第9話

 がくん、と首が落ちて覚醒した。


 目の前に広がっているのは見慣れない光景――パソコンとテレビが置かれた小部屋――いま雪雄がいるのは、始発までの時間潰しのために立ち寄ったネットカフェの一室だ。なんだかんだ言ってあの悪戯に結構神経を使っていたようで、いつの間にか寝てしまっていたらしい。横になって寝なかったせいか首が痛い。どうやら寝違えたようだ。


 目が覚めた雪雄は、はっとして、始発が来てからできるだけ早い時間に動き出さなければならないことを思い出した。


 時刻は明け方の五時前。動き出すのにはちょうどいい時間だ。この店に入ったのが深夜の二時過ぎで、三時くらいまで意識があったのを覚えているから、寝ていたのは二時間ほどか。リクライニングシートとはいえよく二時間も眠れたものである。そんな疲れていたのだろうか。少し考えてみたがよくわからなかった。


 睡眠不足なのは否めなかったが、いつのものようにぐーたら寝ているわけにもいかない。これから山岡の家に向かって悪戯の本番である第二段階を行なわなければならないのだ。


 雪雄は荷物を纏めて部屋を出て、会計を済ませた。今回の件で無職青年の雪雄にとっては結構な出費になったが、文句など言っていられない。この出費は未来への投資である。過去を清算し、これから前を向いて生きていくための手切れ金だ。そう考えればたいした額ではない。


 朝の五時では街はまだ眠っていた。外を出歩いているのは朝の早い老人くらいのもので、それ以外の年代の者はほとんど見受けられなかった。


 まあ、こっちでやることはすでに終えているから、人の目を気にして動く必要はない。逆にこそこそしていたらそれこそ不審人物である。それで警官に捕まって荷物検査などされてしまった日にはなにもかも終わりだ。それだけは絶対に避けなければならない。


 これから山岡の自宅まで向かう理由は、山岡が家を出ていくのを確認するためだ。出て行くのを確認してから侵入すれば鉢合わせてしまう確率は低くなる。奴がいつのものように出社するのを見届けてから、あの男の家に侵入に、悪戯の第二段階を済ませるのである。


 山岡は独身で当然子供もいない。それは会社の書類で住所と一緒に確認済みである。だから、奴が出ていけば誰もいないはずだ。


 しかし、これで完璧とは言い切れない。会社の書類には家族構成などは書かれているが、当然、結婚前の恋人がいるかどうかまでは書かれていないので、消し切れない若干の不安要素として、山岡が恋人と同棲しているかもしれない、というのはあるにはある。可能性としてなくはない――が、大した収入もない中小企業のサラリーマンだし、そのうえできそこないの魚類と類人猿をかけ合わせたような、とてつもなく不細工な顔した四十男に、恋人がいるとは思えないし、なおかつ同棲までしているなどとは到底思えないが。


 だからそんなことは杞憂に過ぎない――そんなことを考えていると駅に辿り着いた。ここから山岡の住んでいる場所の最寄り駅までは乗り換えなしで行ける。なにもなければ一時間強で着く。


 雪雄はホームに上がり、電車を待つ。まだ通勤ラッシュの時間帯ではないので人は多くない。それに乗るのは都心から郊外に向かう電車なので、アウシュビッツに強制連行されるかのような、非人道的なレベルでぎゅうぎゅう詰めの電車に乗る必要がないのは嬉しい限りだ。


 五分ほどで電車は駅に到着した。やはり都心とは逆方向に向かう電車なので、乗っている人間は疎らである。


 雪雄はがらがらのシートに腰を下ろした。腰を下ろして気を抜くと眠ってしまいそうだったので、それをなんとか抑えて目的の駅まで電車に揺られていく。一時間ほどで目的の駅に辿り着き、雪雄はそこで電車を降りた。


 時刻は六時半前――雪雄が予測している山岡が家を出ていくであろう時間には多少の余裕はある。が、ここはまったく土地勘のない場所である。いくら住所をメモしてあるとはいえ、最寄り駅から山岡が住んでいる場所を見つけるまで時間がかかってしまう可能性というのは否定しきれない。雪雄は方向音痴ではないし、最近は地図アプリも優秀だから、迷うこともないだろう。


 だが、それも杞憂に終わった。山岡の住んでいるマンションは、駅からほど近くにあり、地図アプリも使うことなくメモだけで辿り着くができた。


 山岡の住んでいるマンションは六階建ての、見た目にはまだ新しさが残る建物だった。

 それほど大きい建物ではないので、そこまで広くはないだろう。一人暮らし用のマンションといったところである。四十の中小企業勤務の独身サラリーマンが暮らす場所としては相応の場所だ。


 雪雄はマンションの目の前にある公園に、ちょうどマンションの出入口を確認できる場所を見つけ、そこに身を潜めた。裏口などはここからでは確認できないが、駅に向かうには正面入口の前の道を通って行かなければならないので、ここにいれば奴が出ていく姿を確認することはできるはずだ。


 時刻を確認する。六時三十五分。ここから会社までかかる距離を考えると、ここを出るのは七時半前後といったところか。そんなことを考えると腹が減った。起きてからまだなにも食べていないので腹が減るのも当然か。予想時刻まで一時間近くあるのでちょっとコンビニまで行ってなにか買って腹に入れておきたいところだったが、山岡が早くに家を出る可能性もあるのでここを離れるわけにはいかない。


 監視を始める前にコンビニに寄っておくべきだった。致命的なミスではないが、そうしておいた方がよかったのは間違いない。刑事ドラマみたく何時間も見張るわけではないから、我慢すればいいだけの話ではあるけれど。


 ここで最終確認をしておこう。必要な道具があるか。鞄を開けて荷物を確認する。

 ある――問題ない。


 それから山岡の部屋に忍び込んでやることをシュミレーションする。これも問題ない。雪雄はどんな鍵でも開けられ、カメラにも写らず、触ったものには指紋も残らない。


 気をつけるべきは指紋以外の痕跡だが、家の中を多少荒らされたくらいで、殺人事件でやるような綿密な現場検証を行うとは思えないから必要以上に神経質になることもないだろう。指紋が残らないだけでも充分である。


 ただし、気をつけるべきは部屋に侵入する際、他の住人に雪雄の姿を見られないようにすることだ。それだけは絶対に避けなければ。


 マンション内の移動も、誰とも顔を合わせないのが理想であるが、時間帯的になかなかそうもいかないだろう。一人暮らし用のマンションで、隣人付き合いが盛んとは思えない。なに食わぬ顔をして住人とすれ違う程度なら問題はないはずだ。


 これを行なったあいつはどうなるだろうか――ことが上手く運べば警察に捕まってくれるかもしれない。

 そうなれば大変喜ばしいが、先のことがどうなるかはまだ不明である。


 たとえ警察に捕まることがなくとも、奴に対する嫌がらせとしては充分だろう。雪雄は奴からいわれのない嫌がらせをされ続けたのだ。そのくらいやっても許されるはずである。俺は悪くない。悪いのは山岡だ。あの男がいなければ雪雄はそれなりになにも問題なかったのだ。あんな害虫のような男、消毒されてしかるべきである。ああいうクソみたいな男を野放しにしておくから日本はどんどん駄目になっていくのだ。


 そんなことを考えているうちに、出入口から誰かが出てきた。雪雄はそちらに注視する。出てきたのは、できそこないの魚類と類人猿のハーフみたいな、とてつもなく不細工な顔をした男だった。山岡である。奴の顔を見かけたのはひと月ぶりだったが、あいつの顔を見た途端、雪雄にとてつもない憎しみが湧き上がってきた。


 あの男……あの男のせいで……雪雄の平凡な日常は壊されたのだ。どうしてあんなことをされなければならなかったのか。奴にそんなことをする権利があるとでも言うのか。ふざけるな。そんなことはあっていいはずがない。いいだろう。それが許されるというのならばこっちだってやってやる。自分がやったことを後悔しろ。お前はそれだけのことをやったんだ――


 雪雄はこの公園に落ちていた角材で背後から襲撃し、山岡を叩きのめして半殺しにしてやりたい衝動に駆られたが、そんなことをしてもなにもならないと自分に言い聞かせ、山火事のような激しい衝動を抑えつける。


 山岡の姿が見えなくなったのを確認してから、雪雄は公園を離れてマンションに向かう。マンションの入口はオートロックだった。この類の扉もちゃんと開けられることも確認済である。


 能力を起動し、扉に手を触れると、住人に開けてもらわなければ開かないはずの自動ドアが開いた。なんて脆弱なセキュリティなのだろう。世の中の人間はこんなものがセキュリティになると本当に思っているのだろうか。馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しい。こんなものを導入するくらいならば警備員を雇った方がいい。どうしてそれに誰も気づかないのか。世の中には、雪雄のような超常の力を持った人間もいるというのに。まあ、オートロックなど『錠前突破』の能力がなくとも簡単に突破できるのだが。


 雪雄は扉を越えて、マンション内に侵入する。山岡の部屋は三階の四号室だ。エレベーターは使わずに階段を使って三階を目指す。


 三階の廊下に誰も出歩いていないのを確認してから山岡の部屋の前まで行き、『錠前突破』の能力を使って扉を開けて中に侵入する。

 山岡の住居は至って普通だった。アホみたいに不細工で特徴的な顔をしているくせに、住んでいる場所はとても無個性である。


 雪雄は鞄を置いて、空き巣さながらに部屋を荒らしまわった。机の中身はすべて引っ繰り返し、本棚に収まった本をすべて叩き出して、箪笥に入っているものはかき出して部屋に散乱させていった。


 電化製品を全部壊してやろうと思ったが、誰もいないはずの建物で大きな物音を立てるのはまずいことに気づき、どうやって破壊してやろうかを思案する。

 それにしばらく考えたところで、あることを思いつき、部屋の中を物色する。雪雄が求めていたものがすぐに見つかった。

 ホースである。


 ホースを持って荒らされたリビングに戻り、それをキッチンの水道に装着して水をばら撒く。五分も経たずに部屋は水浸しになった。これだけではちょっと物足りないと思ったので、ホースを部屋の中ほどまで伸ばし、水を出しっ放しのまま放置してやる。山岡が帰ってくる頃にはとんでもないことになっているだろう。これを見た奴がどんな反応をするのか考えるだけで笑えてくる。あの醜い男はきっと面白い反応をしてくれるはずだ。


 ついでのサービスとして冷蔵庫の電源コードもばらばらに切断しておいてやる。時期が時期なので、奴が帰ってくるまでに、冷蔵庫の中身がすべて腐って、いい嫌がらせにはなるだろう。


 足跡を残さないように慎重にリビングを出て、寝室へ向かう。寝室も至って普通だった。寝室にはパソコンが置いてあったので、ハードディスクを抜き出して叩き割ってやり、壊したハードディスクを回収し、ついでに中の配線をずたずたに切り裂いた。リビングと同じように部屋中のものを引っ繰り返してやる。


 そして寝室にある箪笥の一番下に、会社のパソコンから抜き取ってきたハードディスクと、雪雄の地元の質屋から盗んできた貴金属を隠すように入れておく。ハードディスクの方はともかくとして、盗んできた貴金属の方はもうすでにニュースになっているから、この部屋でそんなものが見つかったとなれば、この部屋の住人である山岡は間違いなくただでは済まないだろう。警察屋さんには、山岡をしっかりと犯人扱いし、拘留して覚えのない自白をさせてもらいたいものである。心から頑張ってほしいと思う所存だ。


 さて、こんなもんでいいだろう。

 できることならここにも盗聴器を仕掛けておきたいところだが、部屋がこんな有様になっていて、なおかつ盗品が見つかったとなれば家宅捜索がされるのは確実だから、仕掛けた盗聴器が見つかってしまう可能性はとても高い。やめておくのが無難だ。この惨状を目撃した奴の反応が聞けないのは非常に残念であるが。


 雪雄は荷物を纏めて部屋を出る。部屋を出る前に扉についているのぞき窓から外を窺って誰もいないことを確認してから外に出た。同じように階段と使って下りてマンションの外へ。


 すべてをやり終えた雪雄は、なんとも言えない達成感と清々しさを感じていた。

 やることはやった。あとは他の人間の仕事である。それゆえにこの行為の結果、どう転ぶのかは未知数だが、それでも山岡に対しての報復ができたのは事実である。


 とてもいい気分だ。

 眠気など完全にどこかに吹き飛んでしまった。

 雪雄はスキップでもするように見知らぬ街を歩いていく。


 そろそろあちらの状況を確認してみようか。時刻を確認する。八時半――いい時間だ。雪雄は駅前にあるファミレスに入った。モーニングセットを注文して、鞄から盗聴器の受信機を取り出し、それをスマートフォンに接続して、イヤフォンもセットし耳にはめる。

 しばらくノイズが聞こえたあと――


『おい。どうなってるんだ? パソコンが動かねえぞ!』

 携帯電話から盗聴器が拾っている音声が聞こえてくる。男の声だというのはわかったが、誰なのか判別することはできなかった。


『本当だ。なんだこれ。どうなってやがる』

 別の男の声が聞こえた。どうやらもうすでに混乱しているらしい。


『おい。そっちはどうだ?』

『こっちも動きません。この前までちゃんと動いていたはずなのに……』


 今度の声は女性のものだった。やっぱり誰の声なのかは判然としないが、非常に混乱していることは伝わってくる。思った通りの反応をしているので、雪雄はひそかにほくそ笑んだ。

 しばらくざわざわとしている状態が続き――


『おい。なにを騒いでいるんだ』

 別の男の声が聞こえた。今、出社してきたことを考えると、この声は山岡かもしれない。

『山岡さん。パソコンが動かないみたいなんですよ。そっちのは動きますか?』

『なんだかよくわからんが……』

 山岡はまだ事態を把握していないようだ。さあ、どうなる? 雪雄の胸は会社に忍び込んだ時より、山岡の部屋に侵入した時よりも高鳴っていた。


『どうしてあんたのだけ動いてるんだ!』

 山岡とは別の男が怒鳴り声を上げた。最初に聞こえてきた男の声だろう。まわりにいる人間もそれに反応してざわめき始める。


『ま、待て。どういうことだ? きみはなにを言ってるんだ! わけがわからないぞ!』

 まだ山岡は事態の把握できていないらしい。愚鈍な男だ、と雪雄は思った。

『わけがわからないじゃない! 他の社員のパソコンはみんな壊されてるのに、どうしてあんたのだけ壊されてないんだ! おかしいじゃないか。あんたなんかやったんじゃないのか?』


 怒鳴り声を上げている男に、他の者も追従する。音声だけというのが非常に残念で仕方ないが、それでも今の山岡が四面楚歌の状態であることは理解できた。


『ご、誤解だ! 俺はなにもしていない。そもそも今日は週明けじゃないか。どうして休みにわざわざ会社にきてそんなことを――』

『言い訳をするな! じゃあどうしてあんたのだけが壊されていないんだ? これはあんたが自分でやったっていう証拠じゃないのか?』


 山岡と口論している男のボルテージがどんどん上がってきている。いいぞいいぞ。もっとやれ。もっと奴を責め立てろ。


『ど、どうして俺がそんなことをしなければならないんだ! そんなことしてもなにか得をするわけでも――』

 山岡の声には盗聴器越しからでもわかるほど狼狽の色が見て取れる。人間は無実の罪で疑われるとこういう声を出すらしい。また一つ、新しいことを知った。


『黙れ! ぐだぐだ言い訳をするな! あんたがやったんだろう? おい。誰か警察を呼べ! こいつを突き出すぞ!』

『は、早まるんじゃない! 俺はなにもしていない!』


 それからは山岡を疑い糾弾する声と、山岡の弁明の声がひたすら続いた。これ以上新しい発見はないだろうと判断して、雪雄はスマートフォンから受信機を引き抜いて鞄にしまった。


 やった! 雪雄は小さくガッツポーズをし、心の中で快哉を叫んだ。

 盗聴器の向こう側で起こっていたことは、そうなればいいと雪雄が望んでいた展開だった。できる限りこうなるように仕組みはしたが、まさかこうまで想定通りにことが運ぶとは、これを仕組んだ雪雄自身も思っていなかった。


 これで奴は会社での居場所はなくなったも同然である。あの男のことだから図々しく居座る可能性はなくはないが、これだけのことが起こったのだし、この先あの会社にいづらくなるのは間違いない。


 それに。

 そのあと奴の家から盗品の貴金属が発見されれば、警察沙汰になるのは間違いない。おまけに会社から抜き取ってきたハードディスクもある。現在の日本企業は、そんなことをした人間を擁護などしてくれない。


 特別なスキルを持っているのならあり得るのかもしれないが――あのクズにそんなものはない。醜い顔の四十男である。間違いなくクビを切られるだろう。いい気味だ。


 それで前科がつきでもすれば再就職はなかなかできなくなる。前科持ちの四十男――まともな企業ならそんな人間など雇うわけもない。


 まともに職につけなくなって、住む場所も失って破滅しろ。それがお似合いだ。泥を啜って、木の根をかじって冷たい地面の上に新聞紙を敷いてこの先ずっと生きていくようになったのなら、雪雄としても復讐をしてやった甲斐がある。


 そんなことを考えているうちに、注文したモーニングセットが運ばれてきた。サンドウィッチとサラダとスープという至って普通のものだった。

 雪雄はサンドウィッチを手に取って口に運んだ。


 なんの変哲もないはずのサンドウィッチは、なんとも言いようのない勝利の味がした。

 美味い。

 今まで食べてきたものの中で一番美味いと思える。

 なんの変哲もないサンドウィッチがこんなにも美味しく感じられるなんて思いもしなかった。


 実にいい――そう思うとふつふつと歓喜がとめどなく溢れてくる。

 これが――勝利というものか。

 雪雄はサンドウィッチと一緒に、生まれて初めて味わった勝利の実感を咀嚼していった。

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