、扱いやすくいること。
うっとおしく体にまつわりつく制服の胸で札が光った。
名前は、
今年十四歳になる、平凡な中学の生徒だった。
授業は既に終わっている。早く学校から出なければ、ここに閉じ込められてしまうことになるだろう。屋上には柵が無い。そもそも人が入る筈のない場所だからだ。洸は、慣れた様子で屋上の縁に腰を降ろし、足を空中に投げ出した。下には正門と花壇と、ひょろりとした細い木の植わった鉢が幾つか。
誰が世話をするんだろうな、と思う。花を咲かせて花を散らして。葉を落としてまたつける。そのサイクルを延々と、健気に続ける植物は―――いったい、誰に育てられているのだろう。見守られているのだろう。
放っておかれては、いないのだろう。誰かが管理しているのだ。
私たちのように。
そこまで考えて、視線を前にやる。遠く広く、見なれた景色が広がっている。幾つも、分かれたり、一つになったりしながら道が続いている。点き始めた街の灯り。連なる家々。それほど遠くない向こうの方には、数年前から建ち始めた、飛びぬけて高いビルが並ぶ。
無機質な塔の群れはいつも、景色とどこか釣り合わない。けれど今日は、するりと溶けるように馴染んで見えて、洸は眉根を寄せる。
「………無くなっちゃえよ」
両目を眇めて、そんな風に呟く。本当に無くなっても困るだけなのに。
黒々と深い陰影をつけた山の陰はこの時のみ、緑に黒を混ぜて、極限まで黒に近づけた色になっている。時は夕暮れ。右手の山に、太陽が一日で一番強い光を投げかけながら沈んでいく。空も色を変える。左の山の頂には、青から紺へ変わる空がかかっている。中央に、星が一つぽつりと、手から零れてしまったように光っていた。
洸は夕焼けに顔を向けた。眩し過ぎる光に目を細め、それ自体はあまり直視しないようにしながら見つめる。太陽は目に染みるような強いオレンジ。オレンジは朱、朱は赤、赤は紅、そして、真紅へと色を変える。空に、綺麗な赤のグラデーションができる。真っ赤に、雲を染める。
空気が、澄むのを感じる。きちりと決められたように一陣の風が体を吹き抜けて、全ての余分な感情を撫でるようにさらっていく。目映い景色は普段と衣装を取り替えて、見ていると、今がこの世か、分からなくなる。初めて微笑んでくれた人を見つけたような気分になる。誰か手を伸べてくれないかな。ここでないどこかなら、どこまでも着いていくよ。
太陽は熱く燃えている。
この空に、自分はどれだけ不釣合いなんだろう。どれだけ、不自然に浮き上がって見えるのだろう。そう思った。二色の狭間に腰掛けて、正面の赤だけを見つめながら。
誰にも自分の不具合を気づかれないように、身を縮めて外を歩く。物心ついた時から、自分の髪は青かった。今でも、父親の姿をはっきりと思い出す。彼の髪も自分と同じ、空のように真っ青だった。彼が、大きくて骨ばった手で洸の髪を染めた。高い空を連想させる髪。洸にとって誇りで、同時に重荷だ。
天空では、青が赤に触れていた。伸ばせば手が届きそうだった。数少ない星を飾った空。
絶対に触れられないくらいに、遠いのに。
思わず口元から言葉が零れた。
「おかあさん」
言葉の意味に気づいたのは、口にした後だった。慌てて頭を振って、振り払う。歯を噛み締める。目が熱い。
「馬鹿みたい」
冷えた目で微笑み、黒い瞳を閉じる。瞼を閉ざして、深く深く息を吸う。無理やり、揺らぐ心を落ち着けようとした。夕日は嫌いだ。たまにどうしようもなく見たくなるけど。
自分を戒めるために、きつく手を握った。
大丈夫。まだ、大丈夫。
目を、開ける。洸はため息をついた。顔を上げる。その顔にはもう薄墨のようにかかった、馴染みの感情しか映らなかった。諦観だ。夕日から目を背ける。もうすぐ、辺りは暗くなるだろう。そろそろ家に帰らなければならない。
背後の光から逃れるように立ち上がって、鞄に手を伸ばした。
本当の顔は誰にも見せない。
私は一人だけど、それでいい。一人でいい。
――――あれがもう、七年も前の事だなんて。
とても思えなかった。
*
洸には両親が居ない。七年前の洸の誕生日に消息を絶って、以来そのまま、何の連絡もない。
「仕事があって、帰って来られない」とは現在洸の保護者であるおばの言葉だ。こんなに長い期間一度も家に帰って来ない、電話の一本手紙の一通も無い、そんな状況で、どれだけその言葉を信じられるだろうか?
今となっては昔の話だが、両親がいた頃は、洸を一人残して出かける事は、ほとんど無かった。大抵いつも、どちらか一人は家にいた。どうしても二人で出掛けなければならない時は、その日中に帰って来る。
約束が破られた日はあの日以外一度も無かった。
真実か否か、きちんと誰かの口から聞いたわけではない。だが、一つの仮説がある。洸はある程度の年齢に達すると、だんだんと悟り始めた。周りの大人のちょっとした素振りや、自分をよぎる視線。それの内包した意味。わざわざ注意を煽るみたいに声を潜めた、会話の端々から聞こえる単語。ヒントはいくらでもあった。気付かせたいんじゃないかと思うくらいに。
仮説1は、両親は死んでしまったのだ、という事。
残念ながら2は無い。幼い洸は幾つも仮説を立てたが、ほとんどが現実味を帯びず、疑わずに信じ続けるのは難しかった。辿り着いた答えは、きっともう二度と、帰って来ることは無いだろうという冷たい判断だった。葬式は勿論行われていないし、はっきりと知らされたことも無い。だから「彼らは、仕事があって帰って来られない」のだ。ただ、洸がおばとずっと生活を続けていることが、そのまま答えになりはしないだろうか。
帰ってきたら大切なことを話してくれると、言っていた。
二人はいつも約束を破らなかったが、もう二度とその大切なことを知る機会はないのだろう。
もう二度と、会えない。
洸はそう悟った夜、何も食べられなかった。後から後から涙が溢れてくるから、それを拭いながら泣き続けた。
信じられないけれど、そう考えれば全ての不自然が、パズルのピースをあわせるように、隙間無く噛み合ってしまうのだ。できた絵は、絶望の色をしていた。
だが、それでも彼女に悲しんでいる暇は長く与えられなかった。父親がやってくれていた、髪を染める作業を自分でやるようになった。学校では浮かないように細心の注意を払う。洸はやや地味なグループに所属していた。
息を潜めてやり過ごすのだ。従順な家畜になるのだ。曖昧な微笑みばかりうまくなった。
毎日神経をすり減らして、限界が訪れるのはいつなのか見当がつかない。ただ、洸は限界が近い事を薄々感じていた。このままこの状況が続けば、そう遠くは無いいつか、耐え切れなくなって、溜め込んだものが一気に爆発してしまう予感がする。そうなった時の事は、予想がつかない。
自分だけではないはずだ。危うい探り合いの中を生き抜いているのだ。自分という存在の消滅は、ありえないことではない。早く訪れないだろうかと心待ちにしてしまう時もある。それでもいいかと小さく呟く。
あたしがこの場所に居る価値はあるだろうか?
小さな疑問は起こるかもしれない。あいつはどこへいった? でもそれだけだ。
自分がいなくなって、悲しむ人なんかどこにもいない。
自分がいなくたって、この世界には、何の支障も無い。
寂しい事実だ。
だったら。
洸はうっすらと自嘲的に笑って鞄を拾った。
始まりは、その時だった。
空気が、動く。
普通ならば気付かないほどの、否、例えぎりぎりまで精神を研ぎ澄ましていたとしても気付けない可能性の方が高い、そんな些細な変化で、木の葉一枚としてそよがなかったが。
しかし、それでも動かなかったわけじゃない。
静かに、始まりは告げられたのだった。
洸は最後にもう一度だけ、今となっては、もう何の感情も呼び起こさない赤い夕陽に目を向けると、扉に向かって歩き出した。
「――――?」
けれど、すぐさま足が止まる。
耳がかすかに、他の人間の声を捉えた。気のせいだろうと思ったが、洸は屋上の隅々までを確認した。扉は閉じた時のまま沈黙を守り続けている。音を立てずに開けることなど、不可能だ。元々何も無い雨ざらしの屋上に、隠れるところなどあるはずも無いのだ。ぐるりと三百六十度見回して、確認はすぐに終わった。
空耳かと口に出して、洸は腑に落ちない何かを感じつつも、再び扉へと足を向けた。
その途端、耳のすぐそばで声が響いた。
「――――ねぇ。別にさぁ、そんなに、無理しなくてもいいんじゃないの?」
「っ、え!?」
からかうような調子で、囁かれた声。多分、洸とそれほど変わらない、少年の物。
ばっと振り向いた。突然聞こえてきた声は彼女を混乱させた。ばらばらの考えが猛スピードで頭の中を駆け巡るが、それは一向にまとまらない。
誰か、いる!
「だ、誰っ!」
とにかく、と洸は振り向きざまにきつい声を放った。が、その先には。
「……え?」
沈む夕陽に、町並み。そこには先ほどまで自分が眺めていた景色が広がるばかりだった。肩の力が抜ける。
空耳、いや、違う。そんな訳がない。
洸はすぐに自分の考えを否定する。あれほどはっきりと聞こえたのだ。空耳だなんて、とても思えなかった。
洸が眉をひそめると、風を切る音と共に同じ声が耳に届く。
「こっちこっちだってば。いやーあんたが取り乱す所なんて俺、初めて見たよ」
「っ……」
洸は再度振り返る。
風を切る音、少年の、普通なら考えられないような移動速度に、疑問を感じる。が、その答えはすぐに見つかった。
彼女が振り向いた先には、未だに強い太陽の赤い光を体中に浴びて立つ、一人の人間。少年が、居た。
その姿は声から察したとおりで、年も予想どおり。洸と、それほど変わらないようだった。
「やっほー♪ ……ん? どーした? 俺、どっか変?」
少年はにこやかに手を振って、理由を重々承知していながら、洸に聞いた。
対して洸は、目を大きく見開き、絶句している。喉に言葉がつかえて……いや、違う。そもそも、出すべき言葉さえ見つからない。取っ手を握っていた指が緩み、その間からずるりと鞄が滑る。床に落ちて音を立てた。
少年はその様子に声を立てて笑い、くるりとその場で小さな円を描いて見せた。
空中で。
少年の背中には、まるで翼竜のような一対の翼がついていた。大きく頑丈そうで深緑色の、人間に竜の翼なんて見事にアンバランスなはずなのに、翼は――洸の髪と同じように、なぜか、少年の背にあるのが、さも当然のように見えた。
洸は唾を飲み込み、ぐっと顎をひいて、笑顔の少年を睨み付けた。
いったいこれは、何だろう。
まるで信じられない、この、状況は。
少年の姿には見覚えがあった。記憶を探るまでも無く、嫌でも覚えている。ただし、その背中にある翼と、茶色い前髪の間から覗く、真珠色の角を除いた姿だったが。
彼の額にある角はサイの物に似て、ゆっくりと曲線を描きながら、天に向かって伸びている。大きさは丁度手のひらほど。沈んでいく太陽の光を反射して、角はつやつやと柔らかな光を放っていた。
「んん? ……俺のこと、覚えてるよね?」
少年は首をひょいっと傾げると、にっと歯を見せて人懐こそうに笑った。洸は警戒しながらも、口を開き、答える。
「……
「そ。正解、星村さん」
洸は、黙って彼を睨み続けていた。
龍巳はクラスでも目立つ存在で、一番賑やかなグループに所属している。
学校の中で一番騒がしい場所へ行けば、ほぼ百パーセントの確率でそこに居るだろう。それくらいに、龍巳はよく喋り、よく笑い、よく騒ぐのだ。騒音製造機。ただでさえ騒がしい休み時間を、二倍三倍に騒がしくするのは勿論の事。普段の授業さえも、教師でさえ笑わせてうるさくしてしまうその才能から、洸は彼のことを、疎ましさを込めて内心そんな風に呼んでいた。
そんな理由もあって、龍巳の姿は、洸の中に記憶されていたのだ。しかし彼が、全く普通の人間である龍巳が、なぜこんな姿でここにいるのか洸には、まるで理解できなかった。
洸は龍巳に強い視線を向けたまま、口を開いた。意識していなくとも、自然と低い声が出る。
「……何で、こんな所に居るの」
「何でって、飛んで」
「……っ、そんなこと聞いてるんじゃない」
「うん? 俺には俺なりの用があるんだよ。俺があんたに話さなきゃいけないっていうことも無いし、俺がここに居ちゃいけない理由も無い。そーっしょ?」
そう言ってにかっと笑顔を作った。確かに、正論である。言葉に詰まり、続ける言葉を捜したが、見つからなかった。
「………わかった。あんたには関わらない。反論のしようも無い正論だし」
その翼も角も、見なかったことにしよう。
そう結論付けて、洸は落とした鞄を拾い上げると、扉に向かって一歩足を踏み出した。龍己は、通せんぼをしていた。ふざけた敬語で洸に話しかける。
「通してくれない? 私、何も言わないし、羽良君に関わらないから」
「ダメだよ。もう少し一緒にいよう。星村さんはもう、帰れないんだよ」
向かい合って、笑みを深くする。
「さてさて、それでは本題に入らせてもらいましょーか」
「はぁ……」
どうでもよさげに聞く洸に、龍巳は唇の端を高く吊り上げた。
「おっめでとーございます。有り得ないことばかり、想像もつかないことばかり、思いもしなかったことばかり。キミには、キミの真実を知る権利が与えられました」
「…………は?」
龍巳によって告げられて、彼の音声を耳にしてから十数秒。開口一番、沈黙の後に吐き出されたのは、ひらがな一文字に疑問符が一つだけだった。淡白な反応に、龍巳は拍子抜けだ、というように膨れっ面になる。
「……んな、〝は?〟って、さぁー。もうちょっと、なんかリアクション取れない?」
「いや、何よ、それ……」
洸は何故か、酷く心をかき乱された。感情を隠すのには慣れている。少なくとも下手では無いはずなのに、飛び出した自身の声は明らかに揺れていた。
真実とは、いったい何のことだろう。
何か、嘘でも教えられていたということだろうか。この人生に、偽りがあったとでも言うのだろうか。それとも、両親のことだろうか。最後の期待に、拾い上げた鞄の取っ手を握りしめていた。
「いやー悪いけどさ、俺、ほんとに本気、なんだよね」
龍巳は苦笑するようにかすかに笑う。
「つまんねージョーク言うくらいだったら、喉ォ無くした方がマシ――って、性質だからさ。ほんとだよ。嘘じゃない」
そう、俺は笑いに命を懸けてるから! と、龍巳はあさっての方を向いて力説した。
「なんか、この展開。ちょっと無茶苦茶だよね」
洸は思わず困ったように笑ってしまった。
龍巳はその単語を気に入ったようで、台詞の中から抜き出すと、喜ばしげに繰り返した。
「むちゃくちゃ! いいね。そのとおり」
「それで? 一体どういうことなの?」
そうだねぇ、と龍巳は戯れに翼を動かして、洸に見せるように屋上をゆらゆらと移動した。本物としか見えない翼の動きに、自分の常識が簡単に破壊されていく。
「もっと具体的に言うと、つまり『真実』っつーのはさ、ほら。キミの」
くるりと回転して見せ、空中で逆さにあぐらを組んだ龍巳の指が、洸の髪に向く。
「その、ちょっと普通じゃない、髪の色のこととか」
緩やかに指は動き、洸の体を指す。
「要するに、キミの体に流れる、血のこととか。――キミの中に眠る、特殊な能力のこととか」
「能力……?」
そうそうと彼は笑顔で頷いた。
「あとはーキミのいなくなった、お父さんとお母さんのこと。―――とかはどう?」
ああ、と吐息が漏れた。
「生きて、るの?」
様々な感情が一気に込み上げて来る。けれど、龍己はちょっと説明が難しい、と顔を歪めた。
「俺は、そういうことを伝えるよっていう外枠の話しか聞いてないから。無責任なこと言えないのだな。特に、こういう事に限っては」
龍巳は逆様の状態から、泳ぐように体の向きを通常の位置に戻した。そしてコンクリートの床に降り立ち、制服のポケットをひっくり返し始めた。
「うん、でね。今日は俺の上司からの命令で、ひーちゃんにそういうことを伝えて来いって言われた訳よ。ほんで、上司は別の場所で待機してるから、一緒に来てくれない?」
「え、ちょ。ひーちゃんって、私?」
「あ、ごめん。俺、馴れ馴れしくって。やだったよね?」
「や、その。まあ、別に。その、びっくりしただけ。クラスとかでそういう風に呼ばないでくれれば、平気」
洸はそう答えながら、考えていた。
『真実』を知る権利は与える。
しかし、知りたいのなら、こちらまで来いと言うことか。
ここで、何も無かった事にしてしまうのは簡単だ。やはり止めると龍巳に告げて、家に帰る。いつもどおりに一人で食事を取り、いつもどおりに宿題をする。そして、また明日いつもどおりに、学校で黙って席についていればいい。
ずっと今までと同じに繰り返せば、後は勝手に時間が過ぎていってくれる。
洸は、耐えればいいだけだ。
でも。
まだわからない。ひょっとしたらの可能性でしかなくて、確実に両親と会えると決まったわけではない。でも、その『真実』の中には、確実に両親に関係する〝何か〟がある。
それを知れば、これから自分が何をすべきか明らかになる。ぼんやりと過ぎていく時間を、ただ眺めているのが終わる。
きっと何か新しい道が、見えてくる。
それなら。
洸がいくら探しても手に入らなかった情報が、向こうからやって来た。長年の疑問が解決するかもしれないのに、その機会を逃してどうする。いつのまにか洸の傍らに座り込んで、彼女の顔色をちらちらと見ていた龍巳を見下ろす。
「おぅ、決まったかい」
すっくと立ち上がり、挑戦するように笑いながら、洸に向かって口を開く。
「さあ、そんじゃ……来る?」
視線が絡んだ。二人の瞳の色自体はほとんど同色に近いのに、二対の目に宿る色は、絶対的に違っている。一方はあくまで楽しげな色を踊らせ、一方は、真摯過ぎるほどに真摯に、鋭く光る。
「行くよ。行くに、決まってる」
洸は強い口調ではっきりと答えた。龍巳はにまぁと最高に楽しそうに笑った。
「あっはははは! よーっしゃ、さいこぉーっ!」
龍巳は体を軽く折り、右手に持った何かを洸に見せた。手の上には、どら焼きのような形の、丸い円盤が乗っていた。青みがかった銀色の金属でできていて、ネジの部分が光を反射している。形がどら焼きに似ているからと言って、噛み付いたら、さぞかし痛い思いをするだろう。
龍巳はそのなんだか分からないブツを前に突き出し、得意げな顔で言い放った。
「これは空間転移装置だよ!」
「おお。テレポート、みたいな?」
「ん、そうだね。見れば分かる見れば分かる。あれだ、『百聞は一見に寿司酢』ってやつ」
寿司酢は違う。
洸は呆れたが、口を挟む気が起こらなかった。好きにさせておこうと、傍観を決め込む。
もともと、龍己が所属するようなグループの人間とは縁が無いのだ。彼らのテンションについていける気もしない。
龍巳は体をひねり、おもむろに腕を振りかぶって、その機械をもうほとんどが藍色に染まっている空へと投げ込んだ。
「え?」
洸が声を発した間に、ドラ焼きは緩やかな放物線を描いて飛んで、夜空へ吸い込まれるように落ちていく。
そして、それが真っ直ぐ地面に向かって下降していこうとした時、
「わぁっ!」
爆発したように、銀色の炎が燃え上がった。
燃え盛る炎の中、龍巳の投げた機械を中心に、輝く円形が浮かび上がる。
完璧な円ではなく、それは楕円形に近い形をしていて、額縁のように、炎がきらきらとそこを縁取った。鋭い光に慌てて目をかばった。そこに、龍巳の声が聞こえる。
「まだまだ。驚くのはこれからだよ」
龍巳がそう言って、洸が腕で目を庇いながら瞼を開くと、目の前で空間が、渦を巻いていた。
言葉が形にならない洸の前で、ぐるぐると、目の前の景色が歪んでいく。紺に染まった空が、暗緑色の山が、オレンジ色の町の灯が、僅かに残った夕焼けの赤が、それ以外の物も、何もかもが全て、銀色に燃える額縁の中に映った物は――全て。ぐるぐるぐるぐると、巻き込まれていく。器いっぱいに張った水をかき回すように、景色が、素早く渦を巻く。
額縁の中は、次第に渦を巻きながら色を変化させ始めた。
色が、輝きながら混ざり混ざって燃え上がるような赤色へ、そしてすぐさま深い深い青色へと変貌を遂げる。変化はそれに留まらず、更に様々な色が現れては消えを繰り返し、だんだん、だんだんと、黒へ。
「ひ………!」
黒。 暗黒。 暗闇。
洸の頭の中に、幼い頃の忌まわしいビジョンが蘇る。
その黒は、あの日から、ずっと彼女に付きまとう暗闇の色に酷似していた。部屋の片隅、物の影に腰を据え、ただ黒い体でひっそりと、そして静かに待ち受ける。
彼女を襲うタイミングを、彼女を喰らうタイミングを。ひそかにずっと待ち続ける、暗闇の色。
例え部屋の電気をつけても、光の届かないところはある。そこには必ず影があるのだ。影があれば―――そこには闇が。いつもどこかに闇はある。闇に、潜む獣の姿を見るような。そこに居るような。今にもその、光る目玉や鋭い爪が姿を現すのではないかと思うと、洸は、背筋が寒くなるような感覚に捕らわれることがあった。だが、そんな洸の気持ちも知らず、彼女の腕を龍己が強く掴む。
「……きゃ!」
思わず声が裏返りかける。視線を横に動かすと、竜の翼を持った少年がいる。
何一つ心配など無いようだ。
洸はちらりと渦巻く暗闇を見つめた。漆黒が、荒海のように波打ちながら動いている。
行こ。
つんのめりそうになりながら、龍巳に引きずられるような形で走り出す。
前方では、渦巻く暗闇が口を開いて待ち受けている。龍巳は洸を引っ張り、それに向かって走っていた。それほど距離があるわけでもない。暗闇との間隔はすぐに狭まった。
洸がさっき腰掛けていた段差を蹴り飛ばし、龍巳の体が中に舞った。洸の足も、段差を踏む。
下を見ると、今更のように地面が遥か下にあることに気づく。
―――落ちれば、確実に死ぬ。
悲鳴を上げ、足をその場にとどめようとしたが、すでに半身が空中に出ているような常態だ。声上げる前に、洸の足は自然に段差から離れていた。
洸の体を暗闇が飲み込む。何の抵抗も感じない。一瞬体が止まって、それから、さっきの円盤と同じ軌跡を描いて―――落ちる。
あの時ほど、屋上の雨ざらしのコンクリートの床が、恋しく感じたときはない。
叫びが喉を裂いて、助けを求めるように伸ばした手は、何も掴むことなく中途半端に開かれたまま。瞬きをする間も無く、学校の屋上も紺の空も遥か彼方に遠ざかり、辺りは一面暗闇に包まれた。
そこには暗闇以外の何も無く、まるで黒ペンキの海へと落ちて行っているようだった。 制服が風に煽られ、ばたばたと逃げたがっているように翻る。
落ちて行く自分の起こす風か、この暗闇が生み出す風かは分からない。洸は暴れるように打ち付ける風に取り囲まれ、散々もてあそばれた。髪の一本一本が顔に絡みついてきて、息苦しい。
何の光も無い暗闇の中では、髪の色など到底見えず、例えもし、その青い髪が赤や緑といった色に色を変えたとしても、洸はそれを知ることはなかっただろう。
そういえば、龍巳に掴まれていたはずの腕からは、いつの間にかその感覚が消えている。
なぜだろう。それとも、恐怖で感じる暇が無いだけで、彼はそこにいるのだろうか。
それさえも、分からなかった。
目を開いても黒、閉じても黒。
黒。
不安定な感覚。
とにかく自分が落下しているということは確かだ。つまりそれは、いつかはわからないが、自分は必ず地面に叩きつけられるだろうということではないだろうか? この体が、木っ端微塵に吹き飛んでしまうイメージ。
内臓がせりあがって来て、口から出て行ってしまいそうだ。有り得ないと打ち消しても、打ち消しきれない。
一筋の明かりも見えなくて、その中をひたすら下降していく。いつ地面につくかも分からず、辺りの様子も見えない。
そして、あたしには、それを、どうすることもできない。
理解してしまうと、強烈な、どうしようもない無力感に襲われた。
―――――――、怖い。
恐怖に体を包み込まれ、洸はテレビの電源を落とすかのように、意識を途切れさせた。
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