揚羽_45
「あっ、ごめんなさい」
私は慌てて謝った。すると千佳さんは泣き崩れ、地面に座り込んでしまった。私は頭の中が真っ白になり、いったい何が起こったのだと困惑した。千佳さんからは近くに来るなという拒絶感を全身から発しており、私はただ呆然とその場で棒立ちとなり、彼女の姿を見下ろすほかなかった。
千佳さんは顔をくしゃくしゃにして、まるで子供のように声をあげて泣き続けた。
「お願い。クロエをもう解放してあげて。あの子は体も心もぼろぼろなのよ」
私はどんな言葉をかければよいのかわからず、じっと黙っていた。
私は今すぐこの場を離れ、自分の部屋に戻りたかった。
しかしそうする訳にもいかず、どうしたものかと視線を彷徨わせていると、喫茶店の扉からクロエのお父さんが姿を見せた。私たちに近付いてくると、千佳さんを立ち上がらせ介抱する。私としてはこの後もすべてクロエのお父さんに千佳さんのことを任せてしまいたかったが、場を離れられる雰囲気ではなかったので、状況に流されるまま二人に続いて喫茶店の中へと入っていった。
一番奥の席に通され、私は千佳さんと向き合い座らされた。後は当人同士二人でいうことなのだろうか、クロエのお父さんは私たちを残して仕事に戻っていった。
千佳さんはまだ泣きじゃくっていたので、私は手持ち無沙汰となり、なんとなくスマホを取り出し、SNSアプリを起ち上げた。ぼんやりとタイムラインを眺めていると、ずずっと飲み物をすする音がしたので顔を上げた。
ようやく泣き止み気分が落ち着いたのか、クロエのお父さんが出してくれたカフェオレを千佳さんが飲んでいた。
しばらく無言でゆっくりとカフェオレを飲んだ後、ようやく千佳さんが口を開いた。
「クロエから聞いたわ」
私は手に持っていたスマホを膝の上に置いたショルダーバッグの前ポケットに仕舞い、背筋を伸ばして話を聴く姿勢をとった。
「あなたと同じタトゥーを彫るんだって。その為には、男に暴力を加えて、その証拠に写真を撮らないといけないんだとか」
時折鼻をすする音が聞こえる。決して私の方を見ようとはせず、俯いたまま机に向かって喋る。
「どう考えたって馬鹿げてるわ。でもあなたの体には、それがあるのよね。あなたも同じことをしたのよね」
私は辱められた。
年上の女性から、こうも否定されるのは堪えた。
黙って唇を噛む。
知られたくなかった。
共感されることでないことはわかっている。
だから私のことは無視しておいてほしかった。
千佳さんには関係ないことだ。
「タトゥーを彫ることだって、どう考えってありえなわ。あんなものがあったら、クロエの綺麗な体は台無しよ。海にだって一緒に行けなくなる」
これ以上はもう何も聞きたくなかった。しかし私は席から立ち上がることが出来ず、じっと黙って千佳さんの前に座っていた。
千佳さんの言葉なんて聞き流してしまえばいいのに、そうとわかっているのに私の耳はその声をしっかりと受け取り、頭の中で意味を反芻してしまう。
「タトゥーなんてあったら、普通に生きていけないわ」
気を抜けば私も泣き出してしまいそうだった。
でも私は我慢した。
左下腹部に宿るアゲハ蝶。
私はアゲハ蝶にのある箇所に目を移し、服の上から手でおさえた。
絶対に涙は流さない。
だって私は後悔なんてしていないから。
間違っていたなんて微塵も考えていないから。
私は奥歯を噛み締め、反論の為の言葉を何度も飲み込んだ。ここでいくら私が言い返したとしても、喧嘩になるだけで何も解決しない。それにそもそも、私は別に千佳さんにわかってもらおうと思っていないのだから。
「浴室でシャワーを流して、うまくいかない、うまくいかないって何度も繰り返しながら嗚咽をもらしていたわ」
その話を聞いて、私はクロエの華奢な体を思い出し、胸が痛んだ。今どうしているだろうか。私はクロエの恋人なのに、すぐに抱きしめてあげられない。
「あなたはクロエから相談された時に、いい気になってデザインを描くんじゃなくて止めるべきだったのよ。危ないことに足を突っ込むべきではないし、タトゥーなんて似合わないんだからと言ってね」
まるで後頭部を殴りつけられたようだった。胸が張り裂けそうだ。酷い吐き気から嘔吐してしまいたい。
そうか、私はクロエを止めるべきだったのか。
私はあの時、クロエから話を聞いて、それは彼女自身が決めて行動しているだから口を出すべきではないと考えた。タトゥーのデザインを渡した時も、たしかに私と同じものがクロエにもあったらならば嬉しいが、もし途中で考えを変えて止めたくなったとしても、それはそれで彼女の選択なのだから仕方がないと思った。
だから私はクロエに対して肯定も否定もしなかった。
しかしそうではないのだ、止めるべきだったのだと千佳さんは言う。
私の頭の中はごちゃごちゃになる。
そうか、止めるべきだったのか。私はなぜその考えて至らなかったのか。
デザインを頼まれて浮かれていたから?
違う、そうじゃない。そんなんじゃない。
クロエがアゲハ蝶を望んでいたから、私は素直に応えたのだ。
でも千佳さんはそれを否定する。
私が間違っていた。
そうなのだろうか。
私はクロエに責任を持てない。
これが私とクロエ、千佳さんとクロエの関係性の違いなのだ。
「来栖さん、誰もがあなたみたいに強くはないのよ」
声を落とし、はっきりとした口調で千佳さんは言った。
私の中で何かがぶちんと切れた。我慢できなかった。京子も、千佳さんも、クロエも私を同じように言う。そうじゃない。私は全然そんなんじゃない。
「強くない! 私は全然強くない。だから!」
思わず立ち上がりテーブルを叩いてしまっていた自分に気付き、途中で自制を効かせ言葉を切った。
それ以上は駄目だ。吐き出してしまいそうな言葉をなんとか飲み込んで、浮いていた腰を下ろした。
どんなに叫んでも、たとえ私の心をぶつけてみたとしても、千佳さんにはわかりようもない。
私と千佳さんでは、すべてが違うのだ。
私は強くない。
それは自分が一番よく知っている。
だから高校を辞めて引きこもったのだ。
絵だけを描いていたかった。
登校拒否をしていた時期は辛かった。学校に行くのが本当に嫌で、毎日酷い頭痛に悩まされていた。
私は弱い人間だというのに、どうして誰も理解してくれないのだろう。
もう言葉の暴力を受けたくなかった。そして私はこの状況を断ち切るべく言葉を見つけてしまった。
恐らくこれを口にすれば、私は家に帰れるだろう。しかしそれでも、私は躊躇した。
ぶつぶつと、とどまることなく言葉を漏らす千佳さん。そこにはもはや、デキる女性の姿はなかった。己を律するには恋人が必要な、ただの女だった。
私はこうはなりたくなかった。だから私は感情を抑制し、至って普通であるように言葉を紡いだ。
「そうですね。私はもう、クロエと逢わない方がいいんでしょうね。それで解決するんじゃないですか?」
千佳さんにはクロエが必要だ。
私にだってクロエは大切だ。
でもきっと、この言葉を言わなければならなかった。
クロエと逢えなくなる。それは本当に辛いことだ。言うべきかどうか悩んだ。
しかしこれしか答えが見つからなかったのだ。
私は席から立ち上がり、テーブルを離れた。千佳さんはまだ何か言い足りなさそうではあったが、少し時間を置いて冷静になってみれば、私からの最後の言葉で満足してくれるだろう。
――クロエとはもう逢わない。
この一言がなければ、千佳さんは今後もまた私に電話をかけてくるに違いない。だから私ははっきりと言い切ったのだ。
私はカウンターでクロエのお父さんが運んで来てくれたエスプレッソの代金を支払った。クロエのお父さんは、私と千佳さんが何を話していたのか知らないだろう。尋ねてくる様子もなかった。クロエに逢わないとなると、この喫茶店にくるのも、これで最後かもしれないかった。
私はクロエのお父さんに微笑み、喫茶店を出た。扉についているちりんという鈴の音が耳に残った。
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