第20話
火炎瓶をベランダに投げ込まれて以来、雪雄は自分の部屋にいても不安は消えなかった。
奴はもうすでにここを特定している。自分の家すら安全地帯ではないのはとてつもないストレスだった。
奴が放った刺客が現れるかもしれないと思うと、夜も安心して眠れない。恐怖と不安で眠れない夜を過ごし、それでも睡眠を摂らないわけにはいかないから、気づいた時には心身が疲れ果てて意識が落ちているというのを何度も繰り返していた。
眠りも浅くなって睡眠時間も短くなっている。ここ何日かまともな睡眠が摂れた実感がまるでない。
それでもまだなんとかやれているのは、雪雄がまだ若いからなのだろうか。今まで若さを誇ったことなどなかったが、今回ばかりは自分の若さに感謝したい気持ちだった。
そんな時である。
急にインターホンが鳴り響いた。
初めは慧かと思ったのだが、すぐにそれは違うと思い至った。慧は家を訪ねる前には必ず連絡をするマメな男である。そんな彼がなんの連絡もなしにインターホンを鳴らすとはどうしても思えなかった。
しばらく居留守を使って様子を見よう――そう思った時もう一度インターホンが鳴った。
それから、
「NHKの集金に来ました」
と、扉の向こうからそんな男の声が聞こえてきた。
NHKの集金――おかしい、と雪雄は思った。確か最近払ったはずだ。それに、今まで踏み倒したこともない。
そう、これは――
間違いない。奴の放った刺客だ。雪雄は確信した。そうとわかればみすみす開けるわけにはいかない。
「いるのはわかってますよ夏目さん。あなたの家にはテレビがあるでしょう? なら払ってもらわないと困るんですよ。夏目さんみたいな若い人は、NHKは見ないから払わないとか抜かす人が多いんですよね。あなたのように払わない人がいると困る人がいるってことがわからないんですか?」
近所迷惑など顧みない大声で男は喋っていた。偽物のくせになにを言ってるんだ、と雪雄は思った。
しかし、相手が奴の刺客だというのがわかっている以上、このまま放っておくわけにもいくまい。こいつをぶちのめしてもしょうがないかもしれないが、穏便にことを済ませるためにも彼には少し痛い目に遭ってもらおう。誰かを殴れば少しくらい気が晴れるかもしれない――そんなことを思いながら雪雄は音を立てないようにしてドアに近づいた。
そこで一度深呼吸して心を落ち着かせてから鍵を開けて扉を開ける。
扉が開いて男の姿が見えると同時に、男の左腕からナイフが迫ってきた。拳銃を持っていたらどうしようかと思ったが、ナイフなら対処はできる。雪雄は決して喧嘩が好きではなかったが、荒れ果てた底辺高校に通っていたのでそれなりに喧嘩慣れはしている。ナイフを持った相手に絡まれたことだって何度もあるから、あるとわかっていれば充分対処できる。
自分を殺すべく迫ったナイフを避けると同時に、男の左手を殴りつけて持っていたナイフを叩き落とす。男は反撃されると思っていなかったのか、簡単にナイフを落としてくれた。男は落ちたナイフを拾おうとして反射的に身を屈ませるが、そんなことなどさせるわけがない。
落ちたナイフを思い切り蹴って階段の下へと追いやり、すぐにナイフを拾おうとして屈んだ男の鼻面に思い切りアッパーを叩き込む。手に広がるのは柔らかな鼻の軟骨を砕く感触。男は鼻血を撒き散らしながら後ろにのけ反った。
「ひ、ま、待――」
強烈な一撃を食らって完全に戦意を喪失したらしい男はなにかを言おうとしたが、雪雄はそんなものは一切気にも留めず、一歩踏み出して接近してから、アッパーを繰り出した手とは逆の手で返すように男の顎に向かってフックを繰り出した。
顎を殴られて脳を揺さぶられた男は、今度は横によろける。よろけたところに追い撃ちをかけるようにわき腹に蹴りを繰り出した。蹴りを食らった男はそのままアパートの階段を転がり落ちた。反撃をしてくるかもしれないと身構えていた雪雄だったが、男は持っていたナイフを拾ってよろめきながらおぼつかない足取りで逃げ出していった。
男が角を曲がって消えたのを見計らってから、雪雄は扉を閉めて部屋に戻った。
ベッドに腰を下ろして一息つき、
勝った――
どうせあの男は、今までの奴らと同じく、奴の催眠によって操られていたに過ぎないだろうが、今までなすすべなくやられるばかりだった雪雄があいつから勝ちを奪ったのは間違いない。
NHKの集金を騙って襲撃なんていう、使い古された古典的な手段などに騙されるものか。どうやらあいつは、雪雄がここまで喧嘩慣れしているとは思っていなかったと見える。
些細な勝利の余韻に浸っていると、案の定、登録されていない番号から電話がかかってきた。
「NHKの集金騙るなんていう古典的な手段に騙されるか」
雪雄は電話に出るなりそう吐き捨てた。
しかし、電話の向こうから聞こえてきた声は余裕で満ちていた。
『まあまあ、そんなことを言うなよ。古典だってリスペクトすべきものだと思わないか? もしかしてきみは、シェイクスピアもドストエフスキーも読まない人?』
「ふん。確かに古典作品はリスペクトすべきものだけど――誰かを騙せるのはいつだって誰にも知られていない最新の手口なんだよ。古典的な詐欺ってのは誰も騙せないのと同義だ」
『なかなかいいこと言うね。やっぱり頭は悪くないようだね、夏目くん。俺は頭のいい奴は好きだぜ。それにしても驚いたなあ。まさかきみがあんなに喧嘩慣れしてるなんて思ってなかったよ。ナイフで不意討ちをかければいけると思ったのは俺の思い違いだったみたいだ。考えを改めないとね』
奴は感心するような口調で言った。
この電話の主は、雪雄は喧嘩慣れしていることを知らなかった――それを考えると、こいつが雪雄の知り合いだったとするなら間違いなく中学の時の人間だ。雪雄が今のように喧嘩慣れをしたのは荒れた高校に進学してからのことなのだから。
「しかし、今回は随分と芸がなかったな。もしかしてネタ切れか? ちょっとばかり引き出しが少ないんじゃないの?」
雪雄は挑発するようにそう言った。
だが、そんな言葉を聞いても、奴の余裕が崩れることはなかった。
『おやおや。随分と調子いいこと言うじゃないか。もしかしてあのおっさんをぶちのめしていい気になってるわけ?』
「どうとでも言え。お前はあの程度じゃ済まさないからな」
こいつは殺さなければならない。そうしなければこの先の雪雄の人生に安寧は訪れないのだから。
『おー、怖いなあ。一体なにをするつもりなんだ? 電車のホームで突き落とす? 家に火炎瓶を投げ込む? それとも道端で誰かに襲撃でもさせるのか? そんなこときみにできるのかなあ。いいぜ。やれるもんならやってみろよ』
はっはっは、と、奴は余裕に満ちた笑い声を上げる。
「くっ……」
明らかな挑発。それはわかっている。まだ雪雄はそんなことができるような状態ではない。奴はそれをわかっているのだ。だから奴はこんなに余裕ぶっていられるのである。くそ。この余裕ぶった奴をぶちのめしてやりたい。ぶちのめして殺してやりたい。それを思うとふつふつと殺意が湧いてくる。
駄目だ。怒りに惑わされるな。冷静になれ。今は少しでも奴から情報を引き出すことが先決だ。落ち着け――落ち着かなければできるものもできない。
「お前、どうやら俺とは中学での知り合いのようだな」
雪雄は気を取り直してそんな風に切り出した。あえてこちらから情報を切り出して奴の口を滑らせようという魂胆である。
『んんー? どうしてそんな風に思ったのかな? そんなこと言ってなにか喋らせようとしたって無駄だぜ。生憎と俺は慎重なんだ。とてつもなくね。そんな揺さぶりには引っかからないよ。
『それに、きみのことを調べ上げて知り合いを騙っているだけかもしれないぜ。今の世の中、超能力が使えなくとも、相手のことを少し調べれば知り合いを騙るのなんて誰でもできるんだからね。こんな風に顔を合わせていないならなおさらだ。もしかしてそんなことも想定してなかったのかな? 駄目駄目。想像力が足りないなあ』
奴の言葉は相変わらず挑発的だったが、このように返してくることは想定内だった。確かに、自分で言っているように慎重なのは間違いないらしい。
余裕に溢れていても、油断はないと見える。余裕があることと油断するということは同義ではない。やはり簡単に奴の牙城を切り崩すことはできないか――
どうする――もう雪雄に切れるカードは少ない。そして残っている少ないカードも、どう使っても状況を引っ繰り返すことができるようなワイルドカードにはなり得ない。
弱い札をどう使うか――くそ、いい手が浮かばない。どうにかこれを駆使して情報を引き出さなければ――
「ところで、どうやってお前は俺のことを監視しているんだ? お前の手先が俺を襲撃した時、いつも馬鹿みたいにいいタイミングで電話をくれるじゃないか」
『おいおい。そんなこと言えばばらしてくれるとでも思ってるのか? そんなわけないだろう。企業秘密ってやつだ。俺はお喋りにかまけて足もとを掬われるお馬鹿さんじゃないんだよ』
奴がどうやって監視しているのかを、余裕にかまけて喋ってしまうなんて馬鹿にもほどがある。雪雄だって奴と同じ立場ならばそんなことは言わない。ここでそんなことをするような奴なら、すでになんらかの決定的になり得る情報を漏らしているはずだ。
『そうだねえ。こう言ったらきみはどう思うかな? きみがいない間に家に忍び込んで、大量のカメラと盗聴器を仕掛けたと言ったら?』
「な……」
このタイミングで言うのだからそれは嘘である確率が高いことはわかっていたが、思わずそんな声を上げてしまった。
嘘である確率が高いのにそんな声を出してしまった理由はただ一つだ。
超能力が使える奴ならばそれは決して不可能ではないからだ。
雪雄がいない間に忍び込んで大量のカメラや盗聴器を仕掛ける――超能力が使えるのならばそれは実に容易い。それに雪雄が住んでいるアパートは、築二十年の古いボロアパートだから警備会社と契約なんてしていないし、当然監視カメラもない。
『錠前突破』の能力だけあれば――
そこで雪雄はあることに気づく。
おかしい。いくらなんでもそれはあり得ない。
奴が超能力を手に入れたのは雪雄と同じ『超能力開発アプリ』のサイトであるはずだ。そこで手に入れられる超能力には絶対的なルールがある。
あのアプリで使えるようになる能力は一人三つまでのはずだ。
三つ――そのルールに例外はないはずである。いくら奴が雪雄よりも上手の超能力の使い手だったとしても、そこだけは同じのはずだ。
もうすでに雪雄は奴の三つの枠を確認している。雪雄の情報を調べ上げた能力である『電子操作』に『電子解析』、そして他人を操り襲撃者に仕立てることができる『催眠暗示』の能力だ。
これで三つ――枠はもう埋まっている。だから奴が『錠前突破』の能力が使えるわけがないのだ。
いや、待て。このアパートは古くてセキュリティが甘いんだから『錠前突破』がなくとも、多少のピッキング技術を持っていれば侵入するのは簡単だ。だから、奴が四つ目の能力を持っていると判断するのは早計である。
だが、しかし――
奴が雪雄の知らないなんらかの手段を用いて、四つ目の能力を持っているということはあり得るかもしれない。雪雄はその可能性を考える。
その理由は奴が持っている能力だ。奴が持っている能力の組み合わせはどう考えてもおかしい。『催眠暗示』の能力が、『電子操作』と『電子解析』に組み合わせるものとはどうしても思えないのだ。
『電子操作』と『電子解析』を選んだのだとすれば、その二つと相性のいい能力を選ぶのが普通だ。その能力がなんなのかはまだわからないが、『錠前突破』の能力が、カメラなどに映らなくなる『電子偽装』と、指紋が残らなくなる『指紋消失』とを組み合わせて使うように、『電子操作』と『電子解析』にぴったり当てはまる能力があるはずなのだ。
奴はなんらかの手段を用いて、四つ以上の能力を使うことができる? だから、相性がいいとは思えない能力を手にしているのではないのか。
もし、本当に奴が四つ以上の能力が使えるとなると――
ただでさえ悪い状況がさらに悪くなる。
『あれ。どうして黙ってるのかな? もしかしてもう諦めた? だらしないなあ。さっきまでの威勢はどうしたんだい?』
耳障りな甲高い笑い声が聞こえてくる。
「……お前は、何者なんだ……」
雪雄はその言葉に色々な意味を込めて言う。
『何者――うーん、そうだねえ。きみみたいに超能力を犯罪行為に使うしか能のない奴を裁く正義の味方ってところかな』
「正義の味方だと――ふざけるな」
『悪いけどきみにそんなこと言われる筋合いはないなあ。正義だって人それぞれなんだぜ。それともきみは自分に正義があるとでも思っているのかな? それはちょっと勘違いが過ぎるぜ。どう考えたって、超能力の悪用を止めようとしている俺の方がきみより遥かに正義があるじゃないか。そう思わない? きみが超能力を使ってやったことは間違いなく犯罪行為なんだから』
「黙れ! この人殺しが!」
雪雄はそう言って通話を切り、スマートフォンを放り投げてベッドに倒れ込んだ。
正義の味方だって――どう考えてもふざけている。確かに雪雄は超能力を使って犯罪行為をしたかもしれない。
だが、それを言うなら奴だって同じじゃないか。超能力を使って不正に情報を手に入れ、なにも知らない人間を操って先兵としている――これが犯罪行為でなくてなんというのか。
奴に正義があるのなら雪雄だって正義だ。奴の言う通り、正義は人それぞれ形の違うものなのだから。
そこで雪雄ははっと思い出す。
本当に奴はここに忍び込んでカメラや盗聴器を仕掛けたのか――まさかあの時、奴が本当のことを言ったとは思えないが、念のため確認した方がいいだろう。
雪雄は自分の部屋を捜索し始めた。
しかし、いくら探しても部屋からカメラも盗聴器も見つからなかった。
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