第18話

「なんかお前、最近そわそわしてないか? なにかあったのか?」


 今日も雪雄の部屋に訪れていた慧がそんな質問をしてくる。

 新宿駅のホームで突き落とされてから三日が経過していた。近いうちまた殺しにくると言った奴、あるいは奴によって操られた者はまだ現れていない。いつもと変わらない日々――のはずだった。


 しかしあの日――新宿駅で突き落とされてから、雪雄の見える世界は一変してしまった。


 外を出歩くと、なんでもないはずの他人がすべて自分の命を狙っているのではないかと思えてきて気が気でない。いつどこで催眠をかけられた人間が襲われるのか――そればかり気になって雪雄は疑心暗鬼の螺旋に囚われている。


 外を出歩くのが怖い。

 他人が怖い。

 自分の中から湧き出してくるのはそればかりだ。


 日が経つにつれてその恐怖と疑心は増していく。それは雪雄の心を蝕み、少しずつ壊していくかのように。


 あいつは、今の雪雄を見て楽しんでいるのだろうか。恐怖に犯され、疑心暗鬼に囚われている雪雄の姿を見て、けらけらと不愉快な笑い声を上げているのか。


 そう思うと苛立たしいし、奴を一刻も早く奴をどうにかしなければならないが――相変わらず奴の情報は皆無だ。


 である以上、奴を殺して脅威を排除することも不可能である。奴が雪雄の知り合いかもしれないというのも無意味だ。知り合いかもしれないとわかったところで、その知り合いが誰なのかさっぱりわからないのだから。


 このまま殺されるのを待つだけなのか――


 そんなことがあってたまるか。山岡に復讐を果たし、大金を手に入れて雪雄は変わるチャンスを得られたのに――そんなことがあっていいはずがない。あるものか。


「いや、別に大丈夫だ。なんにもないよ。気にしないでくれ」

「そうか」


 慧はこれ以上、今の雪雄の様子について訊いてこなかった。雪雄がそれについて訊かれたくないというのを慧は察したのだろう。


 今の状況について訊かれたくないというのは事実だが、一体雪雄はどんな行動を取るのが正しいのか――


 姿の見えない殺人者に命を狙われた時のマニュアルなど、どこを捜したって見つかるわけもない。その手のミステリーがマニュアルになるのかもしれないが、そんなものが現実に役立つわけもない。あれは初めから終着点が決まっているわけで、雪雄にはその終着点はどこにも用意されていないのだ。


 終着点は二つしかない。

 雪雄が奴を見つけ出して殺すか、自分が奴に殺されるか――それだけだ。

 慧に、今ここで自分は命を狙われていることを話してしまうべきか――


 待て。いくらなんでもそれは駄目だ。


 雪雄のことをなんらかの手段によって監視している奴がそれを知ったら、慧まで殺されるかもしれない。あんなことを平気でする奴だ。雪雄に協力した人間の排除を躊躇わないだろう。


 それに――


 慧が奴ではない証拠はどこにもない。相手の姿が見えない以上、いま目の前にいる友人が奴である可能性はどうやっても捨て切れない。


 もし、そうだったとするなら――

 この場で殺されるかもしれない。

 そこまで考えて、雪雄は思い直す。


 そんなことあるわけがない。慧が奴で、あんなことを平気でできる人間のわけがない。女癖は悪いが、人殺しなどするような奴でないことは雪雄がよく知っていることだ。それを忘れたのか。中学からの友人をそんな風に疑うなどどうかしている。


 疑いたくないが、疑わずにはいられないというのが現状だ。

 どうすればいい?

 どうすればこの状況を打破できる?


 奴の命令に従う――それは駄目だ。絶対に駄目だ。それだけはしてはならない。守らなければならない一線だ。超能力がなければ――


「なあ」

 慧が突如口を開いた。雪雄はいきなりの言葉に少し驚きながら、

「なんだよ」

 と、自身の動揺をできるだけ悟られないようにして言った。

「別に大したことじゃねえんだけど、この前の日曜、お前衣笠とデートしたんだろ? どんな感じだったんだ?」

 雪雄はその言葉を聞いて少しだけ安心した。


「悪くなかった――と、思うけど。話も弾んだし、最初のデートとしては感触はいい方のはず」

 雪雄はあの時のデートの感触を正直に述べた。

「そうか。お前の様子がなんか変なのは、デートが上手くいかなかったからじゃないんだな」

「そうだな……」


 どうするべきか――雪雄は逡巡する。

 慧に本当のことを告げるべきか――いま自分はわけのわからないサイコパスに命を狙われていると、ここで友人に言ってしまうべきなのか?


 だが、そうなれば慧に超能力のことも話さなければならなくなる。奴の目的は超能力の存在を知り、それを持っている人間の排除だ。どうする――そうなれば慧も同様に奴によって命を狙われてしまうかもしれない。


 やっぱり、言えない。言うべきではないだろう。

 この件はやはり、雪雄が一人でケリをつけなければならない。


 しかし、それはあまりにも分が悪い。こちらは奴のことをまったく知らないのに対して、奴にはこちらの行動が筒抜けなのだ。それだけでも最悪なのに、奴の持っている能力は雪雄よりも強力なうえ、その練度も遥かに上回っているのだ。まともにぶつかっては対抗などできるはずもない。

 どうする――


「それなら次のデートはどうするんだ? 決まってるのか?」

「いや。どうしたらいいのかよくわからなくてさ。無難に考えると映画とか渋谷とか原宿で買い物ってところなんだろうけど、映画はともかくとして、彼女には、どうにも渋谷とか原宿とかがそぐわない気がするんだよね。まあ、毛嫌いしてるってこともないだろうけど」

「あー確かに、あの子は渋谷とか原宿できゃぴきゃぴしてるような頭の軽いタイプじゃなさそうだもんな。そういやこの前はどこ行ったんだ?」

「神保町だよ。あそこには古本屋がたくさんあるから色々案内してもらった。だから次はこっちがプランを考えないといけないって思ってね」

「二度目のデートも相手任せじゃあ男としてちょっと駄目だよな」


 慧はうんうんと頷いてそう言った。


「まあ、そういうわけだ。これからメールなりなんなりして彼女の好きそうなのをそれとなく聞き出してみるつもり。デートプランを考えるのはそれからでも遅くないだろ?」

「それもそうだ。下手なことするよりそっちの方が無難かもな。衣笠は俺たちみたいに毎日が暇ってわけでもないだろうし」


 相手は真面目な大学生である。雪雄のように暇を持て余しているわけではない。こういうことは焦らず慎重にいき、上手に距離を測りつつ進めていくのが定石だ。


「というわけだ。お前暇だろ? これからどっか行こうぜ?」

 と、いきなり慧がそう切り出した。雪雄は慧の唐突な発言に少し首を傾げた。

「まあ、確かに暇だけど。どうしたんだよ、いきなり。ていうかどっかってどこだよ」

「そんなこと言うなよー。なんか嫌なことがあったみたいだから気晴らしにでも行こうぜって言ってるのにさ」


 慧は肩を竦めてそう言った。

 なんだそういうことか、と少しだけ雪雄は安心した。慧も慧なりに気を遣ってくれたらしい。友人のその気持ちに心の中で感謝する。


「で、どこか行きたいところあるか? あんまり金がかからないとこならどこでもいいぜ」

「そうだな――じゃあ、久しぶりにカラオケでも行こうぜ。平日の昼はフリータイムやってるからずっと居座ってもあんまり金かかんないし」


 それにカラオケのような場所ならば、下手なことすれば大騒ぎになるし、奴も刺客を放ってこないだろう。


「おっし。じゃあさっさと行こうぜ。今は――二時か。確かフリータイムは夜の七時までだから二人で五時間ってとこか。充分もとはとれそうだな」

「お前、金持ちのくせにそういうとこは相変わらずだよな」


 雪雄は少し呆れながら言った。


「金持ちなのは俺じゃなくて俺の親だよ」

「親の脛かじってうちの三倍くらいの家賃のマンションに住んでる奴が言うことじゃねえよ」

「うるせえ。細けえことはいいんだよ」


 そんな他愛もない言い合いをしつつ、雪雄と慧は外に出て、カラオケのある駅前に足を運んだのだった。

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