第8話

 計画を実行に移す時が来た――そう思うと心が震える。

 雪雄は、職場の最寄り駅にあるネットカフェにいた。


 現在の時刻は十一時――もうそろそろ動き出しても問題はないだろうが――これからやることを考えれば、念のために終電が終わるまで待った方がいいだろう。


 ここを出て会社に向かうのは、終電が来てから少し経過したところ――深夜の一時だ。まあ、日曜にわざわざ休日出勤して、なおかつ終電が過ぎてしまったので会社に泊まり込むような仕事熱心な社畜などいないだろうし、そういう業種でもないが、用心はしておいて損はないはずである。


 目の前のパソコンには、雪雄の地元にある質屋に盗みが入ったというニュースが映し出されていた。ブランドものの時計やら貴金属やらその被害額は一千万近くになるらしい。なんとも不幸な話だ。一体どこ狼藉者がそんなことをしたのだろうか。


 雪雄は計画の最終確認をしておこうと思った。必要なものは前もって秋葉原の裏通りにある店で購入済みだし、会社に侵入できることもちゃんとロケハンしてある。鍵も開けられるし、機械警備も作動しないことも、深夜に常駐している警備員がいないことも確認済みだ。


 それに、思いがけない発見もあった。『錠前突破』の能力は逆のこともできる――つまり、どんなに複雑な鍵でも閉められることだ。

 これは嬉しい誤算であった。これによって雪雄の計画はより強固なものになったのである。


 計画実行にかかる時間は、予定通りにことが運べば一時間もかからない。終わってすぐに立ち去れば、出勤時間よりも早く出社してきた相手と鉢合わせるということもないはずだ。唯一の懸念は、この時間になっても会社に社員の誰かが残っているということだが、こればっかりは確証は取れなかった。


 だから不安材料と言えるが――そのリスクを限りなく小さくするために、計画の実行を日曜の深夜に決めたのである。土日が定休の会社ならば、その時間帯が最も人がいる確率が低いからだ。


 計画の手順を確認する――問題ない。別になにか特別なことをするわけじゃない。言ってしまえば会社で行うのはちょっとした悪質な悪戯だ。


 そしてこのちょっとした悪質な悪戯は計画の第一段階に過ぎない。この次に行うことがメインである。今日これから行うのはメインの前を彩るお膳立てだ。

 お膳立て――そう考えると少し笑えてくる。

 このお膳立てでどのように転ぶのかは未知数であるが、面白いことになってくれるのは間違いない。


 手が汗で湿ってきた。心臓の鼓動もどくどくと大きな音を立てている。どうやら緊張しているらしい。どうして緊張などするのだろう――無人なら、不法侵入をしても絶対見つからないというのに。


 これが武者震い――というやつなのだろうか。それともただビビッているだけか――


 どちらかはわからない――が、どちらであったとしても別に構わない。もうやると決めたのだ。退くわけにはいかないし、超能力を手に入れたにもかかわらず臆病の風に吹かれて実行を移せないなど笑い話にもならない。


 超能力。

 そう、超能力だ。


 雪雄は超能力を手に入れた。なにも恐れる必要などない。不必要な感情は切り捨てろ。罪悪感? 恐怖? 破って捨ててしまえそんなもの。今の雪雄はそれで構わない。何故なら超能力者になったのだから――


 それに、警察だって雪雄がこれから行う悪戯に超能力が関わっているとは夢にも思わないはずだ。日本の警察は優秀かもしれないが、それは常識という枠の中での話である。枠の外にあるものは門外漢であり、超能力というのはその一つだ。だから雪雄が捕まることなどあり得ない。


 そんなことを考えていると、机の上に置いてあったスマートフォンが震えた。どうやらメールが来たらしい。雪雄はスマートフォンを手に取ってメールを開く。メールを送ってきたのは美優だった。


『こんな時間にいきなりごめんなさい。同窓会の時に話したことなんだけど、サークルの先輩から夏目くんが好きそうな海外の作品を教えてもらったんだ。でも、教えるだけ教えて買わせるのもなんだか悪い気がするから貸してくれるってその先輩が言ってくれたんだけど――そっちの都合のいい日でいいから会えないかな?』


 雪雄はメールの文面を見て驚いて、飲んでいたコーラを噴き出しそうになった。

 まさか向こうから会えないかと言われるとは思っていなかった――まさに不意討ちを食らったような気分である。

 これは脈がある――と言ってもいいのだろうか。


 いや、待て。そう考えるのは早計だ。性に目覚めたばかりの中学生じゃないんだから異性同士で顔を合わせるくらいなんて大したイベントではないし、そもそも本を貸してもらうだけなのである。妙な下心は抱くべきじゃない。いくらなんでも直接的なアプローチをするのは早過ぎるだろう。


 とは言っても、向こうがせっかく貸してくれると言っているのだから断るのも悪いし、本を返すという口実でまた顔を合わせることができるのだ。これを断る奴は馬鹿かホモのどちらかだろう。

 雪雄は『こっちはいつでも大丈夫だからそっちの予定に合わせるよ』と、返信した。


 二分ほどで再びスマートフォンは震えて、

『じゃあ、明日の夕方は大丈夫かな?』

 という文面が返ってきた。


 明日――雪雄は考える。これから雪雄は悪戯を行なう。それが終わる頃にはとっくに終電が過ぎているし 家までタクシーを使えるような金など持ち合わせていない。


 だから、どこかで時間を潰す必要がある。予定ではこことは別のネットカフェで始発まで時間を潰すつもりだが、しっかり睡眠が摂れないし、朝になったら悪戯の第二段階をやらなければならない。


 夕方なら、それを終えて帰ってから寝ても充分睡眠が摂れるので問題ないはずだ。美優に『大丈夫』と返信した。


 またしてもすぐに返信が返ってきて、

『じゃあ、学校から帰って駅に着いたら連絡するね。夜遅くにごめんなさい。おやすみ』

 と、書かれていた。


 まだ十二時前だというのに、そんなことを送るとはなんとも律儀な子である。雪雄はますます美優に対して好感を持った。雪雄は『そんなこと気にするなって。おやすみ』と、彼女に返信した。

 短いやり取りではあったが、美優とメールを交わしたことで、余計な力が抜けて幾分か緊張が和らいだ。


 その後、雪雄はリクライニングシートに腰を深く預け、時間まで漫画を読んで時間を潰した。


 一時になると同時に雪雄は悪戯に使う荷物に問題がないかしっかり確認してから、部屋を出て会計を済ませてから店を出る。オフィス街は闇に支配され、人の姿はほとんど見られなかった。


 できる限り人通りの少ない道を選んで会社を目指す。多少遠回りすることになったが、それよりも自分の姿を誰かに見られないようにする方が大事だ。


 できる限り気を遣って道を進む。

 明らかに不審な格好はしていないが――悪戯が発覚すれば警察が出てくるだろうから、会社の近隣でなんらかの捜査がされるのは予測できる。こんな時間に誰かいたという情報が寄せられてしまってはすべてが水の泡になりかねない。


 運のいいことに、会社までの道のりで誰ともすれ違うことはなかった。カードキーで電子的にロックされている扉に触れて開錠し日曜深夜の会社へと足を踏み入れる。


 少し前に予行演習をして、なにも問題が起こらないことを確認していたが、それでも心臓の鼓動は早く、そして大きく脈打った。


 懐中電灯を取り出して明かりを点け、暗闇に包まれた廊下を進んでいく。

 人の気配が感じられない場所を、こんな風に懐中電灯の明かりだけを頼りに進んでいくのはそれなりに恐ろしかった。この時間に誰もいないはずの会社の明かりが点灯していたら不審に思われる可能性がある。どれほど暗くて恐ろしくとも明かりを点けるわけにはいかない。暗い、人がいない、ただそれだけのことで空間というものはその気配と色を一変させるらしい。


 階段を上がって、社員全員が働いている事務室へと足を踏み入れた。

 机がいくつも並べられていて、どこにでもある中小企業といった趣である。雪雄がいた頃となんら変わっていない。


 ついひと月ほど前まで、雪雄はここで働いていたはずなのに、夜というだけで全然見知らぬ場所のように思えてくるから不思議だ。


 雪雄は荷物を置いて、そこからプラスドライバーを取り出した。


 これから雪雄がやろうとしていることはとても単純である。ここにあるパソコンのハードディスクを、一台を除いてすべて、こちらが用意した中古ハードディスクに付け替えるだけだ。わざわざ新品を買ってやる必要もないので、秋葉原のジャンク屋で売っていた動作確認も保証されていない、いつクラッシュしてもおかしくない中古品である。


 そうすればどうなるか。OSすら入っていない中古ハードディスクに付け替えられたパソコンは当然だが起動しなくなる。起動するのはBIOS画面だ。パソコンに明るくない者にはなんなのかまったくわからないだろう。

 そして、今の世の中、パソコンというのは業務を行うには必須のものである。そんなことをすれば、しばらくの間まともに業務ができなくなるのは必至だ。


 明かりが懐中電灯だけだったので、ハードディスクを付け替えるだけでも結構苦戦したが、何台も行なっていくうちに、暗い中で手を動かすことに段々と慣れてきて、作業の速度が上がっていく。


 三十分ほどで、とある一台を除いたすべてのパソコンのハードディスクを付け替えることができた。悪戯の第一段階はこれで終わったも同然である。


 唯一、中古のハードディスクに付け替えなかったパソコンは、山岡が使用しているものだ。他のパソコンが起動しなくなっているのに、奴のだけが問題なく起動していたら、他の人間は間違いなく不審に思うはずだ。


 さてさて、この何時間後かに出社した社員どもはどう思うだろう。その時の惨状を想像するだけで腹を抱えて笑えてくる。


 ハードディスクの付け替えが終わった雪雄は懐中電灯を持って部屋を歩き回って、懐中電灯の小さい明かりで部屋を照らしながら部屋を慎重に検分し、プリンターの裏側のコンセントに、これもまた秋葉原の裏通りにある店で購入した盗聴器を装着した。


 無論、朝になってここで起こるであろう騒動を確認するためだ。欲を言えば映像も欲しいところであるが、そこまで準備するのは時間がかかるし、あまりに大がかりだと発見される恐れがあるので断念した。


 音声だけでも充分だろう。これが一体どのような顛末になるのか――今からでも楽しみだ。


 それから荷物を纏める。会社のパソコンから取り出したハードディスクは後々使うので壊れないように丁重に梱包して鞄の中に入れ、雪雄は事務室を後にした。

 次に向かうのは書類保管庫である。雪雄の記憶では、ここに社員の住所などの個人情報が纏めてあるはずだ。


 懐中電灯で照らしながらファイルを手に取り、中身が違ったら元の場所に戻し、また別のファイルを取り出す。


 五個目で目的のファイルを見つける。社員の個人情報――連絡先や住所などが纏められたものだ。

 ファイルを捲っていく。目的は当然山岡の個人情報――必要なのは住所である。

 どうやら山岡は現在浦和の方に住んでいるらしかった。奴の住所をしっかりとメモしてからファイルを元の棚に戻す。


 これで第一段階は終了だ。さっさとここを離れよう。もうこんな場所に用はない。

 雪雄は少し浮かれた気分になって階段を下り、暗い廊下を頼りない懐中電灯で照らしながら進んで会社をあとにする。予定通りすべてを終えるのに一時間もかからなかった。

 とりあえず始発の時間までは、さっきいたところとは別のネットカフェで時間を潰そう。

 これから山岡がどのような目に遭うのかを想像するだけで叫び出したくなる。

 これが奴の破滅の第一歩になるのだと思うと、笑いが止まらなかった。

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