プロローグ 紅
息が詰まるような暗闇の中で、少女が立っていた。循環し続ける闇の中で。自分以外は何もない。少女だけが一人、切り張りされたみたいに浮いていた。うずくまることもできず、がたがたと身体が震える。震えを抑えようと自分で自分の身体を抱く。一向に納まってくれない。
目に映る手は赤く、染まっている。
おとうさんは、あたしをぶった。
おかあさんは、お皿を投げた。
がしゃんと音を立ててお皿が割れて、あたしはそれでまた、お母さんに怒られた。
破片が顔を切っていた。頬を伝って落ちるぬくもり。それは、あたしには不必要な気がした。
目に映る全てが、あたしを傷つけて、傷つけて。
痛いよ。
声は、届かない。
もう、いつから届いていないのか、わからない。
何をしたのだろうかと自分に尋ねると、いつも同じ、わからないという答えしか自分の中にはなくて、疑問と存在しない答えが迷路を作って少女を閉じ込める。
そして、今日。
気がついたら両親は、どこにも居なくなっていた。
床一面が足元をぴちゃりと浸す真っ赤な海で、鮮やかな赤が、足を染めた。
見下ろした体が何故か、その海と同じ紅に染まっていた。
夢じゃないかと、目を擦る。こわばった指で、確認するようにのろい動作で。擦った手の赤が、いやに目についた。
呆然と部屋に飛び散った赤い色を眺めていた。次第に姿の見えない恐怖が、足元から這い上がってきた。
怖くて怖くてたまらなくなって、家の中から飛び出した。何でこんなことになってしまったのかが分からない。恐怖は怪物になった。大きく形作られて床から吹き上がるように現れた。
食い尽くそうと、大きくその口を開いて。
目を牙を爪を光らせ、地面をえぐって駆けてくる。
そんなイメージが鮮明に浮かんだ。
外へ出た。いつもの道がまるで違う道になってしまったかのようだった。血の色に染まった少女を見て、道行く人が皆、一様に驚きの表情を浮かべる。反射的に女性が悲鳴を上げる。
いつもは僅かだって目を引きもしないのに。
大半の人が少女を避ける。その合間に近寄って、少女を止めようとした人も居た。
だが、損をするのは勇気のある人だ。
少女に触った人は皆、沢山の赤い液体を残して、どこかへ消えてしまうから。一瞬だけの、驚きのような表情を少女の脳裏へ焼き付けて。
心配そうな顔で声を掛けてくれた男の人と、女の人がいた。青い髪と黒い髪の二人連れで、男性の奇抜な色の頭髪が目を引いた。近寄ってきてくれた彼らは心の底から少女を助けようとしてくれているようだった。混乱していた気持ちが、ふっと楽になった。
(この人たちになら助けてもらえる)
差し伸べてくれた二人の手を取った。
少女の手が触れると、手の温かさを感じる前に、二人ともあっという間に消え去った。顔と体に赤い雨が降り注ぐ。
手を見下ろす。まだ温かさも感じていなかったけれど、濡れた手には、ぬるりと二人のぬくもりが残っていた。
気がついたら喉から声が溢れていた。言葉にならない、悲鳴だった。声と呼べるかどうかもわからない、そんな代物だ。喉が壊れそうなくらいに、溢れ続ける。
足が体の意思を離れて、狂ったように地面を蹴っていた。
身体の中で、獣が吼え狂っていた。怪物は追いかけていたのではない。最初から身体の中に居た。心が傷を負ったように、うずいている気がした。熱いものがそこから流れ出ている気がした。そして不思議な爽快感があった。何故かすっきりした感覚があった。枷か鎖が外されたみたいだった。手足の拘束が解かれたようだ。
本当に恐ろしくて、怖くて、怖くてたまらないのだ。
現に体が震えている。
それでも、晴天の下にいるような、気分が晴れた心地がしている。
それが、とても怖かった。
少女はひたすら走り続けた。
自分の足に引きずられるような形で、走った。喉からの声はいつしか笑い声に聞こえた。引きつった悲鳴にも聞こえた。頭の中では、今日起こった事全てが、皆別の世界のことのように感じていた。
少女は、ひたすら走り続けた。
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