揚羽_47

 玄関の前でクロエは俯いたまま、夜も遅いのでその暗さで表情は伺えない。ずっと立たせておく訳にもいかないので、私は家に上がるようクロエを促すほかなかった。

 先にクロエを自室に案内し、私は台所で飲み物の用意をした。

 さて、どんなふうに接すればよいのだろうか。結局私はクロエと逢ってしまった。クロエはずっと俯いたままだったので、何を考えているのかその表情を伺うこ

とができなかった。千佳さんからは、果たしてどのように話を聞かされているのだろうか。直接話しをつけてきなさいだなんて千佳さんが言うはずはないだろうから、クロエは自分から私の元へ訪ねてきてくれたのだろうとは思う。でもこのことを、千佳さんは知っているのだろうか。もし知らず、後々バレるような形で発見されたとするならば、私の所にまた非難の電話がかかってくる可能性がある。はっきり言って、それは嫌だった。もう千佳さんの声は聞きたくない。ましてや再度顔を合わせるようなことになったとしたら最悪だ。考えただけでも虫唾が走る。


 私はオレンジジュースを注いだグラスを二つトレイに乗せ、クロエが待つ自室へ戻った。

 クロエは丸カーペットの上に座っていた。レギンスを穿いた腿の上で両手を丸め指を指を動かしている。私はトレイをテーブルに置き、クロエの正面に腰を下ろした。

 クロエはじっと黙ったままだったので、私から口を開いた。

「私ね、クロエとはもう逢わないって、千佳さんに言ったの」

 クロエは喋らない。私はこの先の言葉を続けるべきか迷った。けれど、伝えなければならないのだろう。そうしなければ、私自身の諦めもつけられない。

「だからきっと……」

 唾を飲み込んで言葉を紡ぐ。胸がちくちくする。

「一緒にいられるのはこれが最後になるね」

 私の言葉を聞いて、クロエはようやく顔を上げてくれた。しかし私はその顔を見て、息が止まった。

 酷い顔だ。左の頬が真っ赤に腫れている。なんて痛々しい。確かに千佳さんがこれを見れば、物事の原因だと思っている私に対して、平手で叩いた気持ちも理解できないものではない。

「クロエ、ごめんね」

 私は懺悔するように呟いた。

「いいの」

 クロエは首を振って小さく言った。「大丈夫?」と訊くのも滑稽だ。痛いに決まっている。私はなんと声をかければいいのか分からず、唇を噛んだ。

「揚羽には嫌な思いをさせちゃったね。ほんとうにごめんなさい」

 クロエの声を聞き、ちゃんと返事をしなければと、はっとさせられた。

「いいえ、違うの。私だって悪かったの」

 しかしクロエは首を横に振った。だからといって、こんな姿を見せられた私は、これっぽっちも救われた気分にはならない。だってクロエの、あの可愛らしかった、雪のように白くなめらかだった肌と顔は今、こんなにも酷く腫れて赤くなっているのだ。私はその現実を目の当たりにして強く後悔した。

 この道に進ませないようにすることだって、私なら出来たのだ。

 クロエが、あのクロエが、私の恋人だったクロエが、浴室でシャワーを浴びながら泣いていたのだ。

 それもそのはずだ。私だって、男の写真を撮るのに失敗した時、恐怖と失望に震え涙した。それが、まだ十四歳の少女にも襲いかかったのだ。同じ思いをさせない為にも、クロエには守ってあげるべき人間が必要だったのだ。いかに仕草が大人びていようとも、体は華奢で精神だって成熟しているとは限らない。

 私が見誤っていた。ごめんなさいという言葉だけでは到底足りない。しかしクロエにはそれしか言えず、これは私のボキャブラリーの問題だけではなく、なにかもっと別の問題をはらんでいるように思えた。

 過去に戻れるのならば、絶対にクロエを引き止める。もしかしたらクロエはあの時、まだ一枚も写真が撮れていないと私に伝えたのは、相談をしたかったのかもしれない。ああ、後悔の渦は止まらない。

 クロエも口をつぐんだまま、何かを探っているようだった。

 そんな彼女を見ていると、これ以上はどうしようもないと苦しさで胸が爆発してしまいそうだった。

 時間を戻すことは不可能だ。時間が経てば傷は癒えるかもしれないが、問題の本質はそこではない。

 私がクロエを傷つけた。これは決して覆すことの出来ない事実、変えようのない現実だった。


 私の瞳がクロエの腫れた頬を映している。恋人同士の頃だったら、手を伸ばしてその頬に触れていただろうか。でも今は、あまりにも痛々しく、とてもではないができそうにない。

「その頬、痛いよね」

 当たり前だ。当たり前過ぎて口にしないようにしていたのに、沈黙に耐えきれず、私は場当たり的な言葉を発していた。

 うまい言い回しなんてひとつも出てこない。言葉ではどうやったってクロエの傷は癒せない。私は無力だ。

 しかしクロエは私の言葉を聞いて笑顔になった。

 どうして笑うのか理解ができない。その表情が私を不安にさせた。

「いいえ、この頬はね、全然痛くないの」

 そう言ってクロエは腫れた左頬を自らの両手で包み込んだ。

「だってこれは、千佳がわたしのことを思って叩いてくれたの」

 私は言葉の意味が分からず唖然とし、言葉を聞き間違えてしまったのだろうかとさえ思った。けれど私の耳は別にどこもおかしくなんてない。

 だからクロエははっきりとこう言ったんだ。うっとりとし声と表情で。


――千佳が私の頬を叩いてくれたの


 その腫れた頬は千佳さんがやったのだ。

 そしてそれをクロエは嬉しく感じているらしい。

 けれど私には、その意味が分からない。どうし笑えるのだろう、どうして声を弾ませて話せるのだろう。

 それにどうして私はこんなにもクロエを遠くに感じているのだろう。

「わたしがひとりで問題を抱え込んでしまったから、千佳も泣きながら叱ってくれたの」

 クロエは私の方など向いておらず、まるで恋する乙女のようにもじもじと、独り言を呟いている。

「千佳はわたしの全身を何度も叩いた後にね、とても優しく抱いてくれたの。それが本当に嬉しくて」

 私の心は冷えていく。そうか、そうゆうものなのか、クロエの求めていたものは。

「だからね、今日は千佳の為に、揚羽にさよならを言いにきたの」

「えっ……」

 ふと顔を上げた先に見えるクロエの瞳には、もう私の姿など映っていない。

 たしかに私は、自分から千佳さんにクロエとはもう逢わないと言った。しかしかといって、こんなにも釈然としない終わり方が訪れるだなんて考えてもいなかった。

「そう……なんだ」

 声が震えないように努めたが、うまくいっているだろうか。もっともクロエは、自分の世界に入り込んでいるみたいだし、たぶん私のニュアンスなんて気に止めてもいないだろう。

 私は今すぐクロエの前からいなくなりたかった。いや、ここは私の部屋の中だ。ならばクロエを追い出すべきだ。

「揚羽、ごめんね。わたしやっぱり千佳が好きなの。それに千佳にとってもわたしが必要なの」

 私は落ち着いて、テーブルの上に置いたオレンジジュースに手を伸ばし飲んだ。それは暖房のせいで温かくなっておりまずく、喉をぬるぬるとさせた。

 クロエと千佳さんの関係について、私はもう何も口に出すつもりはなかった。

「もう夜も遅いし、駅まで送るわ」

 早く追い出してしまおう。言葉を発してすぐに私はべたつく唇を舌で舐めた。

 クロエを一人で帰してもよかった。けれど私はそうしなかった。

「そう? ありがとう」

 このクロエの柔らかな笑顔が私に向けれることはもう二度とない。私は今できる精一杯の作り笑顔で応えた。


 家の鍵を締めたことを確認し、私達は駅までの道を歩き始めた。こうして一緒に並ぶのも最後になるのだ。クロエとの時間によって、私は何を得て、何を失ったのだろうか。首を上げると、夜空には沢山の星が浮かんでいた。

 クロエは私の腕に絡んでくることも手を繋ぎにくることもなかった。

「そういえば、私の家に来たこと、千佳さんには伝えてあるの?」

 後になって怒鳴り込まれても困るので、今のうちに尋ねておくことにした。

「言ってない。今頃は会社で頑張っているはずだから。昨日までずっとわたしの為に会社を休んで側にいてくれたの。だから、ね。こうして夜出歩くのも今日で最後」

「そう……寒いわね」

 喋ると口から白いものが出た。私はそれを空に向かって吐き出す。

 家に戻ったら、スマホに入ったクロエのデータはすべて消去しよう。

「クリスマスに雪、降るかな?」

 クロエに話しかけられ、私は少し考えてから口を開いた。

「どうだろうね。この辺りは年が明けなきゃ振らない気がする。私の記憶の中じゃ、ここ数年ホワイトクリスマスはなかったと思う」

「そうなんだ。それは残念」

 街頭に照らされ、亜麻色をしたクロエの髪が艷やか輝いた。でもこれは染色されたものだ。前にクロエがそう言っていた。本当の髪色はどんなものなのだろう。いや、私は特別それを知りたかった訳じゃない。そんなことは関係なく、私はたしかにクロエが好きだったのだ。ベッドの中で色々なことを話した時間だってあったのだ。

 駅に近づくと、居酒屋や中華料理屋などが増えてくる。窓からは店内が覗け、何を話しているのかまでは分からないが、騒がしいことはこちらまで伝わってくる。お店の中から出てきた若い男女の集団が大声を撒き散らし、歩道の真ん中を塞ぐ。私とクロエはそれを避けて横をすり抜けた。

「にぎやかな街だね」

「そうだね。でもクロエの街の方が、ショッピングモールも近いんだし、もっとにぎやかになるんじゃない?」

「居住区は静だわ」

「ふうん」

 そろそろ駅が見えてきた。最後に何か訊いておきたいことはないだろううかと考えてみたが、別に何も思い浮かばなかった。言い残したことも特にない。

 クロエが自分を幸せだと感じているのならば、もうそれでいい。

 私はクロエがタトゥーを彫ることを止めなかった。そしてそのことを後悔した。だからクロエは私から離れていく。今更引き止めたってもう遅い。クロエは千佳さんと一緒にいることが幸せであると選んだのだ。

 改札口の前で、クロエは足を止めてくるりと私に振り返った。

「ほんとうにごめんね、揚羽」

 初めからそうだったのだ。クロエが私を引っ張ってくれていた。だから終わりを決めるのもクロエなのだ。

 人間関係はやっぱり苦手だ。

 クロエ、千佳さん、京子。すべては向こうからやって来て、勝手に離れていく。

「ばいばい、揚羽」

 うん、さようなら。

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