揚羽_44

 満月の下、歩道橋でクロエと出会ってからこれまで、何度もメッセージのやり取りをしてきた。スマホに届く彼女からの言葉がどれも嬉しかった。しかしここ数日、クロエからのメッセージが途絶えていた。以前にも何日か音沙汰のない日もあったが、その間に直顔を合わせていたり、電話があったりと、まったくの音信不通になったことはなかった。

 そしてクロエと同じように、私からもメッセージを送ることをしていない。


――クロエとはもう会わないで


 千佳さんの声が、まるで呪いのように頭の中をぐるぐると廻っている。

 クロエに何かあったのかもしれない。だったら尚のこと早く私から連絡するべきなのに……


 怖い。

――傷ついたクロエの姿を目の当たりにしてしまうことが

――千佳さんに責められることが


 千佳さんは電話で何度も私に対して、クロエがどこに行っているのか知らないのかと尋ねてきた。私はそれに対して、ずっと知らないと答えてきた。目的は察しているけれど、実際にどこに行っているのかは、本当にわからないので、嘘はついていない。

 それにまた、クロエが夜中に外出しているのは、私にも責任と問題があったのだと自覚していた。

 だから、千佳さんの言葉を半ば無視していたとも言える。クロエを信じていたからというのもある。

 けれど、千佳さんからの直近の電話は、そうした私の気持ちを後悔へと貶めるのに十分は威力を伴っていた。

 とにかく今の私は、クロエからの連絡はひとつもないのに、千佳さんからは会うなと宣告されたから、自分から動くことが出来ずにどうしよもなくなっていた。



 スマホのディスプレイに千佳さんの電話番号が表示された。通話のボタンを押すことにためらいがあった。千佳さんからどのような言葉をぶつけられるのか想像が出来ない。

 私は千佳さんからの電話があった日以来、クロエからメッセージが届かないという不安の日々を、イラスト制作に没頭することでやり過ごしてきた。そうすることが心の平安を保つ為の処方箋でもあった。だから私は毎日集中してイラスト制作を続けた。それしかすることがなかったから。

 そしてこの生活を切断するのもまた、千佳さんからの電話だった。

 出ない訳にもいかないだろう。私は意を決して通話のボタンを押下し、スマホを耳にあてた。

「会って話したいことがあるの。そうね、今すぐ彼の喫茶店まで来てもらえるかしら」

 これがドスの利いた声というものだろうか。

 アゲハチョウを宿す為に頑張っていた頃、男に馬乗りにされた時のことが一瞬頭をよぎった。

 私は「はい」と一言返事を返した。

 電話が切れる。

 私は洋服箪笥から外出用のものを取り出し着替え、部屋を出る。

 玄関で靴を履いていると、背中からお母さんに声を掛けられた。

「あら、出掛けるの?」

「うん、行ってくるね」

 

 耳にイヤホンを装着し、音楽を聴きながら歩く街。透き通るような空気が冬の訪れを示唆しており、風が吹くと思わず身が縮み肩が強ばる。

 寒いのは嫌いだが、雪は好きだ。景色だけを味わいたい。写真とか動画で見るんではなく、実際に手で触れ、肌で感じたいとも思う。

 でもいざ現実そうなったとした場合、雪を掴めば手はかじかむし、足元はべちゃべちゃで不快な思いをするのだ。電車だって止まってしまうし、道を歩くのにだって危険が伴う。

 あちらを立てればこちらが立たず。雪に対して私が抱く綺麗なイメージ。しかし自然現象はその美しさの裏に脅威をはらんでいる。故に心惹かれているのかもしれないと考えたりもする。


 電車の中は空いていたので座席に座ることができた。イヤホンから流れる音楽と体を温める暖房、加えて電車の揺れが合わさると神経をリラックスさせる効果があるらしく、強い睡魔に襲われた。私はその力に服従し睡眠をとることにした。家ではずっとモニタを見つめていたし、緊張感を騙していたせいもあったかもしれない。自分が意識していた以上に疲れていたらしく、目的地に着くまでぐっすりと眠っていた。心地の良い時間だった。


 指定された場所。クロエのお父さんが経営している喫茶店が見えてきた。千佳さんはもう到着しているだろうか。クロエも一緒にいるのだろうか。私にはわからなかった。

 扉が開いた。私からはまだ距離がある。人影が見えて、帰るお客さんかなと思った。しかしよく観察してみると、それは千佳さんに違いなかった。

 どうして外に出てきたのだろうか。そんなことを考えながら私と千佳さんは互いに足を進め、距離が縮んでいく。

 千佳さんの足は私よりも早く、どんどんと近づいてくる。

 私の前に、千佳さんが立つ。そして消えた。


「――――――――」


 体がよろけたので片足で踏ん張ると、私は反動をつけ、千佳さんの頬を目掛けて平手を打ち返した。

 手の平がじんじんとする。寒さのせいで余計に。

 だが自分の頬はもっと熱くなっていて、耳の奥から聞こえるきいんという音に比べれば、手の平の痛みは些細なことだった。


 私は意識的に、それとも自己防衛本能が働いたのか、千佳さんに平手を食らわせたのだと理解した。だって千佳さんが先に私の頬を叩いたから。

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