第19話

「それじゃあなー。また暇なとき行くからよ」


 友人のそんな言葉を聞いて、雪雄と慧は別れた。

 時刻は夜の八時過ぎ。雪雄と慧はフリータイムの終了までカラオケにいた。二人でカラオケに行ったのは久しぶりのことだったので、お互い好きなように歌った。最近の曲から懐かしい曲まで、自分たちが知っている限りの曲を歌いまくった。それをほぼ休みなしに五時間近く続けたのでかなり喉が嗄れてしまった。


 しばらくカラオケは行かなくていいな――そんな風に思うくらいである。

 カラオケを出たあとは、行きつけの定食屋で食事をした。カラオケで馬鹿みたいに歌ったことを除けば、いつもと同じ流れである。


 それでも雪雄の心は幾分か楽になった。


 慧と一緒にカラオケで歌っていた時は、自分が命を狙われていることを忘れられた。声を嗄らすのと一緒に恐怖も一緒に吐き出したのだと思う。


 だが、慧と別れて一人になると、それもすぐに消えてしまった。


 街を歩いている人間がすべて自分を狙っているのではないかという錯覚。姿の見えない恐怖。形のない疑心暗鬼。そんなものが雪雄の心を支配して染め上げていく。


 あのサラリーマンの男が、持っている鞄からナイフを取り出していきなり襲いかかってくるのではないか。

 あそこを歩いている大学生の集団にリンチされるのではないか。

 誰を見ても思うのはそんなことばかり。


 あの女は? あの男は? なにか疑い始めるとキリがない。どいつもこいつも自分を襲う敵に見えてきて、際限なく疑心と恐怖は広がっていく。


 やっぱり助けを求めるのが正しかったのではないのか――再びそんなことを思う。


 だけど、助けを求めたせいで、助けを求められた相手に危害が加わるのは嫌だったし、そんなことになったら自分のことを許せないだろうと思う。


 なにが正しい行動なのかわからない。今の雪雄は袋小路に追い詰められている。そんなものに正解などないというのがわかっていても求めずにはいられなかった。


 どうしてこんなことになったのか。


 超能力を手に入れたらすべてが変わると思っていたのに――いや、間違いなく変わるはずだったのだ。『枠』の外に出て、これからは不当な搾取をされない権利を得たはずだったのだ。


 むかつく元上司に復讐できた。

 大金も得られた。


 だから、超能力を手に入れたことは決して間違いではないはずだ。あれがなければ、今も雪雄は山岡に対して鬱屈した感情を抱いていただろう。前を向くことができないまま、人が絶対に抗うことができない巨大ななにかによって無理矢理前に引きずれていたはずである。そんなの正しいわけがない。


 あいつさえいなければ――雪雄は自分の命を狙う、姿の見えない殺人者に殺意を抱いた。


 恐怖と疑心に殺意が混じり、雪雄の感情は混沌と化す。

 殺してやりたい――心の底からそう思ったのは初めてだった。


 今の雪雄ならば、感情に任せて人を殺してしまった人の気持ちが理解できる。

 追いつめられて、どうすることもできなくなって、殺人に走ってしまった人はきっとこんな気持ちだったに違いない。


 今の雪雄はそれを同じだ。どうしようもなく追い詰められている。逃げ場も、隠れる場所もない。それを取り除くには、相手を排除するしかなくなっているのだ。


 そしてそれができてしまえば、雪雄の歯車は上手く回るはずだ。そして、雪雄には本来ならば愚かとしか言えないことを、咎められることなくできる力を持っている。不可能を可能にしてしまえるのだ。


 だが、それもできない。雪雄は奴の情報をまったく知らないに等しい――奴のボイスチェンジャーを通した声以外なにも知らないのだ。


 顔か名前――そのどちらでもいいからわかれば、あとはどうにでもできる。探偵かなにかを雇うこともできるし、それに今の雪雄には金も時間もある。それだけでも奴の居所を特定するのには充分だろう。


 居場所さえわかってしまえば――

 殺すことなど容易い。


 今の雪雄はどんな場所であろうとも痕跡を残さずに侵入ができるのだ。奴の居場所に忍び込み――包丁かなにかで心臓を抉ってやればいい。それで終わりだ。あとはその場所を密室状態にしてしまえば、不可能犯罪の完成だ。トリックもなにもない本物の不可能犯罪である。警察もそこに超能力なんてものがあるなどとは思いもしまい。


 何故なら超能力は、架空のものであると信じられているのだから。


 そんなことに思いを馳せているうちに、自分のアパートの前まで辿り着いていた。階段を上って廊下を進み、鍵を開けて自分の部屋の中に入る。


 もしかしたら奴の放った刺客が潜んでいるかもしれない――警戒しながらリビングに入った。


 部屋には誰もいなかった。念のため押しいれの中も確認したが、自分以外人の姿はどこにもない。それを確認したところで少しだけ安心し、一息つく。


 シャワーでも浴びようか、と思った瞬間――


 ベランダの向こうでなにかがぶつかる音がした。なんだろう、そう思ってそちらの方を向くと同時に雪雄は驚愕した。ベランダの向こう側が煌々と輝いている。一瞬なにかと困惑したが、すぐになにかが燃えているのだということを悟った。


 早く消さなければ大事おおごとになる――どうにかしなければ――と、考えていると、このアパートには消火器が設置されていることを思い出した。ある場所は燃えているベランダだ。行くしかない――そう決心してベランダに出る。


「うわっ!」


 ベランダに出ると同時に強烈な熱が押し寄せてきた。やばい。消火器を探す。消火器は燃えている場所の真逆の位置にあった。雪雄は消火器の安全ピンを引き抜いて、燃え盛る炎に向かって消火剤を噴射する。消火剤を浴びた炎はみるみる小さくなってすぐに消えた。すぐに処置したおかげで壁が少し焦げただけ済んだようだった。今日は洗濯物を干していなかったのが幸いした。燃えやすい化学繊維の服に火が移っていたらやばかったかもしれない。これなら隣の部屋にも被害は出ていないだろう。火の気がなくなって雪雄は一安心した。


 一体なにが――そう思って火の手が上がっていたところに視線を向けると、そこにはジュースの瓶が転がっていた。それを見て、雪雄は火炎瓶が投げ込まれたことに気づく。


 火炎瓶――誰にでも簡単に作れてしまうにもかかわらず、殺傷能力も破壊能力も高い凶器だ。タイミングがよかったからこの程度で済んだものの、下手をすればアパートは全焼し、死人が出てもおかしくなかった。その死人が雪雄だったという可能性は充分にある。


 もしも、火炎瓶がベランダの窓ガラスを突き破って部屋の中に入ったとしたら――部屋の中には燃えやすいものがたくさんある。一瞬で火は燃え広がって、さっきのように消火器を使う暇さえなかっただろう。そしてその時、運悪く寝ていたりしていたら――


 それを想像して雪雄の背筋は凍りついた。


 誰がこんなことを――怒りと恐怖が入り混じった混沌とした感情に駆られながら、ベランダから周りを眺めてみる。当然のことながら誰の姿も見えなかった。


 きっと、もうどこかに逃げたあとだろう。通りに誰もいないのを見計らって瓶を投げて、その場を離れるだけでいいのだ。それをするだけの時間は充分にあった。警察に被害を届けても、恐らく犯人は捕まらない。新宿駅で雪雄を突き落した奴を同じように。


 すると、この一連の騒動を見ていたかのようなタイミングでポケットの中のスマートフォンが震えた。かけてきた番号は予想通り知らない番号だった。雪雄は電話を取り、


「お前の仕業か!」


 と、いきなり怒鳴り声を上げた。


『いきなり怒鳴るなよ。うるさいなあ。きみは電話をかけてきた相手に怒鳴りつけるのが礼儀だとでも思ってるのか?』


 相変わらずスピーカーから聞こえてくるのはボイスチェンジャーを通したような誰とも判然としない甲高い声だったが、相手が奴であることは雪雄にはすぐわかった。


「なにが礼儀だ! ふざけるな! 火炎瓶を投げ込んできたのはお前の差し金だろ!」

『そうだけど――なにをそんなに怒ってるんだ? そういう風にしてると頭が悪そうに見えるぜ』


 電話の向こうから奴のけらけらという笑い声が聞こえてくる。その声で雪雄の怒りはさらに増していく。


「な、なにを言ってるんだ! 危うく死ぬところだったんだぞ!」


 雪雄のその言葉を聞いて、電話の向こうからほとほと呆れたとでも言いたそうなため息が聞こえてきた。


『なにを言ってるんだ。殺すつもりでやってるんだから死ぬような目に遭って当然だろう。そんなこともわからないのか?』


 やれやれ、と電話の向こうから心底雪雄を嘲るような声が聞こえてくる。


『前に電話した時に言っただろう? 近いうち殺しに行くって。それを忘れたのか? 物覚えが悪い奴だなあ。きみってそんなに頭悪かったっけ?』

「こ、こいつ……!」


 あからさまな挑発に雪雄は乗ってしまう。


『俺の記憶じゃあ、学校の勉強はできなかったみたいだったけど、決して馬鹿ではないと思っていたんだけどねえ。思い違いだったかな?』


 学校の勉強――雪雄が学校の勉強についていけなくなったのは中学一年の冬だ。それを知っているということは、こいつは雪雄と同じ中学の人間なのか――


 仮にそうだとすると、あの同窓会の日に顔を合わせた可能性がある。誰だ。同窓会に来ていた面々を思い出す。卒業して五年が経過して様変わりしてしまった同級生たち――その中に奴がいるかもしれない。くそ、ふざけやがって。どいつだ。あの場にいた誰も彼もこんなことが平気でできるような人間だとは思えないし、思いたくない。


『まあいいや。ところでちょっと訊きたいんだけど、次はどんな手段で殺しにかかるのがいいかな? バリエーションが豊富な方がいいと思わない? いい案があったら教えてくれよ』

「ふざけるな! 死ね!」


 雪雄は思い切りそう怒鳴りつけて電話を切った。電話を切ってしばらく経ってから、あそこで怒りに任せて通話を切ってしまったことを少しだけ後悔する。


 奴にもっと喋らせて情報を引き出すべきだった。どうやらあいつは喋るのが好きなようだし、上手くやれば情報を出させることができたかもしれない。


 くそ――いいように弄ばれた。雪雄はそれを悔しく思いながらベッドに寝転んだ。


 だが、収穫はあった。


 奴は中学の同級生である可能性が高い。奴は雪雄が勉強についていけなくなったことを知っていた。これは確定ではないが、あの同窓会に参加していた可能性もある。あの同窓会に参加していたのは、中学三年の時、雪雄と同じクラスだった人間だけ――参加者は何人かの欠席を除いて三十名弱。その中に奴が――


 駄目だ。雪雄は首を振って思い直す。そうと決めるのにはいくらなんでも早過ぎる。そうであれば雪雄としても嬉しいことではある。が、それは根拠のない希望的観測に過ぎない。あんな奴を相手にして初めから決めつけてかかるのは危険すぎる。


 それに、奴が雪雄の知り合いだというのだって、奴が自己申告しただけに過ぎないのだ。まったくかかわりのない他人が、昔の雪雄のことを調べ上げて知り合いを騙っている可能性は充分にあり得る。奴の持っている超能力を駆使すれば、別に隠されているわけでもない雪雄の過去を洗いざらい調べ上げることは当たり前のようにできるのだから。


 考えれば考えるほどわからなくなる。

 思考の泥沼に嵌っていく。

 これも奴の策略なのか――


 相手はとてつもなく狡猾だが、付け入る隙は小さくともどこかに必ずあるはずだ。奴は自分が絶対的に優位な立場にあると思っている――奴の言動からしてそれは明らかだし、雪雄もそうだと思う。


 絶対的な優位に立っていれば、誰だって多かれ少なかれ油断はするものだ。そこを狙って、こちらが少しでも優位になれる情報を引き出すしかない。


 それにしても――と思う。


 奴の放った刺客が雪雄の部屋に火炎瓶を投げ込んできたことを考えると、奴は間違いなく雪雄の住所を特定している。


 普通に考えればどこかに逃げるべきだ。


 しかし、奴が持つ『電子操作』と『電子解析』を駆使すれば、どこに逃げても簡単に特定できてしまうはずだ。別の人間の戸籍を買い取って整形をして違う人間になりすましたとしても無駄だろう。現代において情報を手に入れる、ということに関して『電子操作』と『電子解析』は最強に近いのだ。


 逃げることは不可能に近い。小細工も無駄だ。仮にパソコンも携帯電話もなにもないジャングルの奥地に逃げ込んだって、アメリカの軍事衛星でも使えばそんなところであっても特定できてしまう。


 やはり、なにがなんでも奴を排除する以外に方法はない。

 どうやって――どうやればそれができるのか。

 雪雄はベッドの上でひたすれそれを考え続けていた。

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