第三十一話 そんなんじゃ、ダメなんです!
死なば……って?
まさか、いきなり死まで覚悟するほどのことなんですか?!
信じ難い言葉に息をのんでしまった私に、先生は今度は左手を真っすぐにかざす。
まるで歌舞伎の見栄を切った姿の先生に向かっていきなり!
私の胸から、握り拳ほどの大きさの『別の闇』が、先生目がけて飛び出していた!
なぜこんなものが私からッ?!
先生のそれと違うのは、不気味に回転するその闇の球体の表面に纏わりつくように、小さな稲妻が幾重にも光っているということッ!
「うがッ!!」
稲妻が掠めた先生の左の掌がぱっくりと切れた!
血しぶきもなく、まるでカマイタチに切られたように、先生の肉が覗いている!
私から発せられた『闇』がそのまま顔に当たる?という正にその瞬間、先生は紙一重でそれを交わして前に大きく踏み込むと、私の前に仁王立ちになった。
先生が出した闇はすでに私から出た闇を、さらには私たちまでも先生の背後から飲み込もうと大きくなっている!
ズズン!
突然、準備室が酷く震えるほどの大きな音が響き、体が強張る。
何事が起きたのかと恐る恐る先生の肩越しにその後ろに目を向けると、もう、二つの闇の姿は、どこにもなかった。
「地震?!」「違うわ。隣からよ?」
壁越しにるみちゃん達の叫び声が聞こえた。すぐ勢いよく部屋の戸が開けられる。
「先生?! 大丈夫ですか?!」
「ああ、大丈夫。
ちょっと派手にこけただけだ。手を滑らせて怪我してしまったよ。」
るみちゃんに笑って応えた時にはもう、先生は今立ち上がったというようなふりをしながら、左手を身近にあったガムテープでぐるぐると巻いて傷を塞いだところだった。
するとなんでもないような先生の言葉に安心したのか、るみちゃんも苦笑する。
「先生まだそんな歳じゃないのに、そそっかしいんだから~。」
「ほんとにすまんな。片付けるんで、向こうにいっててくれ。」
先程の振動で棚から落ちたものを拾おうとした奥原さんと守護霊の少女も止めて、先生は皆を促した。
『先生、大丈夫ですか?』
一人残って顔を覗き込みながら尋ねる後代さんに、先生は頷いた。
「心配ない。後代も自分の作品に取り組め。」
『……はい。』
じっと先生を見つめていた後代さんは、それ以上なにも聞こうとはせず、美術教室へと壁をすり抜けていく。
こんなに冷静に皆のことを見つめていながら……私は酷く狼狽えていた。震えながら後退りし、首を左右に振り続けていた……だって!
『私が……先生を、傷つけてしまうなんて……。』
「落ち着け、君のせいじゃない。
どうやら旅先で誰だか知らん幽霊に出会って、
利用されたってところだろうな。」
信じられない言葉に、身が凍りつく。
『利用された……私が? 誰に? 私、そんな覚えは全然ないです!』
「当然だよ。恐らく、そこだけ記憶を消されたんだ。
正体を明かさぬために。
君にさっきの『闇』を運ばせて、俺を狙う気だったんだろう。」
『先生を?!』
先生はガムテープを巻いた掌で、拳を作ったり開いたり……でも、少し痛そうに顔をしかめながら私に頷いた。
「まるでブービートラップだな。
俺が気づかず君に近づくとするだろ?
するとさっきの『闇』を発生させて、
君もろともターゲットの俺を消すって寸法さ。」
知らない言葉ばかり続いたけれど、きっと先生を狙った罠、ということですよね?
『先生、それで今日は私から離れていらしたんですか?』
「ああ、皆がいた時はね。
さっきはあの『闇』のほうが君から飛び出てくれたからまだ良かったが。」
やはり、皆を巻き込むまいとお考えになられたのだわ。
と、先生は床に落としていた目を上げて、どこか遠くを睨んだ。
「……いや違うか?
むしろ最初からそのつもりでわかりやすく『闇』を仕込んで……。
どうやら俺は、その得体の知れない相手に試されただけだったようだな。」
悔し気に先生は舌打ちをする。
先生のような方を試すだなんて。
そんな悪意を持った幽霊がいるなんて信じられない……でも、その罠に私は加担していたことになるわ?
『すみません! 私が、迂闊なばかりにッ!!』
自由に動けるようになって、旅行気分も手伝って気持ちが緩んでいたに違いないもの。
申し訳なくて目をつぶって頭を下げ続ける私に、先生は優しく声をかけてくださる。
「謝らなきゃならないのは、俺の方だ。
俺もどこで恨みを買ってるか、わからんもんだな。」
私は激しく首を振った。
恨みを買うだなんてそんなこと、あっていいはずありません!
だって先生は、私にとって恨むどころか、さっきだって命がけで私を……。
あれ?……違う。
その時、はっと気がついた。
さっきの先生の言葉、死なばもろともって……。
『あの。雨守先生? もしかして先程、先生は……。』
先生は苦々しく唇を噛んでいた顔を上げた。
「すまなかったな、深田。
君を救える自信はなかった。
もしもいきなり君を飲み込むようにあの『闇』が現れたら、
俺の闇で消し去る以外にないと思っていた。」
それは、残酷に聞こえる話ではあるけれど。
『そんなの……私はかまいません!』
そうよ。
それ以外に方法はないのなら、先生の判断に私は!
でも。
先生はさらに自嘲するように呟いた。
「もっとも向こうの『闇』の方が、とんでもない破壊力を持っていたようだ。
あんなに小さかったのな。
飲み込むどころか、相殺して弾け飛んでくれて……助かったってことかな?」
『そんなことじゃなくて!
さっき先生は、ご自身も闇に飲み込まれるつもりだったのではありませんか?!
最初から背後に闇を出していたじゃありませんかッ!』
私だけに向けて出せばよかったのに!
詰め寄る私から先生は目を逸らせた。その方向に回り込んで再び叫ぶ。
『やっぱりそうだったんですね?!』
「ああ……そのとおりだよ。」
『どうしてそんなふうに考えてしまうんですかッ?!』
なおも迫る私から、先生は煩わしそうに顔をそむける。
「わかった。わかったって。俺が悪かった。」
嘘! きっと、悪かったなんて思ってない!!
気まずい沈黙なんて知らないわ?!
恨めしそうに睨み続ける私に、ようやく雨守先生は苦虫を噛みつぶしたような顔になりながら口を開いた。
「大したもんだな。
それだけ気持ちを強く発せられるんなら、
『闇』を運ばされていたとは言え、君はもう心配ないよ。」
まただわ!
『私の心配なんかじゃなくてですねッ!!』
でも、怒鳴った私に対して、先生は冷めた目を向けていた。
「いや。君だってけっこう自分をないがしろにしたようなこと、言ってるぜ?」
『違いますよ!
私を消さねばならない覚悟を先生が決められたのなら、
私は素直に受け止められます!
一度死んでいる身ですから。
死んでもなお、先生から希望をいただきましたから!
でも、先生はご自身の命を、
あまりにも軽く見ていらっしゃるのではありませんか?!』
雨守先生は普段、人のことには心を砕いていらっしゃるのに、ご自身のことはさっきのようにあまりにもあっさりと……でも、その答えを、もう私は知っている。
黙っていようと思っていたけれど!
『私、前に先生に触れた時、見てしまったんです。
先生の心を。先生の過去を!
今日のようなことが起きた時に、先生は大切な人を失くしていますよね?!』
先生は目を丸くして私を見つめた。そしてまた顔を逸らせ、呻くように言う。
「そんなことは……知らん。」
『とぼけないでください。
その人を救えなかったことで、今もご自身を責めていますよね?』
「君に……何がわかる?!」
低く吐き捨てる先生に、私は迷わず怒鳴り返す。
『わかるもんですか!
私を消せばいいだけだったのに自分もって!
その人の元に自分も行こうって思ったんですか?
それとも私に悪いと思ったからですか?』
先生は答えてくれない。でも、そんなことは構わない。
『そんなのその人のためでも、私のためでもなんでもないですよ?
ただの自己満足じゃないですか!』
先生は一瞬、じろりと私を横目で睨んだ。そしてゆっくりと正面から私を見つめた。
「言うじゃないか……深田。」
『言いますよ、何度でも!
先生に救われたのは私だけじゃない。るみちゃんだってそうです。
救っておいて、好きにさせておいて、
その当人が自分のことを大切にできないなんて!
あまりにも無責任すぎませんか?!』
「言ってることが滅茶苦茶だ。深田!」
『このわからずやッ!
その人のことも私のことも、馬鹿にするなって言ってるんですッ!!』
先生はびくっとして一瞬身を引いて黙り込んだ。
私だって、先生に対して酷いことを言ってしまったと後から体が震えてきた。
うつむいてしまって、声が思わず小さくなる。でも。
『私、将太君に会えて良かったって思ってます。
たとえ生まれ変わった将太君が、私のことを覚えていてくれなくても。
将太君に好きになってもらえたことが、
自分でも驚くくらい……嬉しかったんです。』
だから、もう会えないとわかっていても、寂しくはなかった!
むしろあの短い時間だけでも、会えて良かったのだもの!!
『だからいいじゃないですか?
先生がその人に愛されていたって、自信もっていけばいいじゃないですか!
それがその人の心に、応えることになるんじゃないんですか?!』
その人の気持ちを、どうか無駄にしないで!
先生は黙ったまま俯いていらしたけれど、やがてぽつりと口にした。
「深田。俺にはまだ、その心境までは、たどり着けないよ。」
時間がかかる……生きた人には、そういうことなのかしら?
死んだ身の方が確かに、あるがままを受け止めているかも知れないけれど。
『先生、お願いです。
せめて、自分は消えても構わないなんて、もう考えないでいただけませんか?
先生は生きているんですよ?!』
先生は長い沈黙のあと、静かに答えた。
「浅野にはともかく……君に黙って消えたりするようなことは、しないよ。」
『消えちゃだめなんですってばっ!』
「なんでこんなに怒られなきゃならないかな……。」
またも怒鳴った私に小さくぼやいた先生を思わず睨みつける。
『とにかく、約束ですよ?』
「……ああ。」
最後は苦笑いを浮かべてくださった先生の言葉に、ちょっと安心して私は美術教室へと壁をすり抜けていった。
でも。
さっきの先生の言葉の本当の意味がわかったのは、それから一月後の、冬のことだった。
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