超能力が使えるようになった結果

あかさや

第1話

 自分にとって仕事というものがそれなりに大切なものだったのだと夏目雪雄が気づいたのは、クビを切られてから一ヶ月ほど経過したある日――六月の初めのことだった。


 その仕事に生き甲斐を感じていたわけではないし、好いていたわけでもない。

 だが、嫌で仕方なかったわけでもなかった。仕事は仕事。自分が食っていくためにやらなければならないこと――それ以外の何物でもなく、それ以上でもないモノ。なにかを望んだところで、いいことなんてなにもない。労働の対価に見合うだけの、自分が食うのに困らない金が得られればいい――そう考えていた。


 だから、自分を雇ってくれた会社に対して思い入れなどなに一つない。クビになったらそれまでの話だ。


 現代は、終身雇用は崩壊しかけている。


 自分なんて名前を書いたら合格できるような、地元では荒れていると評判の底辺公立高校を卒業した、学歴も資格もない人間だ。会社が傾き始めた時、自分のような人間が人員整理で真っ先にクビを切られるだろう。それならそれで構わない。そうなったその時はその時だ。別の仕事を探せばいい。選り好みさえしなければ、雪雄のような人間でも雇ってくれる場所はいくらでも存在するのだから。そこには未練もなにもない――そう思っていた。


 けれど違った。

 金をもらうためだけに割り切ってやっていること――そう思っていたはずなのに、仕事をクビになった次の日、自分の中を支配していた感情は、仕事という自分を縛りつける枷から逃れることができた解放感ではなく、自分にとってなにか大切な『なにか』を失ってしまったかのような、ある種の虚無感だった。


 意外――だと思った。

 たかが仕事に、そんなものを抱くなんぞ思いもしなかった。


 雪雄は、高校を卒業してから一年と少しの間勤めていた会社に対して、知らず知らずのうちに、なんらかの感情を抱いてしまったのだろうか。

 仕事なんて所詮、自分が生きていくために必要な金を得るための手段に過ぎないというのに。

 本当に馬鹿だと思う。どうしてこんな感情を抱いているのか雪雄にはまったくわからない。


 仕事は好きなでもなければ、嫌いなでもなかった。すくなくとも雪雄にとってはそういうものではなかったはずだ。社内に特別仲のいい人間がいたわけでもない。それなのにどうしてこんな思いを味わわなければならないのだろうか。


 たかが仕事をクビになった程度で。

 そんなものを抱いてしまっているのは、仕事をクビになって収入がなくなってしまったからだろうか?


 今のところは失業保険と、あまり多くない銀行預金なんとか食いつないでいるが、それでやっていけるのはそう長くない。失業保険というのは無職の人間がだらだらするためにあるのではなく、職を失った人間が、次の仕事を見つけるまでの間にもらえる一時的なものだ。


 仕事を見つけるのなら、今すぐ動き出して仕事を探さなければならないだろう。

 仮にいますぐ動き出しても、失業保険が切れるまでの間に、ほいほいと次の仕事が見つかるとも限らない。それがわかっているのに、なかなか動き出すことができなかった。さっさと割り切って次の仕事を見つけるという気になることができない。


 どうしてだろう。

 仕事なんて好きでもなければ、大切でもないはずなのに。

 そんな風に思うのはきっとあいつのせいだ。

 自分の上司だった男――山岡という醜い四十男のせいだ。

 雪雄が仕事をクビになったのだって、元を質せば山岡のせいなのだ。

 あの男のことを思い出すと、今でも虫唾が走る。


 どういうわけか知らないが、山岡は雪雄のことを入社した時から目の敵にしていた。当然、雪雄は山岡に目の敵にされるようなことをした覚えはない。雪雄が入社する以前に山岡となにかトラブルがあったということもないだろう。間違いなく初対面である。


 それなのに山岡は、雪雄がやることすべてに対して嫌がらせとしか思えないようないちゃもんばかりつけてきた。

 そのうえろくに仕事をやらないくせにいばり散らしていて、ちょっとしたミスすると人目も憚らずに目の色を変えて狂ったように怒鳴りまくり、上司のくせに自分は責任をまったく取ろうとしない――そんな男だった。


 そんな目に遭っても雪雄は我慢していた。こんな理不尽な目に遭うのも仕事の一つなのだと、なんとか自分に言い聞かせて。入社してから退職の日まで、理不尽としか言いようのない上司の嫌がらせに耐えながら仕事をしていた。真面目に働いていた――と思う。


 毎日毎日、理不尽なことこのうえなく、嫌がらせとか思えない叱責と罵声に雪雄は充分耐えていた方だったはずだ。


 でも、一ヶ月ほど前のある日、それに耐えられなくなって限界を迎えてしまった。雪雄は、いつものように理不尽かつ理由のない、奴のストレス解消としか思えない、仕事の内容とはほとんど関係ない馬鹿みたいな叱責をしてきた山岡のことを思い切りぶん殴ってしまったのだ。


 誰かを殴ったのは高校を卒業してからは初めてだった。

 人を殴る感触というのは、いつになっても変わらない。そんなことを心のどこかで感じた。


 殴られた山岡は壁に思い切り叩きつけられた。雪雄にぶっ飛ばされた山岡はなにか喚いていたが、その内容はまったく記憶にない。きっと、普段雪雄に言っていたことと大差はないだろう。


 雪雄は、その山岡に対して今までの仕返しとばかりに怒りに任せて怒鳴り散らして、最後に、奴の顔面に辞表と一緒に唾を吐き捨ててそのまま会社を飛び出した。


 あんな風にキレたのは高校を卒業してからは初めてだった。

 その直後はスカッとした気分になったが、それもすぐに収まってしまった。

 当然、山岡に対してなにかを抱いたわけじゃない。


 ただ、冷静になってから、一時的な感情に任せてキレてしまったことを後悔した――それだけだ。高校を卒業して社会人になったのだから、そういうことも一緒に卒業しようと思っていた――しかし、結果としてそれは無理だった。雪雄は上司の嫌がらせに耐えられなかったのだ。これは否定しようもない事実である。


 とは言っても、あの日我慢できていたとしても、そう遠くない日に同じようなことになっていたとは思うが。


 なにもかも、あの山岡とかいう奴のせいなのだ。

 雪雄は、山岡以外の会社の人間とはトラブルもなくそれなりにうまくやっていた。あいつさえいなければ、雪雄は仕事を辞めることもなかっただろう。雪雄の人生はあの醜い四十男に狂わされたのだ。一発殴って唾を吐きかけてやったくらいでは収まりなどつくはずもない。奴の醜い顔がさらに醜くなるまでぶん殴ってやりたいくらいだ。


 本当に憎たらしい。

 そもそも、どうして理不尽な嫌がらせをされていた自分がクビにならなくてはならないのだろう。当然、自分が手を上げてしまったことを正当化するつもりはない。


 けれど、山岡が雪雄にやっていたことは社会的に許されることではないはずだ。制裁を受けるべきなのは自分ではなく山岡ではないのか? あれだけ小中学校でのいじめが問題にされているのに、社会人はそういうことをやってもいいのか?


 山岡も憎いが、山岡を見過ごした会社も同様に憎たらしい。

 奴と、奴を見過ごした会社に対して報復をしてやりたい。自分が前に進めずにいるのはそのせいだ。そいつをどうにかして――


 しかし、今の自分になにができるというのか。

 雪雄は底辺高校卒業の無職の若者である。金も権力もない。両親だってただの公務員と専業主婦だ。山岡と、山岡を見過ごした会社に報復などする力など、地面を這いずっても見つかるはずもない。


 同級生には半分やくざに足を突っ込んでいるような荒くれ者も多いから、そいつらの力を借りれば山岡をぶちのめすことくらいはできるだろう。


 だが、そんなことをしても自分が捕まるだけだし――それに、もうそういうことは卒業したのだ。高校生同士でそういうことをするならまだしも、高校を卒業して来年には成人式だというのに、そんな馬鹿みたいなことをしたいとはまったく思わない。


 喧嘩だなんだとか言っていられるのは高校生までだ。高校を卒業し二十歳になろうかという時に、そんなことを言ってるのは正直かなり恥ずかしい痛々しい。

 最近はそういうことを恥ずかしいとも思わない恥さらしも多いが、少なくとも雪雄はそのように思っている。


 だが、なんとかして奴らに報復してやらないと収まりがつかないのは事実だ。

 山岡に。

 そして山岡のようなろくでもないクズを容認した会社に。

 一体どうすればそんなことができるのだろうか。

 金も権力もない人間が報復を可能にする力。そして、報復を行なっても罪に問われないようにする力。

 そんなもの一体どこにあるというのか。


 もし、自分が漫画に出てくるような超能力者だったのならできるかもしれない――が、雪雄は超能力者でもなんでもない、ただの無職の青年だ。そして、現実には超能力などというものは存在しない。


 手の平からは火もビームも出せないし、空を飛ぶこともできないし、触らずにものを動かすこともできない。それが現実だ。それがわからないほど雪雄は馬鹿ではない。


 この現実における最も強力な力とは金と権力である。その二つを持っていれば、この社会で大抵にことはできるようになる――が、当然、無職の若造に過ぎない雪雄はそのどちらも持っていない。

 金や権力も凌駕する力が存在すれば――そしてその力を自分が手に入れることができれば――雪雄は生まれ変わることができるはずだ。こんな鬱陶しくて嫌な感情とは無縁でいられるだろう。


 この現実を変えるだけの力が欲しい。

 しかし、そんなものどこを捜しても存在しない。仮にあったとしても自分のような人間が手に入れられるものではないのだろう。

 現代社会というものは、そういう風にできている。


 本当にこの社会というやつは上手くできていると思う。成り上がりや下剋上など、貧乏人の空想でしかない。搾取される側の人間は搾取され続ける。これが日本社会の実態なのだ。それを考えると、本当に嫌になる。

 現実を――いや、自分を変えうるだけの力が欲しい。

 それさえあればきっと――

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