第三十六話 知らなかったこと。

 先生は私の肩に置いた腕をそっと伸ばし、その胸から私を離した。そして梱包したばかりの段ボール箱の一つを開けて、小さな電気ストーブを取り出した。


「寒いのは、苦手だったよな?」


 そう言ってストーブを点ける。私は首を振った。


『それより、先生の隣がいい。そのほうが、暖かいから。』


「わかったよ。」


 二人並んで腰を下ろし、赤く輝く光を見つめた。


「後代だが。」


 一言そう呟いて、先生は後代さんが成仏してしまったいきさつを話してくれた。


 六年前の、冬のある日。

 後代さんは国研にクラスの提出物を持って行った。でも、教科担任の先生は不在で、そこには武藤先生と一人の男性がいるだけだった。

 すると突然、武藤先生は後代さんに酷い剣幕で罵声を浴びせてきた。来客中に失礼だ、教科担任の不在時に来るな、出ていけ、と。


『それって……まるで、つい先日奥原さんがされたのと同じことじゃ?』


「ああ。

 その時、後代も奥原自身も気づいてはいなかったが、

 武藤は何かの業者から賄賂を受け取っていたんだ。

 学校でそんな真似をするなんて、幅を利かせてきた武藤だ。

 油断したんだろうな。」


『見られてはいけない現場を見られたと思って、それを誤魔化すように罵声を?』


「それで学校に来られなくして、口を封じようと考えたんだろう。」


 教師として許されない罪を犯しながら、そんな子どもじみた方法で人を傷つけていたなんて。


『奥原さんはそれで……。でも、その時の後代さんは?』


「国研を出るには出たが、罵倒される覚えはないと言い返したらしい。」


 強いんだな、後代さんは。


 あれ? 先生の言葉、途切れたまま?

 頭を起こして顔を覗きこむと、先生は普段見たことのない、寂しそうな顔をしていた。


「だが次の日の朝、後代は死んだんだ。

 もともと心臓が弱かったから。その日はとても冷え込んだから。

 偶然、発作を起こしてね。

 展覧会に出す絵を仕上げる途中で。」


 それが初めて後代さんに触れた時に見た光景なのね。

 絵を仕上げたい一心だった後代さん。それがいつからか「放課後の美術教室に現れる幽霊」なんて噂になったなんて。


『先生? 幽霊が成仏する時って、この世への未練がなくなった時ですよね?』


 つい、無意識に先生の肩に頭を預けていた。

 はっと気がついて顔を上げたけど、先生は前みたいに赤くなっても、びくっと身を引いてもいなかったから……。このままでも、いいわよね。

 先生は少し、間をおいてから静かに答えた。


「ああ、そうだよ。」


『後代さん、絵を仕上げられなかったのに……なぜ成仏を?』 


「この学校にはもう一つ、噂があってね。」


『どんな噂ですか?』


「教師の間にタブーとして伝わっていたから、君たちが知らないのは無理もない。

 『六年前、武藤が厳しく指導した生徒が、それを苦にして自殺した』

 そんなつまらない噂。」


『その生徒って……後代さんのことですよね?!』


「ああ。それこそ『馬鹿にしないで』って後代は怒っていたよ。

 あの女に罵倒されて死んだと伝わっているのが、我慢ならなかったんだ。

 武藤を恨んだら、その噂を認めたことになる。

 だが、もしも誰かが自分と同じような目に遭った時は、

 武藤を許さないってね。」


『それで、今回……。』


「そう。武藤の悪事を暴いてくれたのは、奥原の守護霊の女の子だ。」


『あの子が?』


「国研で武藤と男が会っていた様子を、絵にしてくれていたんだ。

 その男は六年前、後代が見た男と同一人物だった。

 その絵を見て後代は、あの時何が起きていたのかを悟った。」


 あの子は、やっぱりいつも奥原さんを守っていたんだわ。そして後代さんの無念も晴らすきっかけも……。


「だから後代は今一度、武藤に向き合うことにしたんだ。

 姿を見せて、今度は逆に容赦なく罵倒してやろうってね。

 それが月曜のことだ。

 比留間だけが悪党になって安心しきっていた武藤だが、

 後代に会って泡吹いて倒れたよ。」


『それで武藤先生、辞職を。』


「ふーん。あの人、辞職したんだ。」


 初めて知ったように、関心もなさそうに呟いたけど。先生、そうなることがわかっていたんでしょうね。


『それで成仏する時、後代さん、先生になにか?』


「ありがとうって。」


『それだけ?』


「ああ、それだけ。そしてそのまま消えていったよ。」


 ふっと先生は穏やかに笑ったけれど。

 そんな……後代さんだって、先生を慕っていたんじゃ?

 自分の気持ち、伝えなくてよかったのかしら?


「それで俺のここでの仕事も終わり。ここを去ることにしたんだ。」


 私は顔を上げて先生を見つめた。


『でも、どうして急に?

 危険な目に私を遭わせたくないって、どういうことなの?』 


 先生の瞳に映るストーブの灯が妖しく輝いている。


「後代が消えて美術教室を出る時、かすかに感じたんだ。」


『何を?』


 先生はストーブを見つめていた顔を私に向けた。


「誰かの視線をね。

 すぐに消えたが、あれは君から『闇』が出た時に感じた霊波だった。」


『そ、それじゃ……。』


「君に『闇』を仕掛けた奴が、俺を見に来ていたようだ。

 だが長崎とここじゃ、日本の半分以上も離れている。

 そんな距離を自由に行き来する幽霊なんて、初めてだ。」


 先生は膝を抱えた腕の中に、自分の顔を半分うずめて、目を細めた。


「そんな相手が、いつまた襲ってくるかわからない。

 その時に、守護霊のくせに特異稀な能力を持つ君がそばにいたら……。

 今度は間違いなく、そいつは邪魔な君を消すことを厭わないだろう。

 場合によれば、奥原の守護霊の子も巻き込みかねない。」


『わ……私はそれでも!』


 先生のそばにいたい! それはきっとあの子だって!


「だめだ。君は浅野の守護霊だ。務めを果たせ。」


 先生は冷たくそう言って視線をまたストーブに戻した。


 るみちゃんのためにそんなことを……いいえ、違う。

 今、先生に触れているから、はっきりわかる。

 先生は本当に、私のことを思って言ってくれている。


 これ以上我儘言っちゃ、駄目だよね……。


『わかりました。 先生? 一つ聞いてもいいですか?』


「なんだ?」


 私はまた、先生の肩に頭を預けた。


『ごめんなさい。

 私、先生の心、見ちゃったから。

 先生、後代さんや、るみちゃん、奥原さんは最初から呼び捨てにしてたのに、

 私のこと、「さん」付けしてたのは……先生が好きだった人に似てたから?』


「……ああ。それで、距離をおこうとな。」 


 少し間が開いたけど、先生は正直に答えてくれた。


『ふうん。今は? やっぱり似てると思いますか?』


「いいや。君は君だった。」


 そう言ってもらえることが、嬉しかった。


『じゃあ、先生から見て、私らしいところって、どんなところですか?』


 そう尋ねた私に、先生はふっと小さく笑った。


「人を比べたくはないが、

 どっちかというと『あいつ』よりぐいぐい来るなあって。」


『ぐいぐい?』


 思わず顔を上げてしまう。


「世話焼きだなぁってことさ。」


 うん。そうかも知れない。だって、ほっとけないんですもの。


『先生!』


 わざと明るく大きな声を出した。顔を上げてこっちを向いた先生に、私は体を伸ばす。

 先生は一瞬、驚いたけど、じっとしてくれていた。

 るみちゃんの体ではなく、私自身で口づけしたかったから。


 顔を離して、まっすぐに先生を見つめた。


『私のことも、忘れないでね。』


「ああ。」

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