第三章 ひと夏の経験。

第二十五話 久し、ぶりだね。

 夏休みもすでに一週間が経った八月。

 るみちゃんは今、二階の教室の黒板の前に立ち、苦手な数学の問題を睨みつけている。一学期、成績の思わしくなかった十数名だけが対象となった夏季補習というものらしい。

 るみちゃんの持ったチョークが不規則に黒板に当たる音だけが、廊下にも響いてくる。


「浅野ぉ、時間はたっぷりあるからなぁ。」


 窓際に寄り掛かって団扇で顔を扇ぎながら、田代先生(私、ちょっと苦手な方……だっていつもニヤニヤしてるんですもの)が声をかける。


「も、もーちょいですっ!!」


 少し声を荒げてるみちゃんは続きに取り組んだ。

 そんなるみちゃんには悪いけれど……私は一人、廊下に出て窓からぼんやり校庭を眺めていた。


 校庭の端に何本も並ぶヒマラヤスギ。そこからセミの声がやかましいほど溢れている。

 整備された校庭には、野球部の生徒達が綺麗に整列している。マネージャーと呼ばれる女子生徒が吹く笛に合わせ、班ごとそろった運動(二十メートルくらいの全力疾走)を繰り返す彼らを眺めながら……私はあの頃のことを思い出していた。


 敵國の兵隊と見立てたわらの束に、掛け声を上げながら突進して竹の棒を突き刺した訓練。

 運動などできないほどに校庭を耕して、どうにか皆で育てていた痩せたサツマイモ。


 そんな風に過ごしていた女子に対し、男子のうち体の小さな子は隣村に移され(大柄な子は適正検査に受かり、少年航空兵となった)、もっと過酷な作業をしていたらしい。それは隣村の元々平たんな地形を生かしながら、いくつもの畑を潰して戦闘機の滑走路を作るというものだった。

 私の隣家の男の子もその一人。幼い頃からの縁だから、彼の名前も憶えている。 桐生将太君……私より二つ年下なのに、生意気だった子。「俺の作った滑走路から戦闘機が飛び立つんだ」って、会えばいつも自慢げに鼻を右の拳で擦っていた。

 片や畑を潰し、片や畑でもないところを耕すなんておかしなことだなと思っても、彼の前ではそんなことは言えなかった。それに男女が親しく会話することすら、憚れた時代でもあったもの。


 そして今日みたいにセミがよく鳴いて、空には雲一つなかったあの日の夜。この町は隣の村とともに突然の空襲を受けて、私は死んだ。

 だから私はこんな夏の日が、嫌いだった。

 でも雨守先生に出会い、春に他の幽霊が見えるようになってから夏が近づくにつれ、ふと考えるようになってしまったことがある。


 皆は……どうしたかしら?

 成仏したのかしら?

 私みたいに、どこかで誰かの守護霊をしてるのかしら?

 それとももう、別の誰かに生まれ変わっているのかしら?


 ……将太君は、どうなったのかしら。


 ぼーっとしながら何気なく視線を落とすと、校舎と校庭の間にある駐輪場の建物から出てきた一人の女子生徒が目に映った。あれ? 自転車で来た子は、いなかったはず。

 確か彼女は、るみちゃんの同級生、一ノ瀬朋子さん。大人しく、あまり目立たない感じの子。文化祭の前からかなり休みがちだったわね。でも、彼女は夏季補習の対象者ではなかったはずじゃないかしら?


 その直後、私は息をのんだ。

 彼女のすぐ後ろに、短く刈りあげた髪と半袖姿の少年の幽霊が!


 私は思わず身を乗り出していた。


『将太君ッ?!』


 少年はすぐに顔を上げた。


『か……薫姉ちゃん?!』


 間違いない! それはまぎれもない、桐生将太君だった!!

 私は頭から彼に向かって飛び込むように隣に降りたった。


『本当に薫姉ちゃんだ! 驚いたなぁ。久しぶりだね!!』


『知らなかった!

 将太君、一ノ瀬さんの守護霊だったの?

 私もるみちゃんの守護霊してるの!!』


 変わらない笑顔に興奮してしまって、お互いの言葉がよく聞き取れない。すると少し間を開けて、将太君はまた笑って見せる。


『相変わらず驚くと元気いいね、薫姉ちゃんは。』


『当然でしょう? 驚きもするわよ!』


 だって、どうしてるかなって思っていた矢先の将太君よ?

 おまけにお互いが見えて、話もできるなんて!

 落ち着いているほうが無理というものでしょう?!


 すると将太君は、はにかみながら半袖シャツの上から自分の体を叩いて見せる。あ……将太君の上半身は、潰れて体から突き出した骨が見えていた。


『俺、爆撃でこんな成りになっちまったけど。

 でも、薫姉ちゃんは美人のままでよかったよ。』


『えッ?』


 あっさり自然な感じで言ったけどッ。目を泳がせていると将太君は照れながら続ける。


『何度も言わせるない。美人だって言ったんだ!』


『ばッばばばばばばかなこと言わないでよ。

 私だって、全身焼けただれて死んだのよ?』


『そうなのかい? 全然そんな風には見えないよ。』


 将太君ったら、私の周りを歩き回って全身を目を皿のようにして眺め回すから。


『恥ずかしいじゃないの。……この姿になれたのは、ある方のおかげなの。』


 目を逸らせながら答える私の顔を、将太君は上目遣いに覗き込んでくる。


『へーえ。……まさか、薫姉ちゃんのいい人?』


『馬鹿ね! そんなんじゃないわよ!

 そうやってまた私のこと、からかってばかりいて!!』


 そうよ!

 小さい頃だって、蛙投げつけてきたり、後からスカートめくったり!!

 赤面してしまって言葉に詰まってしまう。

 でも、将太君は真顔で正面から私を見つめてきた。


『まあ、死んじまったから言えることだけどさ。

 俺、薫姉ちゃんのこと好きだったから。』


 い、今、なんて言ったの? す、好きだったですって?


『なっ ななななななななによ?

 人をからかうのもいい加減にしてよッ!』


 私、将太君のことは弟のように思っていたから。好きだなんて……そんな。


『俺、薫姉ちゃんを嫁にもらおうと思っていたんだよ? 本気で。

 まあ、結局もう叶わない夢だから仕方ないけどね。』


 そう言うと将太君は少し、寂しそうに笑った。

 そんなこと、思っていただなんて……。

 急に、胸が締め付けられる思いがした。

 でも、苦しいというより、それは素直に嬉しかった。


『そうなんだ……。惜しいことした……かな?』


 ああ、やっぱりなんだか恥ずかしくて、うまく返せないわ?

 すると将太君は思い出したように手をポンと叩き、先を歩いていく一ノ瀬さんを振り返った。


『ああ、そうそう。俺、あの子の守護霊というわけじゃないようなんだ。』


 え? 「ようなんだ」って


『自覚がないの?

 じゃあ、なにか取り憑くような恨みでも? 将太君が、まさかね!』


『勘弁してくれよ。

 俺は誰も恨んではいないし、そもそもあの子、全然知りもしない子だぜ?』


『じゃあ、どうして今頃?』 


 それは私だって、戦後半世紀以上も経って、気づいたらるみちゃんの守護霊になっていたけれど。

 すると将太君は眉を寄せ、一ノ瀬さんの背中をどこか心配そうに見つめた。


『どうやら俺、あの朋子って子の。

 ……お腹にいる子に生まれ変わるみたいなんだ。』


『それはおめで……ええええええッ?!』

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