第2話

「おい。なにぼーっとしてんだ?」

 そんな声で雪雄は意識は現実へと戻った。


 話しかけてきたのは友人の宮田慧みやたさとるだ。さっきまでやっていたゲームを一時停止してこちらに視線を向けている。雪雄はあれこれ考えていたせいで、彼が自分の家に遊びにきていたことをすっかり忘れてしまっていた。


 慧とは中学一年の時に同じクラスになってから、ずっと付き合いが続いている。同じくらいの時期に学校の勉強についていけなくなって、頻繁に授業をサボるようになったのを契機に意気投合し、それから地元では名前を書いたら受かると評判の底辺高校に一緒に進学して、だらだらと高校生活を送り、そこを卒業して一年少し経った今になっても中学の時と変わらない間柄の仲が続いている。


「まあ、ちょっとな。考えごと」

「ふーん。お前も変な奴だなあ。仕事辞めたってのに悩むようなことあるのか? 普通は悩みがなくなるもんじゃないの?」


 慧は、どうやら仕事を辞めれば悩みはすべてなくなるものだと思っているらしい。そういう刹那的なところは昔から変わらない。確かに慧の言う通り仕事を辞めれば悩みが一つなくなるのは事実だが――


「そりゃ仕事に関するストレスはなくなるけどさ。こっちはお前と違って金を稼がないと生きていけないの。失業手当てだっていつまでももらえるものじゃないし」


 慧は、雪雄のようなどこにでもいる人間とどうして付き合っているのか疑問になるくらい裕福な家の生まれだ。彼の父親は、雪雄でも名前を知ってる大企業の役員で、実家はかなりの豪邸である。彼の父親の年収は低く見積もっても、ただの公務員である雪雄の父親の年収の三倍はあるだろう。


 だから、慧は高校を卒業してから就職どころかバイトすらしていないのに金に困っている様子はない。彼が住んでるマンションも、雪雄が住んでるアパートよりずっと上等で、家賃も広さも倍以上違う。


 ボンボンなニートという羨ましい環境の慧であるが、雪雄はそんな彼のことを不愉快に思ったことは一度もない。慧はなかなか愛嬌のある男で、金持ちであることをひけらかしたりしておらず、気取ったところや鼻持ちならないということはまるでない。


 現に、彼は中学でも高校でも家が金持ちだという理由でいじめを受けたりしていなかった。実家が金持ちであるという点以外は雪雄とそれほど変わりはない。


「てゆーか仕事って楽しいの? よく仕事が生き甲斐だっていう人っているじゃん」

 慧は不思議そうに顔をしかめて質問する。

「楽しくない。楽しく仕事をしてる人間なんて一握りしかいないよ。大抵の人間にとって仕事は生き甲斐じゃなく、金を稼ぐために仕方なくやることだ。俺だって同じさ。仕事しないで暮らしていけるなら、大多数の人間は仕事なんかしなくなるよ」


 大多数の人間にとって、仕事は金を稼ぐ手段以上のものではなく、故に楽しいものにはなり得ない。仕事に生き甲斐を求めても仕方ないし、そんなものを生き甲斐とするのは馬鹿だ――雪雄もずっとそう思っていた。


「へえ、楽しくないのかー。楽しくないことを生きていくためとはいえよくできるな。俺には絶対無理だ」

 慧は感心するように頷いてゲームのコントローラーを床に置いた。

「だろうな。お前が真面目になって仕事し始めたら、俺は悪い病気にかかったか、交通事故かなんかで、脳に重大な欠陥ができたんじゃないかと疑っちゃうね」


 雪雄の知り合いの中で、慧ほど真面目に仕事をしている姿が思い浮かばない奴はいない。コンビニのレジに立っているのさえ似合わないような男だ。無軌道にふらふらと遊び歩いているのが一番似合っている男である。


「そうかな。ま、俺のことはいいじゃん。俺が仕事をしようがしなかろうが、誰も困らないんだし」

「俺は困らんけど、お前の両親は困るんじゃないのか?」


 いくら裕福だと言っても、息子がいつまでもふらふらとニートを続けているのは親としては心配なはずである。


「大丈夫大丈夫。親から縁を切られたら、金持ってそうな女のところに転がり込んでヒモになるから。運のいいことに、そのへんいくつかアテはあるし」

「そいつは羨ましいことで」

 こいつを見ていると、働かずに暮らしていけるというのもある種の才能や技能なのかもしれないと思えてくる。なんとも不思議だ。


「それで、考えごとってのはなに? 仕事が見つからないこと? それとも収入がないことに対する不安?」

 その言葉を聞いて、雪雄は少し思案してから、

「収入がないこと――かな。別に仕事なんて選り好みさえしなければなんとかなるし」

 と、正直に打ち明けた。


「そうなの? リーマンショック以降、ずっと不景気だとか就職難だとかよく聞くけど」

 慧は不思議そうに首を傾げて言った。

「不景気なのも就職難なのも事実なんだろうけどね。だからといって仕事がまるでないわけじゃない。

 俺は自分が食べていけるなら、一生バイトや派遣だって構わないし。


「世間じゃ如何にもバイトや派遣で食っている人間をクズのようなに扱ってるけど、バイトだろうが派遣だろうがそれだって立派な仕事だ。そういうことで優劣をつけていいもんじゃないと俺は思うよ。


「バイトや派遣の人より、正規雇用されて派遣の倍くらいの給料をもらっていながらクソみたいなことしかしない人間の方が、そういう人たちよりよっぽど性質が悪い」


 そう言って雪雄は山岡のことを思い出した。あのクソとゲロの化合物のような男は、まだのうのうとあの会社に雇われているのだろうか――そんなことを思うと、ふつふつと言いようのない怒りが込み上げてきた。


 どうしてあいつのような真面目に仕事もしないような人間が会社に残って、真面目に働いていたにも関わらず、そいつに嫌がらせをされ続けた雪雄の方が仕事をクビにならなければならないのか。おかしい。こんなの絶対間違っている。だれが日本をこんな理不尽な社会にしたのだ? 一体誰のせいだ?


「おいおい。なに怒ってるんだよ。まだあのお前の上司だった奴――山下だっけ? あいつのことむかついてるのか?」

「そりゃそうだよ。俺が仕事をクビになったのはあいつのせいなんだよ。あいつさえいなければ俺は普通に仕事を続けられたんだ」


 こんな風に思い悩むことなんてなかった――それは確信できる。

 慧が山岡の名前を間違えているのは訂正しなかった。


「そんなのを聞くと、お前、その仕事が好きだったように思えるんだけど――別に好きだったわけじゃないんだろう?」

「ああ。別に好きだったわけじゃないし、思い入れもない。ただ気に入らないだけなんだよ。これでも真面目に働いてたんだぜ、俺。


「嫌がらせをされていたのはこっちなのにさ。確かにキレてぶん殴っちゃって、それが悪いことだっていうのはわかってるし、正当化するつもりはないけど――ひどい嫌がらせをしていた方がなんのお咎めもなしっていうのはどう考えてもおかしいだろ? そいつに俺はなにかしたわけじゃないんだぜ」

「俺には難しいことはよくわかんねえけど――嫌がらせをしてきた上司のさらに上司にそれを言ったりしなかったのか?」

「言ったよ。一時はそれで収まった。

 でも、今度はその嫌がらせが陰湿になっただけだった。俺が相談した上司も注意以上のことはしてくれなかった。俺のことなんかどうでもよかったんだよ。高卒のクソガキだとしか思われてなかったんだ! 畜生!」

 雪雄は床に向かって思い切り拳を振り下ろした。


「落ち着けって。自分の家で怒ったってどうしようもないだろ」

「そうだけどさ」


 確かにここで怒りをぶちまけてもなにも変わらないのは事実だ。

 しかし、この気持ちをどこかにぶつけなければやってられないのもまだ事実だった。山岡に報いを受けさせなければこの気持ちが収まることはない。あいつのことなど忘れてしまえばいい――何度そう思ったことか。


 でも、どうやってもそれは叶わなかった。どうすればあの男に対して報復ができるのか。日が過ぎていくたびにその感情は肥大化し、それは真っ黒な泥のようになって心を侵食し埋め尽くしていく。それをどうにかしないことには前に進めなくなってしまっていた。どこまであの男は自分に対して嫌がらせをしてくるのか――その怒りは現在でも爆発的な勢いで大きくなり続け、暴風雨のように荒れ狂い、その熱量を増大させていく。


「お前のその気持ちがわかるけどさ。でも、そいつに対して仕返しをしてやるっていっても一体どうするんだ? 斉藤みたいな奴に頼んでそいつをボコボコにしたいっていうわけでもないんだろ?」

「ああ。そんなことしてバレたら捕まるだろうし、そんなことをして捕まるなんて馬鹿らしい。俺はもうそういう野蛮なことは卒業したんだ。それに斉藤みたいな奴に借りは作りたくない」


 斉藤というのは雪雄たちの同級生で、在学中から地元のヤクザと関わりがあったような学年一――いや、学校一の危険人物だった男である。

 学内でも学外でも、奴とトラブルを起こして無事だった者はいない。


 卒業した現在は、その関わりを持っていた暴力団の一員になったというのを小耳に挟んでいた。雪雄は、そんな斉藤とは比較的仲もよく、それなりに親交があったので、頼みこめばやってくれるかもしれないが、相手は本物のヤクザである。


 まだ末端だろうが、それでもヤクザに借りを作るのは危険だ。下手をすれば骨までしゃぶりつくされる可能性がある。そんな多大なリスクを負ってまであの醜い中年を痛めつける意味はない。

 正直言って虫のいい話かもしれないが、あの男に対する報復はできる限りリスクを負わない方法で行いたい。


「でも、そうなると難しいよな。暴力的じゃない方法での仕返しって」

 うーん、と言いながら慧はしばらく唸っていたが、「駄目だ。わっかんね」と言って寝転がった。

 雪雄も慧と同じ気持ちだった。暴力に訴えない仕返し。法による裁きを逃れられる行為。あるにはあるのだろうか、今の雪雄にできるような手段はまずないのだろう。


「こういう話はこのへんでやめにしようぜ。ちょっとくらい別のことを考えたって罰は当たらないだろ。そういえばお前、明後日の中学の同窓会に出る?」

 その連絡が雪雄のところに回ってきたのは二週間ほど前のことだ。

「一応出るつもりだけど――お前は?」

「俺も出るよ。久々に顔を合わせたら面白いだろうし」

「しかし、どうして今の時期に同窓会なんてやるんだ? 俺たち来年成人式があるんだから、同窓会なんて別にその時でもいい気がするけど。てゆーか、今会っちゃったら成人式の時の驚きが減っちゃうんじゃないの?」


 雪雄たちは今年二十歳になるので来年成人式を控えている身である。大体の人間は成人式に顔を出すのだから、その半年以上前に同窓会をやる必要性があるとは雪雄には思えなかった。


「確かにその通りだけど――待ちきれなかったんじゃないの? もしくは、中学の時の同級生とよりを戻したかったとか」

「そもそも誰が企画したんだ? この同窓会」

「さあ。俺もメールが回ってきただけだから詳しくは。女子の誰からしいって話は聞いたけど」

「女子か……」


 中学の同級生の女子――成人式前にわざわざそんなことを企画する奴は誰だろう。考えてみたがわからなかった。そもそも中学の時の同級生の女子のことなど、今となってはほとんど記憶に残っていない。

 記憶に残っていたとしても、その頃とは別人になっているだろうから、覚えていようと覚えていなくともあまり変わらないだろうが。


「本当によりを戻したいのかどうかは知らないけどさ。わざわざこんな中途半端な時期に同窓会なんてやらなくてもいいだろ。俺やお前みたいに無職だとか、浪人してるとか、もう就職してるってんなら出会いの場が欲しいっていうのはわかるけどさ。大抵の奴はまだ専門学校とか大学に通ってるんだし、同窓会なんざしなくてもいくらでも出会いの機会はあるんじゃないの? それに大学生ってのは毎週末必ず合コンして女をとっかえひっかえしてる生き物なんだろ? 聞いたことあるぜ」


「穿った見方だな、それ。大学生だからって毎週末必ず合コンして、女をとっかえひっかえしてる奴なんてそんなにいないだろ。普通の奴は結構普通だと思うぜ。よく知らないけど。つーかお前。なんだか同窓会に随分否定的だな。出たくないのか?」

 慧は訝るような面持ちをして訊いた。


「別にそういうわけそうじゃない。そういう集まりに誘ってくれたのは嬉しいよ。出るのが面倒臭いだとか、昔の奴らと顔を合わせたくないとか思ってるわけでもない。今の俺は無職で暇を持て余してるわけだしな。


「けど、来年成人式があるってのに、こんな中途半端な時期にやる意味がよくわかんないだけだよ。そういやあいつ今なにやってんだろ、って気になる気持ちはわかるけどね。俺もそういう奴何人かいるし。


「でも、大概は卒業してから四、五年は顔を合わせなかったんだぜ? あと半年くらい待つの、どうってことないだろ」

「うーん。そう言われりゃあそうだな。確かに変な時期だ。学生やってる奴だって夏休みはまだ先だろうし――四年、五年の間、全然会ってなかったのに、急に待ちきれなくなったってのもちょっとおかしいよな。なにか別の目的があったりして」

「別の目的って?」

 雪雄は訊いた。


「中学時代にいじめられてた奴が、いじめてた相手に復讐するため、とか」

「まさか。さすがにそれはないだろ。どっかのサスペンス小説じゃないんだから。今になってもその時の気持ちが収まらないくらいひどいいじめを受けてた奴なんて、少なくとも俺たちのクラスにはいなかっただろ。結構前だからよく覚えてないけどさ。あったとしたらそいつ、相当な粘着質だな」


 そんな人間がいただろうか――雪雄は今となってはおぼろげなその頃のことを思い出して少し考えてみたが、今の自分の記憶の中に残っている当時のクラスメイトたちの中に、そんな粘着質な相手の心当たりはなかった。


「確かに。中学の時のことを未だに引きずってるって、本当にひどい目に遭ったか、相当粘着質じゃないとできないよな。卒業して環境が変わって一年もすりゃあ忘れるのが普通だ。


「でもまあ、確かにお前の言う通り、俺たちのクラスでひどいいじめがあった覚えはないけど、いじめとはいかないまでもちょっとした気持ちでからかったりとかそういうのがまったくなかったわけじゃなしな。


「俺たちだってそういうことを一度もしたことがないってわけじゃないだろ? やった側は軽い悪ふざけのつもりで、悪意なんてまったくなかったとしても、やられてた側は目茶苦茶気にしてるっていうのはよくあるし」

「ふむ」


 雪雄は顎に手を当てて頷いた。

 確かに慧の言う通り、中学時代の雪雄たちはやんちゃな方だったので、大人しくて地味な奴をからかったりしたこともそれなりにあった。


 勿論、ひどい暴力を振るったり金を巻き上げたりなどはしていないが――それでもやられていた側からすれば、当時の雪雄や慧の遊び半分の行為が、いじめと判断されてもおかしくはないだろう。


 いじめかどうかは、やられていた側がどのように感じていたかで大きく変化する。たとえこちらがちょっとした悪ふざけのつもりでも、相手が不愉快に感じていたのなら、それはいじめとなってしまう。


「じゃあ、俺やお前も、中学の時に遊びのつもりでからかっていた奴から目茶苦茶恨まれてるかもしれないってわけか」

「かもな。でも、俺たちは悪ふざけ以上のことはやってないし、それで四年も五年もずっと恨まれてるってことはさすがにねえと思うけど――実際問題としてそこはどうなんだろうな。人間ってのはわからん生き物だし。しかし、俺たちがやってた悪ふざけで、卒業してから今までずっと恨み続けられるってのは逆にすごいけどな。誰かを恨むのだってエネルギーがいるもんだろ。忘れちゃった方がずっと楽だ」


 慧の言う通りである。誰かを恨み続けるというのはエネルギーが必要だ。細かいことをいつまでもぐじぐじと気にしているよりも、綺麗さっぱり忘れてしまった方がずっと楽である。ちょっとしたいざこざや悪ふざけで何年も恨み続けられるものではない。


 雪雄は山岡にされていた嫌がらせのせいで、誰かを恨むということが、自分が想像している以上にエネルギーが必要であるというのをこの身で実感している。


 雪雄だって、山岡の嫌がらせが一年以上続いていなかったのなら、さっさと忘れていたはずだし、そもそも仕事だってクビになることはなかった。自分が受け続けた理不尽で理由のない屈辱的な行為――それがあるからこそ雪雄は山岡を恨み続けているのだ。


 いや、正確に言うならば恨まずにいられない。本当なら雪雄だってあんな男のことは綺麗さっぱり忘れてしまいたい――心からそう思っている。しかしできない。一年もの間、奴によって侮辱され続けた雪雄の尊厳がそれを許さないのだ。


 あの男に報復しろと。

 あの男を許してはならないと。

 あの男にされたことを消して忘れてはならないと。

 あの男に自分が受けた屈辱がどれほどのものだったのか理解させろと。

 雪雄の尊厳はただひたすらにそれを叫び続けている。


 誰かを恨むのはとても簡単だ。でも、恨み続けるくらいなら、さっさと忘れてしまった方がいい。

 雪雄自身、自分の心の一部があの男に対する黒い感情で支配されているのは非常に不愉快だ。あんな男のせいで、自分の心の一部が支配されていると思うと、屈辱的な気持ちになる。

 だからきっと、雪雄や慧を卒業してからずっと恨み続けている奴などいるはずもない。

 恨み続けるのは、自分に対して屈辱的な感情を抱き続けるのと同義なのだから。


「まあ、俺たちがどう思われてるにしても、昔のことを必要以上に気にしてもしょうがないよな」

 そう言って慧は子供のような屈託のない笑みを見せた。


「確かにそうだな。お前の言う通りだ。そんな確証のないことを心配してても疲れるだけだし。しかし、同窓会か。行きたくないわけじゃないんだけど、気持ち的にはちょっと複雑ではあるな」

「ん? どうして?」

 慧は不思議そうに首を傾げた。

「いや、ほら。俺っていま無職だろ。せっかくの同窓会だってのに無職じゃなんか格好つかないじゃないか」

 雪雄のそんな言葉を聞いて慧は軽く笑い声を上げた。


「なに言ってんだよ。俺だって無職だぜ。そんなに恥ずかしがることないだろ。三十過ぎてから同窓会じゃないんだから、俺らみたいな無職野郎なんて珍しかないぜ。結構いるんじゃねえかな。専門学校や大学に入ったけど、遊び呆けてろくに行かないまますぐ辞めちゃったのとか絶対いるぜ」

「そういうもんかなあ」


 この同窓会に顔を出す人間の何人くらいが雪雄や慧のような無職なのだろうか。中学の時のクラスメイトで無職なのが似合っていそうなのは慧くらいである。


「そういうもんだよ。成人式前の俺たちが世間体とか気にしてもしょうがねえって。そういうのは歳取ってから気にすりゃいいんだよ」

「そういうこと言ってるお前は三十になっても四十になっても無職をやってそうだよな」

「当たり前だろ。今の日本で働いたら負けなんだよ。今の日本の企業は若い社員を使い捨てにしてるからな。どこもかしもブラック企業だらけなんだよ、日本って国は。福利厚生なんてありゃしない。どこもかしもサービス残業の叩き売りさ。本当の意味でまともな企業なんて数えられるくらいしかねえんじゃねえかな。会社に酷使された挙げ句使い捨てられるくらいなら、ゴミを漁るホームレスになる方を選ぶね」

「そこまで働くのが嫌なのか。お前は」

 そこまで働くのを拒否するというのはある種の格好よさすら感じられる。


「ああ。嫌だね。絶対に嫌だ。労働が義務の時代はもう終わったんだよ。リーマンショックと一緒にな。今のトレンドはいかに働かずに食っていけるかだ。俺は死ぬまで働かないというポリシーを貫くと決めてる」

「そこまでニートをこじらせたら尊敬に値するよ。俺には無理だ」

 雪雄はそう言ってため息をついた。


「勘違いしないでほしいんだけど、俺は別に働いている人間を馬鹿にしたり見下したりしてるわけじゃないんだぜ」

「そうなのか?」


「そうだよ。だってさ、こんなクソ以下の労働環境の日本で働くなんて普通にすごいだろ。尊敬に値する。月に五百時間働かせてるような企業がまかり通ってる国なんだぜ? そういう話を聞いたら働きたくなくなるのが普通だろ。

 お前だって上司からなんの謂れもないのに嫌がらせされてたんだし、働きたくないって思わないのか?」


「そりゃまあ、多少は。別のところに就職しても同じような目に遭わないとは限らないし。でも、暮らしていく金を得るのに一番手っ取り早い手段はやっぱり労働なんだよな。仕事をせずに生きていく手段を見つける方が大変だと思うけどな、俺は」

「日本は真面目に働くのが当たり前の国だからな。だからって、そういう手段がないってわけじゃない。そんなもん探せばいくらでも見つかるよ」

「……ふむ」


 雪雄にはそんな手段など到底見つからないと思うのだが、慧ならできてもおかしくないと思えてくるのが不思議である。間違った方向性にしかエネルギーを注げないのはきっと慧のような奴のことを言うのだろう。そんなことを思った。いくら友人だからといってそれを言うほど雪雄は馬鹿ではないが。


「ところで話は変わるけどさ。これからパチ屋に行かない?」

「パチ屋? なんで?」

「ついさっき思い出したんだけど、今日『牙王』の新台が入るんだよ。すっかり忘れてた。どうせこれから予定もないだろ?」

「そうだけど――今の時間じゃどこの店も空いてないんじゃないか? 人気のある台だし」


 時計を見てみるともうすでに午後の六時を回っていた。稼働したばかりの新台というのは滅多に空かないものだ。開店から閉店までどこも埋まったままというのはざらなので、それを目当てに開店前から並んでいる人間も少なくない。『牙王』などの人気のある台ならばなおさらである。


「そうか。そうだよなあ。今からじゃどこも空いてないよなあ。すっかり忘れてたぜ。でもまあ、駄目元でちょっと覗きに行ってみようぜ。どこも空いてなさそうだったら飯でも食いに行こう」

「ああ。そうだな。いい時間だしな」

「じゃ、そうなれば善は急げだ。さっさと行こうぜ」

 そう言って二人は立ち上がり、雪雄の家から出て外に向かった。

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