第3話

 何軒かパチンコ店を回ってみたものの、結局『牙王』の新台はどこも空いておらず、打てなかった。


 さっさと諦め、二人は行きつけの定食屋に入って食事をして解散した。慧は、明日早起きして開店前からパチンコ屋に並んで、今日打てなかった『牙王』の新台を打ちにいくらしい。普段は早起きなんぞしないくせによくやるものだ。やっぱりエネルギーを使う方向性がおかしな奴である。


 慧と別れた雪雄は、なんとなく家に帰る気にはならず街をふらふらと彷徨っていた。今年の梅雨はまったくと言っていいほど雨が降っていない。


 何日か前に梅雨入りを宣言されたはずなのに、雨どころか曇ることもなく、まだ六月になって日もそれほど経っていないというのに真夏のような日々が続いている。


 最近の日本は亜熱帯化が進んでいるという話を聞いたことがあるが、これもその影響なのだろうか。

 真夏のような日々が続いていても、日が沈めばある程度過ごしやすくなる。今日も日中はかなり暑かったが、今はそれほどでもない。


 雪雄は、慧と別れてから三十分ほど、なんの目的もなく街をふらふらと歩いていたが、煙草が喫いたくなったので、駅前にある喫煙スペースへと足を運んだ。


 喫煙スペースには、仕事帰りと思われるスーツ姿の男たちが数人いた。雪雄はその中へと入って、煙草を口に咥えライターで火を点ける。

 自分もつい一ヶ月前までは、ここにいる男たちと同じようにスーツを着て仕事をしていたことを思い出した。


 仕事――それに対して別段なにか感情を抱いているわけではない。つまらないわけではなかったが別段面白いものでもなかった。どこにでもある、極めてありふれた普通の労働。自分がやっていたことはそれだ。金をもらっているからそれなりの責任感は持って仕事に望んでいたつもりだが、それ以上のものは抱いていなかった。


 今ここにいる男たちにとって、仕事というのは一体どういうものなのだろうか――雪雄はそれが少しだけ気になった。


 金を得るために仕方なしにやっているのか。

 それとも、仕事に金を得る手段という以上の感情を抱いているのか。

 きっと、違うのだろう――雪雄はそう直感した。


 ここにいる彼らにとって仕事とは、かつての――今でも同じだが――自分と同じように、金を得るための手段でしかないはずだ。今の日本で仕事に生き甲斐を感じたってしょうがない。それは事実だ。だけど、慧のように働いたら負けだとまでは思わない。


 しかしそれにだってまったく共感できないわけではなかった。仕事が生き甲斐の時代というのは二十年くらい前にバブルが弾けた時には終わっている。


 日本の労働環境というのは世界第三位のGDPを誇る先進国とは思えないほど劣悪だ。慧の言うように真の意味でまともな企業というのは皆無に等しい。酷使され使い捨てにされてもなお仕事が自分の生き甲斐だと思っているのなら、そいつ救いようのない馬鹿だ。未来のためにも悔い改めるか、できないのなら死んだ方がいい。


 仕事に対してなにか思い入れてしまうくらいなら、金を得るためにやることだと割り切った方がいいはずである。そうしている方がずっと生きやすい。今の日本における労働というのはそういうものなのだ。


 生き甲斐は仕事以外のところで求めるべきである――仕事以外のなにに生き甲斐を感じるかは個人の自由だが、それが現代日本での正しく健やかな生き方なのは間違いないと思う。


 ここで煙草を喫っている、自分より歳上の男たちもそうなのだろうか?

 見ただけではそれはわからないが、彼らも仕事以外になにかの生き甲斐を持っているのだろうか。


 そんなことを考えていると、雪雄はあることに思い至った。

 こんなことを思っている自分は、仕事以外のことに生き甲斐を感じられるものを持っていたのだろうか――と。


 雪雄は無趣味ではない。趣味と言えるものは結構多い方である――と思う。ゲームもするし、それほど頻繁ではないが、気が向けばパチンコも打ちにいくし、それなりに読書もする。ファッションにだって人並みくらいには気を遣っているし、誰かと遊びに出かけるのだって好きだ。金がかかるし置き場所も必要になるので、最近はあまりやっていないが、パーツを買ってパソコンを自作したりもする。


 しかし、そのどれも生き甲斐だといえるほど熱中しているわけではない。なんだかかんだ言ったところで、仕事をしていた頃、一番時間や手間を割いていたのは仕事だったのだ。仕事が自分の中心にあった――それは仕事が生き甲斐であったのと同義ではないのか。


 だから自分は、山岡をぶん殴って仕事をクビになって、あれほどまでに虚無感を感じていたのではないか――そう思うとなんだか嫌な気持ちになった。

 自分の中心にあったものを、山岡とかいう男によって不条理に、そして理不尽に汚されてしまったから、こんな風に前を向くことができないのではないのか。


 太陽光よりも熱く、夜の闇よりも深く黒い感情が心を支配していく。自分の中にある得体のしれない黒いものが、今にも破裂してしまいそうだった。


 あの男は――

 雪雄をクビに追いやったあと、山岡は他の誰かに同じようなことをしているのだろうか。あの男に自分がされていたように、他の誰かが理不尽にいびられ、不条理な侮辱を受けているのだろうか。


 なんの恨みを買った覚えがない雪雄がされたのだから、別の人間に対してやっていてもおかしくない。


 あいつが当然の権利かなにかのようにそんなことをしていると思うと、憎しみと一緒に許せないという気持ちが生まれてくる。

 どくどくと、どろどろと、黒い感情が心を覆っていく。

 このまま自分が、真っ黒ななにかなってしまいそうなほどに。

 そこで雪雄は冷静になって思い直す。


 またしても自分はあの男に対する黒い感情に支配されていた。あんな男のことなど忘れてしまえ。忘れれば楽になれるのだ。どうしてそれができない。気に入らない奴のことを考えたってしょうがないだろう。どうせ自分はあの男に復讐することなどできないのだから。できないことに思いを馳せても徒労にしかならない。さっさと前を向いて、楽しいことと明日の飯のことをどうするかを考えるべきだ。仕事だって探さないといけない。慧と違って、雪雄は無職を貫くという決意も強さも持っていないのだから。


 そう思って、スマートフォンを取り出して少し前に登録した就職求人サイトに接続する。特別に希望している仕事は特にあるわけじゃない。なにか希望があるとすれば高卒でも雇ってくれるかどうかだ。


 しかし、大学全入時代と言われている現在、高卒で雇ってくれるところは思いの外少ない。大抵の求人は大卒が条件となっている。


 やはり仕事をクビになった今、大学や専門学校に行くことを考えた方がいいのだろうか。専門学校ならともかく、中学の早い時期から勉強についていけなくなった自分が大学などに合格できるのだろうか?


 受験をするとなったら、雪雄が勉強について行けなくなった中学一年の終わり頃から始めなくてはならない。まともなレベルの大学に入学を希望するとなれば、毎日十時間くらい勉強しても三年くらいかかるだろう。今から三年かかってとしたら、入学した時にはもう二十三――普通ならとっくに大学を卒業している歳だ。それから四年過ごしたら二十七。医学部でもなく、大学院にも行っていないのに二十七歳で新卒の男を雇ってくれる会社があるだろうか。


 それに学費の問題もある。学校に通うとなったら、仕送りなしでは一人暮らしは続けられないだろう。親への負担を少しでも減らすためには、実家に戻った方がいい。そうしたって親にかかる負担が減るわけじゃない。


 入学したのが私立大ならば、入学金だけ何十万とかかるし、年間で学費は百万くらいかかる。ただでさえ中学、高校と親に迷惑をかけまくっていたのだから、これ以上親に迷惑をかけたくなかった。


 そもそも、中学校で勉強についていけなくなった人間が大学に入学するというのが無謀な話である。雪雄は中学で習う英語すらまともにできないのだ。最近の大学生は、小学生並みに頭が悪いと言われているが、雪雄はそれ以下だろう。


 それを考えれば、高卒でも雇ってくれる会社を探した方が金も時間もかからないし、建設的で効率がいい。


 とは言っても高卒でも構わないという求人はなかなか見つからない。そのうち探すのも嫌になってきて、雪雄は就職求人サイトとの接続を切って、気分転換に時折覗いているニュースサイトに接続した。


 ページを繰りながら適当にトピックスを流し読みしていると、ある記事が目に留まった。


『千葉市内で殺人事件が発生。ミステリー小説のような事件』

 そんなトピックスだった。


 雪雄は人並み程度には読書をしている。読むのは主に娯楽小説で、慧を初めてとして雪雄の周りには読書をする人間など全然いないので、それについて話をする機会はほとんどないのが残念である。


 一人暮らしを始めてからは、部屋が狭く、置き場所が限られているので、購入する機会は減っていたものの、それでも毎月数冊――多い時は十冊くらい購入している。ミステリーはその中でも好きなジャンルである――というか、読んでいる本の八割方はミステリーだ。本当にミステリーのような事件なのかどうかはともかくとして、興味を惹かれたのは事実だった。とりあえずページを開いて記事の詳細を見てみることにする。

 事件の概要を簡単に説明するとこうだ。


 千葉市内に住む男が自宅のアパートで殺されていたのが発見された。この男は殺されたと思われる日の数日前に、地元の警察署に乗り込んできて、『俺は命を狙われている。保護してくれ!』と言っていたらしい。

 しかし、その男はどうして自分が命を狙われているのかについては語らなかったという。そしてその後、その男は本当に殺され、しかも男が殺されていた自宅は密室状態だった……。


 確かにミステリー小説にありそうな事件である。殺されるかもしれないという危機を感じていて、自らの保護を求めていながら、その詳細について一切語らなかったところなどまさにそれっぽい。


 だが、事件現場が本当に密室だったのかはちょっと怪しいと思った。もしかしたら最後の密室だったという件は、この事件の記事を書いたライターの脚色かもしれない。


 密室殺人なんて実際やると手間がかかるだけでメリットはほとんどないし、警察が部外者に事件現場についての詳細をそう簡単に漏らすとは思えないからだ。


 それでも、自分とはまったく縁のないこの千葉市で起こった殺人事件がミステリーのような事件なのは間違いなかった。


 とは言っても、この事件を調べてみようという気にはならないが。

 千葉市なんて、東京生まれ東京育ちの自分にはまったく縁のない地域だし、警察ではない人間が事件の捜査をするなんて現実ではあり得ない。


 現実にいる探偵は、浮気調査だとか人探しだとかが主な仕事であって、殺人事件の捜査なんてしないし、ましてや灰色の脳細胞も持っていない。いくら現実でミステリーのような事件が起こっても、そこに首を突っ込んでくる名探偵なぞ現れないし、仮にそんな人間が現実にいたとしても、警察がそいつに頼ることなどあり得ないだろう。


 しかしまあ、面白い事件が起きるものだ。警察がこの事件を解決できるかどうかは不明だが、頑張って欲しいものである。こういうセンセーショナルな事件は、解決されなかったら模倣犯が現れるかもしれないし。


 そんなことを考えながら雪雄は煙草を灰皿に捨てた。

 他にも記事をざっと見てみたが、先ほどの事件のようにインパクトがあるものはなかった。


 そして雪雄はページを閉じてスマートフォンをポケットにしまって、考える。

 先ほどの事件のように現実でミステリー小説のような事件を起こすにはどうすればいいのだろうか? 少しだけ考えてみる。完全犯罪を成し遂げるのに必要な要素とは一体なにか。


 知識、特殊な技術、金――色々と考えられる。

 だが、そのどれも決定的なものになり得ない。警察を欺くのは難しい。


 いや、難しいどころではない。不可能だといってもいい。現実にある現実的なものを使って、現実を欺くというのは不可能に等しいレベルである。現実を欺くには、現実を超える『なにか』がなければ成し遂げられない。


 現実を超えられる『なにか』――それはなにが当てはまるだろうか。

 驚異的な知性。

 人智を超えた強靭さを持つ肉体。

 そして超能力。

 そんなものがあれば、きっと――


 馬鹿馬鹿しい。そんなものあるわけがないだろう。現実を超えるもの? そんなものがあるものか。そんなものがあるのなら、この現実はとっくに変革を成し遂げている。変革などでは済まないはずだ。そんなものがあってしまったら、金も権力も国家もなにもかもなくなって社会が崩壊していてもおかしくない。


 人間は残酷で獰猛な生き物だ。そんなものを手に入れてしまえば、いとも簡単に自らの身を焼き尽くし、いずれ滅ぼすだろう。


 それが手に入れば、山岡に復讐ができると思ったのか? 自分を踏みにじったものを捻り潰すことができるとでも? そんなものをアホなものを探してる暇があったらさっさと職を探したらどうなんだ?


 雪雄はそう自分に言い聞かせた。

 気を紛らわすために、もう一本煙草を取り出して火を点ける。

 煙を吸って、ニコチンを摂取することでこの馬鹿馬鹿しい考えから脱しようとした。

 でも、現実を超えることができる『なにか』に対する渇望は、山岡に対する憎しみと同様に消えることはなく、雪雄の心にいつまでも蟠り続けていたのだった。

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