第10話
雪雄は机の上でスマートフォンが震える音で目を覚ました。
ファミレスで食事を摂ったあと、雪雄は帰宅してシャワーを浴びて汗を流し、すべてをやり終えて気が抜けたのか、そのままベッドへと倒れ込んですぐ寝てしまった。
一体誰だろう――と、思いながら寝惚けた頭でスマートフォンを手に取ったところで雪雄は思い出した。
今日の夕方、美優と会う約束をしていたのだ。画面を見ると、やはり彼女からの着信だった。それを見て雪雄の眠気は一気に吹き飛んだ。画面を操作して耳に当てる。
「はい」
『あ、夏目くん? 今どこにいるかな? 駅に着いたんだけど……』
「ごめん。ちょっと居眠りしててさ。まだ家なんだ。すぐそっちまで行くよ。どの辺に行けばいいかな?」
雪雄は申し訳ない気持ちと焦りを込めて言った。
『今は東口の方にいるから、そこで待ってるよ』
「わかった。もし、見つからなかったらまた連絡する。それじゃあまたあとで」
『うん』
彼女の言葉を聞いたのを確認して雪雄は通話を切った。それから急いで準備を始める。
ただ本を借りるだけだとは言っても、相手は女の子なのだし多少は身なりを整えるのが礼儀というものだろう。
雪雄はだらしない部屋着から着替える。デートというわけではないので、特別に気合いを入れるわけではないが、異性と顔を会わせるのに恥ずかしくない程度の格好だ。それから鏡の前で軽く寝癖を整えてから部屋を飛び出す。
いつの間にか外はすっかり夕方になっていた。空の色は青からオレンジに変わっている。
雪雄は夕方の街を走って美優のいる駅を目指す。幸い、雪雄の住んでいるアパートは古いが駅からは近い場所にある。走れば五分もかからないだろう。
しかし走るのなんて久しぶりだったので、美優が待っている駅前東口に着く頃にはすっかり息が上がってしまった。
夕方だけあって駅前は人が多い。ちゃんと見つけられるだろうか――と、心配に思いながら歩きつつ視線を動かしていると、そんな心配はよそに彼女の姿はすぐに見つかった。
雪雄は人混みの中をかき分けて、美優の元に早足で近づいていく。
「ご、ごめん。待たせちゃったかな……」
雪雄は息を切らしながら美優に話しかけた。
「夏目くん? もしかしてここまで走ってきたの? 私もさっき着いたばっかりだからそんなに急がなくてもよかったのに――大丈夫?」
美優は心配そうな声で言った。
「だ、大丈夫。心配ないよ」
雪雄は息を整えながらそう告げる。
「もう。いきなり運動するのって結構危ないんだよ? 怪我とかしちゃったらどうするの?」
美優は少しぷりぷりとした口調で言う。どうやら少し怒っているらしい。しかし、そんな怒っている顔もなかなか可愛らしいと雪雄は思った。
「ごめんごめん。待たせるのも悪いと思ってさ」
「それは嬉しいけど――なにかあった大変だよ?」
「大丈夫だって。心臓とか肺とか悪いわけじゃないし――これからは気をつけるよ」
雪雄は軽く笑ってそう言った。
「ていうか荷物多いね。それ全部学校で使ってるの?」
美優は女の子が持つには不釣り合いなほど大きな鞄を持っていた。雪雄が普段使っている鞄の一・五倍くらいの大きさである。
「うん。大きくて分厚いテキストが多くてさ。それに今日はレポートに使う資料が入ってるから、それもあるかも」
「レポート? 早く帰ってやった方がいいんじゃないか? 別に俺の方は今日でなくても大丈夫だし……」
「心配してくれるのはありがたいけど――大丈夫だよ。そんなに難しい課題じゃないし、期限までは二週間あるから」
彼女はそう言って派手さはないけれど、しとやかさを感じさせる華やかな笑みを見せた。
「あ、それで夏目くんに貸す本なんだけど――」
彼女は鞄から文庫本を取り出して雪雄に手渡した。
「これが、そのサークルの先輩がおすすめしてくれた本?」
海外作品に疎い雪雄は、この作品の著者は知らなかったが、裏表紙を見ると、どうやらこの作品は九六年にアメリカの文学賞を受賞した作品らしかった。
「うん。読んでみたけどかなり面白かったよ。チャンドラーとかの古典作品をリスペクトしつつも新しさを感じさせる作品だったね。だいぶ前の作品なんだけど」
「へえ。読んだんだ」
「うん。こっちが貸すのに話がわからないっていうんじゃ格好つかないし。昨日の夜に読んだんだけど、すっかり引き込まれちゃって寝不足だよ」
美優は少し恥ずかしそうな笑みを見せた。そんな表情に雪雄は思わずどきっとした。
「でも、この本、サークルの先輩のなんだろ? 俺みたいな見ず知らずの奴が借りてもいいのかな?」
「大丈夫だよ。先輩、その作家の大ファンで、著作の全部をハードカバーの初版本を翻訳版と原版で持ってるって言ってたから。文庫は誰かにあげるために買ったって言ってるくらいだし」
著作のすべてを初版のハードカバーで持っているとはなかなかのマニアであると言える。翻訳版と原版の両方を持っているとなると、その先輩とやらはこの作家の相当のファンに違いない。雪雄はよほど話題になった作品でない限り文庫になるのを待つタイプなので、すべての著作を初版の単行本で持っている作家はいない。ましてや翻訳版と原版の両方など持っているものはない――というかそもそも、英語なんて全然読めないのだが。
「その先輩、なかなかのマニアだね。初版本を持ってるのに文庫も買うなんて」
「かもね。その作家に限っては、文庫は読み直したい時に買って、それが済んだら誰かに貸したりあげたりするんだって」
「そいつはすごいな」
いくら好きな作家だからといって、読み直すためだけに文庫を買い直すなど雪雄は未だにしたことがない。
「じゃあ、その先輩の熱心な気持ちを無下にしないためにも、この本はしっかりと読ませてもらうよ」
その本を鞄の仕舞うとほぼ同時に、ポケットのスマートフォンが震えた。取り出して見ると、慧からの着信だった。
「あ。ごめん。電話なんだけど――出ても構わないかな?」
「いいよいいよ。そんなの気にしないで」
彼女のその言葉を聞いてから雪雄は慧から着信を取る。
「なんだよ」
『おいおい。どうしたんだ? なんだかえらく不機嫌じゃないか』
電話の向こう側からはざわめきが聞こえてくる。どうやら慧は人の多い場所にいるらしい。
「別にそういうわけじゃねえけど――」
美優と会っていたのに水を差されたのは事実だったが、こいつ相手にそんな文句を言っても仕方ないので口には出さなかった。
『あれ? もしかしてお前誰かと一緒にいる?』
「うん。まあ――」
雪雄は美優の方に視線を向けて言った。
『もしかして一緒にいるの衣笠だったりする?』
「そうだけど――」
『あらあら。もう二人で会っちゃうところまでいったんですか雪雄くん。なんだかんだ言ってきみも手が早いねえ』
電話の向こうでにたにた笑っているのがわかる声を慧は出した。
「悪いけど、お前が思ってるようなことはなにもないぞ。ただ、同窓会の時にちょっとした約束をしてたからそれで会っただけ」
『おいおい。そんなこと言っちゃって。どうせこれからしっぽり決め込むつもりだったんだろう? 隠すなよ』
慧はとても愉快げな声で言った。
「お前じゃないんだからそんなことするか。俺はお前みたいに爛れたことはしないんだよ」
『え? なに? じゃあもしかしてせっかく二人で会ったのに、約束を済ませたら帰るつもりだったわけ? 童貞の中学生じゃないんだからもうちょっと頑張れよ』
「うるせえ」
雪雄だって、美優を食事に誘うくらいはしようかと思っていたのである。
「俺のことはいいだろ。で、それでなんの用だよ」
『用――ってわけじゃねえけど――いま俺飲み会でさ。暇ならお前もどうかと思って』
「飲み会? 誰とだよ?」
『ああ。安心しろよ。高校の奴らじゃないからさ。この前知り合った大学生たちだよ。みんないいとこの私立大に通ってるお坊ちゃんお嬢ちゃんたちだから安心しろよ』
「大学生って――なんでそんな奴らと飲んでるんだよ?」
一体いつ私立大の学生グループと知り合ったのか。相変わらず交友関係を把握し切れない男である。
『別に俺が大学生と仲よくなって酒飲んでたっていいじゃないか。大学生じゃない奴が大学生と飲み会やるなんて珍しくもないだろ』
「それはそうだけど――」
『あ。そうだ。どうせなら衣笠連れて一緒に来いよ。いきなり二人で食事より、大人数に混じった方がやりやすいだろ』
「いや、待てよ。確かに大人数の方がやりやすいのはわかる。けど、俺も彼女もお前が飲んでる相手とは全然面識ないんだぜ。俺は別に構わないけど衣笠がなんて言うか――」
雪雄は電話を耳から離し、美優の方に顔を向けて、
「衣笠の都合がよかったらでいいんだけどさ。慧の奴が飲み会やってて、一緒に飲まないかって言ってるんだけど――どうかな?」
雪雄はおずおずと質問した。こうなったら破れかぶれである。
「え?」
美優は驚いた顔をした。
「嫌だって言うんなら無理強いはしないよ」
「い、嫌じゃないよ! そんなこと全然思ってない――けど、誘われたのって夏目くんだけでしょ? 私なんかが来たら迷惑じゃないかな?」
彼女は言葉尻に不安を覗かせて言う。
「少なくとも慧の奴はそんなこと思わないだろうけど――」
慧と一緒に飲んでいるという大学生たちはどうだろうか――大学生なら慧や雪雄と同年代の若者であるはずだ。それに慧と一緒に飲んでるような奴らだから、雪雄や衣笠が飛び入りで参加しても、それを迷惑だと思うようなタイプではなさそうだが――
「夏目くんも一緒に行くんでしょ?」
「まあ、そりゃあね。いくらなんでも衣笠だけ行かせるってわけにもいかないし」
「じゃあ行く」
「え?」
雪雄は驚いて裏返った声を上げてしまった。
「夏目くんが一緒ならいいよ。宮田くんのお友達なら悪い人じゃないと思うし」
美優は可憐な笑みを見せてそう言った。そこにはなにか強い意思のようなものを感じられる言葉だったように思う。
「ああ。もしもし。衣笠もいいってさ。これからそっちに行くよ。それで、お前どこで飲んでるんだ?」
『おお。そう来なくっちゃな。えっと店は――』
慧が告げたのはここからすぐ近くにあるチェーン店の居酒屋だった。
「そこか。すぐ行くよ」
『寄り道なんてしないでさっさと来いよー。じゃあな』
慧のそんな言葉が聞こえて電話が切れた。雪雄はスマートフォンをポケットに仕舞う。あいつの言った『寄り道』はなんだか意味深な感じだったがそれは気にしないことにした。
「宮田くんたち、どこにいるの?」
「あそこだよ。あのテナントビルの二階にある居酒屋」
雪雄が指さしたビルには、テナントとしてチェーン展開している居酒屋が何軒も入っている。
「出るって言って待たせるのも悪いし――行こうか」
「うん。そうだね」
そう言って二人は歩き出した。雪雄は美優になんと言葉をかければいいのかわからず無言になってしまった。こういう時こそ男が気を遣う場面である。なにか話題を見つけないと――
雪雄がなにを喋ろうか考えていると、
「私、こういう風に飲み会に誘われるのって初めてなんだよね。どういう風にしたらいいんだろう」
と、彼女の方が先に言葉を発した。
「うーん。どうだろう。今日みたいに慧から誘われたことは何回かあったけど――そんなに難しく考えなくてもいいじゃないかな。結構なんとかなるもんだよ。慧と一緒にいる大学生もそういうこと気にしてないだろうしさ」
「そうかな」
やっぱり彼女の声には若干不安が残っている。
「私、人見知りしちゃう方だから、こういう時相手の人たちを不愉快にさせちゃったりしないか不安で……」
「不愉快って……そんなこと思う奴はいないって。大丈夫だよ。でも、衣笠ってサークル入ってるんでしょ? 他の大学のサークルとの飲み会ってあったりしないの?」
「あるけど――そういうので上手くいったことがなくてさ。他の大学に人に話しかけてもらうんだけど、上手に応対できなくて素っ気ない感じになったりしちゃって――」
少し俯きがちに彼女は言う。どうやら結構そのあたりを気にしているらしい。
「ふうん。俺にはそんなに人見知りするようには思えないけど――まあ、なんとかなるって。今日は俺がいるしさ。困ったら俺を頼ってよ。できる限り力になるからさ」
「ほ、ホント? 絶対?」
美優は食い入るように言った。雪雄は彼女のそんな反応に戸惑いながらも、
「うん」
雪雄は頷いて優しげにそう言った。
「……ありがと。夏目くんって頼りになるね」
「そうかな」
雪雄は美優にそんなことを言われてなんだかむず痒い気持ちになった。異性から頼りになるなど言われたのは初めてのことである。
「そうだよ。すっごく頼りになる」
そんなやり取りをしているうちに居酒屋の入っているビルの入口であるエレベーターの前まで辿り着いた。雪雄は『上』のボタンを押してエレベーターが来るのを待つ。
エレベーターはすぐにやってきた。二人は中に入って二階のボタンを押して扉を閉める。
閉ざされた空間で二人きりになったせいか、先ほどあんなこと言われてしまったせいか、どちらかはわからないが、雪雄は美優になんと話しかけたらいいのかわからず押し黙っていた。
なにも気の利いたことが言えないまま、エレベーターの扉が開く。二人は妙な空気に支配されたまま外に出た。
「いらっしゃいませ――って、夏目じゃないか。なにやってるんだ?」
話しかけてきたのは、居酒屋の制服に身を包んでいる同級生の羽村司だった。
「それはこっちの台詞だよ、羽村。勉強しないでバイトなんかしてていいのか?」
「勉強はしてるよ。でも、ずっと机に向かってるのも疲れるからさ。気分転換がてらにバイトしてるのさ。留学するのにお金もいるし、社会勉強にもなるしね」
「ああ、そうか。お前アメリカ行くんだっけ。確かに勉強だけしてるってわけにもいかないよな。しかし、受験勉強にバイトって結構大変じゃないか?」
「そうでもないよ。時間配分と切り替えさえきっちりできればそう難しいことじゃないよ。慣れるまでは大変かもしれないけどね。で、そっちはデートか? 羨ましいなあ。こっちは大学中退してからそういうのとはご無沙汰だってのに」
「違うよ。彼女と用があって、それで会ってた時にたまたま慧から誘われたんだ。デートとかじゃない」
雪雄はやんわりと司の言葉を否定する。
「ああ。そういえばさっき宮田がいるのを見たな。なに、そっちの子は夏目の彼女じゃないわけ?」
「中学の同級生の衣笠だよ。同窓会の時にいただろ。覚えてないか?」
「ああ! 彼女か。どうりで見たことあると思ったよ」
司は思い出したようで手を叩いてそう言った。
「でも、そう言ってるわりには随分仲よさそうじゃないか。別に恥ずかしがることでもないんだから隠さなくてもいいんだぜ?」
「だから違うって。ていうか仕事しろよ。バイトなんだろ。俺と話してると怒られるんじゃないのか?」
「それもそうだ。話はこのへんにしておこう。ああ。宮田は一番奥の座敷にいるよ」
「そうか。わかった」
「夏目」
「ん?」
司の言葉を聞いて雪雄は足を止めた。
「どうしたんだ?」
司は雪雄に対し、年齢よりも幼さを残している顔で、自分はいつの間にかどこかに置き忘れてしまった純粋さを宿した視線を向けている。その黒い瞳で見つめられていると、どこかに遠い場所に落ちていくような気がした。
視線を合わせたまま何秒か経ったところで、
「あ、いや。なんでない。ゆっくり楽しんでくれ」
司はそう言って柔らかに微笑み、雪雄から視線を外した。雪雄は司が先ほどまで自分に向けていた視線には、言いようない不思議なものがあった――ように思う。
「…………」
雪雄は、そんな司の様子に訝りつつも、深くは詮索せず、そのまま奥の方に歩き出した。
「ね、ねえ。夏目くん」
美優はやけに裏返った声で雪雄に話しかけてきた。
「ん? どうしたの衣笠?」
「あ、いや、その、えっと――ごめん。なんでもない。気にしないで」
「?」
雪雄は美優のその様子に首を傾げた。
彼女のそんな態度を疑問に思っているうちに一番奥の座敷に辿り着いてしまったので、それは訊けずじまいだった。
雪雄が座敷を覗くと、
「おお。来たかお二人さん。そっちに座ってくれ」
すぐに慧が気づいてそう言った。雪雄たちは、靴を脱いで空いている席に腰を下ろす。
慧と一緒にいたには同年代の若者たちだった。すけこまし野郎の慧のことだから、もしかしたら全員女の子かと思っていたのだが、そんなことはなかった。
「よし、全員集まったし、飲むか。お前らなに頼む?」
雪雄はとりあえずビールを頼み、美優はモスコミュールを注文した。
「衣笠も楽しんでってくれよ。遠慮なんてすることないんだぜ。こういう時はやっぱり楽しくやらないと」
「う、うん」
美優は少し怯えた様子で言った。
「そう固くなることないって」
雪雄は小声で美優のことを励ました。
しばらくすると雪雄と美優が頼んだ飲み物がテーブルへと運ばれてきて、
「よし。それじゃあ全員そろったわけだし、乾杯だ!」
慧がそう言うと、みな口々に『乾杯!』と言ってグラスを合わせて飲み始める。
雪雄は美優が楽しめているのかどうかが気がかりであった。
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