第16話

「今日は楽しかったよ。またねー」


 美優はそう微笑んで、手を振りながら小田急線の方へと歩いていった。

 人の多い場所でそんな風によそ見をして歩くと危ないぞ、と雪雄が思っていると、美優は案の定ぶつかってしまった。相手は三十代半ばくらいの男だ。彼女はその男に向かって申し訳なさそうに何回も頭を下げて、それから恥ずかしそうな顔をしてこちらを見た。


 声が聞こえる距離ではなかったので、雪雄は、大丈夫大丈夫というようなジェスチャーをする。それを見てから美優は方向転換して、今度はよそ見をせずに歩き出した。美優の姿が完全に人混みの中に消えたのを確認してから雪雄は踵を返して歩き出す。


 今日は久々に有意義な一日を過ごせたと思う。

 雪雄は美優に神保町を案内してもらい、古本屋を何軒も巡った。


 途中、有名らしいカレー屋で昼食を摂って、また古本屋を巡った。今は絶版になっていて、古書店以外では手に入らない本を何冊も見つけてついつい買ってしまった。来る時はほとんどなにも入ってなかった鞄がぱんぱんになっている。


 デートで古本屋巡りというのは初めての経験だったが、感触としてはかなりよかったと思う。別れるまでずっと会話は途切れず弾んでいたし、付き合う前のデートとしては満点に近いだろう。


 できることならこのあと夕食も一緒にしたいところだったが、残念ながらそれは叶わなかった。これから美優は、通っている大学の近くで下宿している友人のところで課題をやるという話だ。真面目な彼女らしいと思う。


 彼氏でもないのに、美優のことをその友人のところまで送っていくというような図々しい真似はできないし、したくもないので、少々名残惜しいが今いるこの場所――新宿駅で別れた。一緒にディナーは別の機会でいいだろう。今日の感触ならば、またデートに誘っても断れることもないはずだ。


 次があると思うと、雪雄はなんだか嬉しくなった。

 今日は美優に案内してもらったから、次に誘うのなら自分の番だ。一体どんなところがいいだろうか。美優くらいの歳の女の子ならば渋谷や原宿あたりが無難なのだろうが――彼女がそのあたりの場所を好むとはあまり思えない。


 東京に住んでいて、年頃の女の子なのだから、渋谷や原宿に一度も行ったことがないとは思えないが――どうにも彼女は渋谷や原宿というような派手な雰囲気の場所がそぐわない。


 知的な文学女子な美優には、やっぱり古本屋がたくさんある神保町が一番似合っている気がする。


 が、だからといって渋谷や原宿を毛嫌いしているということもないだろう。うーん。なかなか難しい。そういえばこんなことで悩むのは久しぶりだと雪雄は思った。


 雪雄は人で溢れ返っている新宿駅を歩き出した。

 美優と別れて一人になり、そういえば、と思い出す。

 出かける前にかかってきたあの電話――超能力のことを忘れなければ殺すと言ってきたあいつ……。


『近いうち殺してやるから楽しみに待ってるといい』


 その台詞を思い出し、雪雄は背筋に怖気が走った。

 この新宿にはいま数え切れないほどの数の人間がいる。その中に――あいつが――電話の向こう側から雪雄のことを殺すと言ってきたあいつがいるのではないだろうか。


 雪雄はあたりを見渡す。日曜夕方の新宿駅はどこも人だらけだ。

 もしかしたらこの中に――自分の命を狙う殺人者がいるかもしれない――そんなことを思うと、ここにいるすべての人間が自分の命を狙っているのではないかと思えてくる。こんな人の多いところで不意討ちをされたら、相手の顔がわからないので対処のしようがない。


 どうする――

 雪雄は思案する。


 駅から離れてバスを使って地元まで帰るか――いや、待て。考えろ。もしも奴がいまつけているのだとしたら、ここでいきなり行動を変更するのはよくない気がする。相手につけられているのが悟ったのバレてしまう。


 上手く奴をまくことができればいいが、できなければ――なりふり構わずこちらの命を狙ってくる可能性は充分にあり得るはずだ。


 それに相手は超能力を持っている。なにをしてくるかなど想像もつかない。

 そして当然、雪雄は尾行をまく手段なんて知らない。


 下手に動くのは危険か……?

 下手なことはするべきではない。


 しかし、相手の姿が見えない以上、こんな人の多い場所にいつまでも留まっているのはもっと危険だ。


 だが、人が少なくなるまで時間を潰すのも同じく危険である。命を狙われている人間が、人の数が減ってあたりが暗闇に閉ざされた道を歩いていたら殺してくださいと言っているようなものだ。


 いや。

 人が多い今なら、奴も強行的な手段はとらないはずだ。相手の姿が見えないから恐怖するわけで、多くの人がいる場所というのは比較的安全である。多くの人の目のある中で誰にも目撃されずに誰かを殺すのはとても困難なのは、超能力があっても同じのはずだ。


 それに、いまあいつが雪雄をつけていると決まったわけではない。ただ、相手の姿が見えないからそう思ってしまうだけだ。美優といる時も、今も不審な気配は感じていない。


 いまこの場に奴がいないのならば――

 さっさと逃げてしまうのが吉ではないのか。


 自分の家に逃げ込んだら絶対大丈夫ではないが――少なくともここにずっと留まっているよりは安全だし、なにより安心できる。


 早くここから立ち去ってしまおう――雪雄はそう判断して改札口を抜けて、地元に向かう電車のホームに上がった。電車に乗ってしまえば奴も手を出すことはできないはずだ。


 日曜の夕方だけあってホームはかなり混み合っていた。雪雄は少しでも人の少ない場所に行こうとして、ホームの外側を歩いていく。後ろの方は真ん中よりも空いているはずだ。


 すると、自分が乗る方の電車がくるというアナウンスが聞こえてきた。それを耳にしてそろそろこのへんで止まろうかと思った時――


 どん、と、雪雄の身体が横合いから思い切り押された。いきなりだったので雪雄はバランスを崩して、そのまま線路に落下してしまう。


 空中で、自分よりも高い位置から誰かの悲鳴が聞こえた。

 なにが起こった――雪雄は状況が飲み込めず混乱していた。

 わけもわからず混乱していると、自分の目の前から電車が迫ってくる。

 身体が線路に着地する。痛みはまったく感じなかった。


 は? なんでこんなところにいるのだ。そうだ。誰かに――

 そんなことを考える間もなく、轟音とともに人を簡単に合い挽き肉へと変換させる鉄の塊が近づいてくる。


 やばい。早く上に上がらないと――

 そう思っても身体は言うこと利かない。身体が線路の上にべったりと貼りついてしまったかのようだ。鉄塊が迫る。このままだと――


 急激に時間の流れが遅くなるのを感じた。あと何秒かで雪雄の身体の元に迫るはずの電車がなかなか来ない。いま雪雄の目にはなにもかもスローに映っている。


 早く――このままだと本当に――

 雪雄の身体はやっと動き出し、自分を轢き殺す電車が向かってくる線路の上から横に飛んだ。


 その次の瞬間、遅くなっていた時間の流れが元に戻り、先ほどまで自分がいたところに電車が入り込んでいた。


 危なかった……。

 あと一秒、いや半秒でも遅れていたら、雪雄は見るも無残なもの言わぬ肉塊になっていた。そう思うと言いようのない悪寒を感じる。


 雪雄は安堵のあまり腰が抜けてしまって立ち上がることができなかった。

 すぐに隣のホームから騒ぎを聞きつけた駅員が何名かやってきて、雪雄のことをホームの上に上げてくれた。


「なにがあったのか事情を聞きますので、駅員室まで来てもらえますか?」


 駆けつけた駅員の一人が雪雄にそう言った。

 雪雄は頷いて、駅員に肩を貸してもらいながら駅員室に向かった。

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