第17話

 雪雄が解放された時、もうすでに時刻は夜になっていた。

 雪雄は、駅員室で自分がホームに転落した事情を説明した。


 ホームの外側を歩いていたら、いきなり誰かに横から押されたことを駅員に述べた。駅員の方も雪雄が誰かに突き落とされたと聞くと親身になって話を聞いてくれた。

 突き落としたのは誰か見たかと訊かれたが、雪雄は正直に見ていないと答えた。恐らく、雪雄を突き落した人間が捕まることはないだろう。あの場所で雪雄を突き落した誰かを特定するにはあまりにも人が多すぎる。


 駅員室を出て、雪雄はあることが心配になった。こんな風に電車を止めると、あとになってとんでもない額の請求書が来るという話を耳にしたことがあったからだった。そのことを駅員室に戻って訊いてみると、あなたが突き落とされたのは多くの人が目撃していますから大丈夫ですよ、と言ってくれた。


 どうやらそのとんでもない額の請求書について心配する必要はないみたいだ。

 雪雄が『すみません。ご迷惑かけました』と言って頭を下げると、駅員は人のよさそうな笑みを見せて『ホームを歩く時は気をつけてくださいね』と言った。


 そして再び駅員室を出て、歩き出すとポケットの中のスマートフォンが震えた。

 この図ったようなタイミング――もしかして――と、思いながらスマートフォンを取り出して画面を見ると、案の定、登録されていない番号からの電話だった。

 雪雄が電話を取ると、


『あれ。電話に出るってことは夏目くん生きてるんだ。運がいいねえ。線路に突き落とされたってのに』


 雪雄のことを嘲笑うかのような、ボイスチェンジャーを介した甲高い声が聞こえてきた。


「ふざけるな。突き落としたのはお前だろう!」


 雪雄は苛立ちを隠さずに電話の向こうに怒鳴りつけた。


『おいおい。言いがかりはよしてくれよ。俺はきみのことを突き落したりなんてしないぜ。そういうのはよくないんじゃないかな。疑わしきは罰せず、ってよく言うだろう? 決めつけないでほしいな』


 電話の向こうからけらけら笑い声が聞こえてきた。その声が雪雄の怒りはさらに高まった。


「なにを言ってるんだ! あんなことするのはお前しか考えられないじゃないか!」


 電話の向こうにいる奴は、雪雄のことを殺してやると言っていたのだ。こいつ以外に誰がこんなことをするというのか。


『確かに俺はきみのことを殺してやるとは言ったけどね、夏目くん。俺が直接出張ってきみを殺してやるなんて一言も言ってないぜ』

「なに?」


 雪雄の言葉尻は思わず上がってしまった。


『俺はね、そこらへんにいた善良な市民にお願いしただけだぜ。きみの写真を見せて、今日はお出かけらしいから新宿駅あたりで彼を見かけたら突き落としてくれってね』

「なんだと?」


 雪雄はその言葉を聞いて思わず目を見開いた。


「お前……どこのどいつにそんなことをやらせたんだ? 金をつかませたのか?」


 雪雄のその言葉を聞いて、奴は電話の向こうでまた笑い声を上げていた。


「な、なにがおかしい!」

『おかしいじゃないか。僕がそんな無駄なことをすると思うのか? 相変わらず想像力が足りないなあ、夏目くん。僕らは一体どんな人間だったのか忘れてしまったのかな? 線路に突き落とされた時、一緒に落としたんじゃないか? それなら早く拾ってきた方がいいぜ。まあ、命の保証はしないけどね』


 けらけらと嘲笑うその声を聞いて雪雄は考える。

 それがなにかはすぐに思い至った。

 まさか――


「お前――超能力を使って、俺のことを誰かに突き落とさせたのか?」

『その通り! その通りだよ夏目くん。僕らにはそういうことができるんだからそうした方がリスクが少なくていいじゃないか。人間、誰だって最小のリスクで最大のリターンが得られる方がいいと思うだろう? 俺だって同じさ。下手して警察に捕まりたくないからね』


 超能力を使って誰かに突き落とさせたなら、奴が使った能力は『催眠暗示』の能力に違いない。完全に人間をコントロールして操り人形にできなくとも、超能力による催眠をかけて特定の状況下で特定の行動をさせるくらいはできるはずだ。


 いや、あるいは、『催眠暗示』の能力は雪雄が思っているよりも遥かに強力なのかもしれない。もしそうなら、人を意のままに操るのできるだろう。なにしろこれは超能力なのだ。充分にあり得る。


 もし、そんなことが可能なら――雪雄の『催眠暗示』に対する想定は甘かったことになる。考えを改めるべきか――


 だが――

 それだと違和感がある。


 奴が持っている能力は『電子操作』と『電子解析』のはずだ。『催眠暗示』の能力はどう考えてもその能力と相性のいいものではないからだ。


『超能力開発アプリ』で得られる超能力は他のものと組み合わせて力を発揮するものが多い。『電子操作』と『電子解析』を選んでおきながらどうしてそれらとまったく関係のない『催眠暗示』の能力を選んだのか。それがわからない。


 それにもう一つある。


 奴が『催眠暗示』の能力を選んだとして、それならどうして誰かに突き落とさせるという手段を取ったのか。確かにそうすれば奴が疑われる確率は低くなる。


 だが、そんなことをしなくとも、雪雄に直接催眠をかけた方が確実なのではないか。雪雄に催眠をかけて自発的に電車の来るホームに飛び降りさせた方が手っ取り早いのではないだろうか。どうしてそれをしなかったのだろう。


『催眠暗示』の能力では他人を自殺させることはできないのか――いや、それでは普通の催眠術とさして変わらない。それぐらいできなければ超能力とは言えないだろう。これは超能力なのだ。一般的な尺度で考えられるものではない。


 そうだ――と、雪雄は思い出した。


『催眠暗示』の能力は、確か対象と目を合わせなければ術にかけることができなかったのではなかったか。


 それならば雪雄に直接催眠をかけなかったことも納得できる。

 待て。おかしい。考えろ。こちらは奴の顔を知らないのだ。それなら直接雪雄に催眠をかけても問題ないのではないか。


 奴には直接雪雄に催眠をかけられない理由があった――そうとしか考えられない。


 直接出向くわけにはいかない理由――それはなんだ?

 まさか、こいつは、雪雄の知っている人間なのではないだろうか。

 そう考えると、雪雄に直接催眠をかけなかった理由も納得できる。

 しかし、そうなると一体誰だ――この電話の向こうにいるのは何者だ――


 確か、前に電話をかけてきた時、こいつは『久しぶり』などと言ってなかっただろうか。


 いや、思い出した。間違いなくそう言っていたはずだ。

 この電話の向こう側にいる人間は――やはり雪雄の知り合いなのか。


『おいおい。どうしちゃったんだ、いきなり黙っちゃって。もしかしてぶるってるの?』


 電話の向こうから聞こえてくる声は雪雄を嘲笑うかのようだ。

 これが本当に、雪雄の知っている人間なのか――


「お前――俺の知ってる奴なのか?」

 雪雄は恐る恐る訊いた。それを聞いて電話の向こうで再び笑い声が上がった。


『なんだ。今さら気づいたのか。おっそいなあ。遅い奴は早い奴より嫌われるんだぜ? それに最初に電話した時言ったじゃないか「久しぶり」って』

「……誰だ、お前」


 雪雄は低い声を出して質問する。


『答えるわけないじゃないか。どうして殺す相手にそんなことを教える必要があるんだい。俺は無駄なことが嫌いでね。きみは最後の最後まで俺が誰かわからずに死んでいくんだよ。ああ。そうそう。俺は寛大だからもう一度訊いておいてやろう。これで超能力のことを忘れる気になったかな?』

「そんなわけあるか。お前の言いなりになんてなるか」

『ああそう。じゃあ、また近いうち殺しにいくから覚悟しておけよ。じゃあな』


 奴はそんな言葉を残して通話を切った。

 念のためにこの番号にかけ直してみたが、案の定、返ってきたのは『現在この番号は使われておりません』というメッセージだった。


 くそ――雪雄は歯を軋らせた。行き場のない苛立ちをできる限り隠しながら、駅の構内を歩いていく。雪雄の地元に向かう電車は、もう動いてはいるようだったが、あの転落騒ぎのせいで大きくダイヤが乱れている。


 頭に中に響くのは、ボイスチェンジャーを通した、雪雄のことを心底嘲笑うかのような笑い声。あいつは一体誰だ。雪雄の知り合いだと、あいつは自分で答えた。


 だが――


 あんなことが平気でできるような奴が知り合いにいるのか――それがわからない。電車が来る線路に平気で人を突き落すようなことができるような人間が本当に雪雄の知り合いなのだろうか。そんな恐ろしいことを平気でできるような奴など――


 いや、もしかしてこれはあいつの策略なのではなかろうか。自分は知り合いだと言って、雪雄の動揺を誘っている――それはあり得る話だが――


 しかし、それならばどうしてそんなことをする? あいつは自分が殺そうとしている相手に知り合いかもしれないというのをほのめかして、雪雄が怖れ慌てる姿を見て楽しむようなサイコパスなのか? その可能性は否定できない。


 話している限り、人殺しというものにまったく躊躇は感じられないし、また罪悪感も抱いているようにも思えなかった。雪雄を殺すのを、狩りかなにかのように楽しんでいる節さえあるように思える。

 雪雄が線路に突き落とされて命からがら生き残って、そのあと図ったようなタイミングで電話をかけてきたのだって、雪雄が恐怖し、慌てる姿を見たいがためだったのではないのか。


 そもそも、奴の電話のタイミングも変だ。まるでホームで突き落とされてから、駅員室で事情を話すまでの経緯をすべて見ていたとしか思えないタイミングで奴から電話がかかってきた。


 奴は――あの場に――人で溢れていたあのホームに――雪雄のことが見れるような場所にいたのではないか。


 雪雄が死ぬのを――あるいは生き残る場面を目撃するために――


 いや――それなら雪雄に直接催眠をかけてもよかったのではないのか。あの時、あのホームには人がたくさんいたのだ。


 仮に奴が本当に雪雄の知り合いであったとして、あれだけ人の数が多かったら気づかない可能性の方が高い。いくら催眠をかけるのに目を合わせる必要があるとしても――恐らく、催眠をかけるのにそれほど長い時間目を合わせなければならないってことはないだろう。


 きっと一秒――あるいはその半分でいいのではないだろうか。いくら知り合いだったとしても、あの人の波の中ではほんの一秒以下の時間目を合わせたくらいでは、知り合いであると気づかない可能性は充分にあり得る。やはり、奴が自分の知り合いだというのはブラフなのだろうか。


 奴の狡猾さを考えると、この場に出張っていたとは思えない。この場に来ていたのなら、わざわざ人を使って突き落とす必要もないだろう。それなら一体どうやって奴は雪雄の状況を把握していたのか。


 わからない。

 色々な考えが生まれては弾けて消えていく。どれもこれも正しいと思えない。


 雪雄は改札口を通ろうとしてその前で立ち止まった。

 まだあのホームは人が溢れている。あの騒ぎで電車が遅れているから普段よりも人が多いだろう。


 もしも――

 その中に、先ほど雪雄を突き落した奴が――あるいは奴によって催眠をかけられている奴がいるとしたら――


 また突き落とされるかもしれない。


 自分の目の前に巨大な鉄塊が迫りくる計り知れない恐怖――強烈に感じられた死の匂い――あの表現のしようのない感覚は今でもはっきり残っている。それを思い出すと足もとが竦んだ。生まれて初めて電車のホームに足を運ぶのが怖いと思った。先ほどは運よく難を逃れることができたが――


 二度目はあるだろうか。

 もう一度突き落とされて、助かることができるのだろうか――


 あるかもしれないし、ないかもしれない。

 先ほどのように突き落とされるということを失念し、油断してホームに上がるつもりはない。充分に警戒はするつもりだ。


 だが――

 相手は超能力を持っている。先ほどと同じ手段を取ってくるとは思えない。

 下手をすれば――


 あのホームにいる人間全員が、奴によって催眠をかけられていてもおかしくない。

 顔も名前も知らない大勢の他人が、自分の命を狙ってくる――

 雪雄はそれに思い至ってとてつもない恐怖を覚えた。


 あり得ない――と思いたいが、それはあり得てもおかしくないのだ。

 何故なら相手は超能力を持っているのだから。

 それぐらいできたって――


 今日は電車を使うのはやめよう。そこまでして電車に乗らなければならないということもない。多少金はかかってしまうが、バスを使おう。バスならばいくら客が少なくとも、その中で襲われるということはないはずだ。


 雪雄は踵を返して、駅の構内を出てバスのホームへと向かった。

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