揚羽_42
ベッドに座るクロエは膝下までのレギンスをワンピースに合わせていた。上は長袖なので外からの見た目ではどこに痣があるのかわからない。
「ピアス可愛いね」
クロエに言われ、私は自分の耳たぶに触れた。
「ありがとう。クロエがあけてくれたものだから、特別だって思える」
「ふふ、どういたしまして」
「あっ、いま飲み物取ってくるから少し待っててね」
今朝クロエから「逢いに行ってもいいかしら」とメッセージが届いた。私に断る理由なんて勿論なく、「待っているわ」とすぐに返事を返した。クロエには話したいことがあるのだろうということは、自室に訪れた彼女の表情を見て察することができた。
オレンジジュースと二つのグラスを手に持って部屋に戻ると、クロエはベッドで横になりすやすやと寝息を立てていた。もしかすると昨夜寝ていないのかもしれない。私は手に持っていたものをテーブルに置くと、クロエの側に寄り、ふとんを被せてあげた。
クロエの頬に手の甲をあてる。続けて人差し指を唇にのせ、柔らかな感触を指先で楽しむ。するとクロエはまるで赤ん坊のように私の指先に吸い付いた。それに満足した私はクロエの側から離れ、PC前の椅子に座り描き途中のイラスト制作に戻った。
「んっ……」
しばらくモニタとペンに集中していると、ふいにクロエの吐息が耳に入った。私はそこで手を止めて、腕を天井に大きく伸ばし背筋を反らせた。
イラストは良い感じで描き進められている。
「ごめんなさい。いつの間にか寝ちゃってたみたい」
クロエが私の背中から首に手を回し、肩に額を乗せた。
「ううん、いいよ。眠ければ私のベッドを自由に使って」
頭を撫でてあげると、クロエが顔を上げた。
「その絵とても綺麗ね。でも少し怖いわ」
「そうかな?」
私はファイルを保存し、ペインソフトを閉じた。
「ねぇ……千佳から電話、あったんだよね?」
クロエから尋ねられなければ、私は何も言わず黙ったままでいるつもりだった。なぜなら私だってクロエにすべてを話している訳ではないのだから。
「もしかしてアゲハは、なんとなく察しているのかしら」
「そうだね、そうかもしれない」
「知らなかったのよ。揚羽がこんなにも大変なことをしていたなんて」
「…………」
「わたし、揚羽と同じものが欲しかったの。一緒になりたかったの。だからタトゥースタジオを探している時、アゲハチョウを発見して驚いたわ。だから今、わたしも頑張っているの。それでね、お願いがあるんだけどいいかな」
「うん、なにかな」
「あのね、揚羽にデザインしてもらいたいの。まったく同じものじゃなくて、対になるような、そうゆうものを」
クロエがそれを望むのならば構わない。
私はクロエの為だけに特別なデザインを起こす事が出来るだろう。
千佳さんからの電話によれば、もう何度も夜抜け出しているようなので、もうすぐ三枚目の写真が送れるのかもしれない。それならデザイン画の完成を急がせる必要もある。
「わたしね、揚羽のタトゥー、アゲハチョウを見た時、本当に素敵だと感じたの。そしてそれがわたしにもあったらなと強く思ったの。駄目かな」
「そんなことないよ。その言葉は、すごく嬉しい」
こうやって褒められるのは少し照れる。それにデザインを頼まれるというのは、技術が認められ仕事を依頼されたみたいで、なんだか誇らしい気分になる。勿論クロエからすれば、私との関わりが重要なのであって、技術を特に見られている訳ではないのだが、それでもやはり何かを託される、信頼されるというのは気持ちが良いものだった。
「ねぇ、クロエ。今描いて渡したほうがいいのかな」
「そうしてくれると嬉しいかも。それがあれば頑張ろうって気持ちが高まって、写真を撮ることも成功するかもしれない」
クロエが私の首に回していた手を外し隣に並んだ。
私はペイントソフトを再び起ち上げ、アゲハチョウのファイルをコピーして開いた。
対になるようなものといっても、その描き方は沢山考えられた。左右反転、色彩変更、私とクロエのアゲハチョウが二頭並ぶと特別な意味合いを持つようなデザインもありかもしれない。
それに例えばアゲハチョウに拘らなくとも、私のタトゥーと重ね合わせることによって二人だけの秘密のメッセージがになるという手法も考えられる。そのことを少しだけ提案してみたが、クロエはやはり私と同じようにアゲハチョウをモチーフにしたいと言った。
「だってそうすれば、いつだって揚羽と一緒にいる気分になれるでしょう」
デザインについてクロエからの注文はほとんどなかった。基本すべてを私に任されていたようなものだ。信頼されているのだということが感じられて嬉しいことではあるのだが、最終的にはクロエの体に宿るアゲハチョウではあるので、もう少し具体的な指摘があっても良かったなという思いもあった。とはいえ出来上がった時にクロエの表情をちらりと覗き込んだ時、満足してもらえたことが直感的にわかり、このやり方で問題なかったという事実に誇らしさも感じられた。
私はモニタに映るクロエのアゲハチョウをメッセージに添付できる形式のファイルに変換し、送信した。そして私達はPC前のデスクから離れベッドに移動する。
クロエがスマホで受信したメッセージを開き、画像を表示させた。
「とても可愛くて素敵だわ」
自然に漏れたようなその言葉がとても嬉しい。
デザイン自体は私のアゲハチョウとあまり変わらず、元の画像データの上に新しいレイヤーを作成し、色彩に少し手を加えた程度だった。だがここには、私とクロエにしか知れない多くの秘め事が隠されているのだった。
「これで私も写真を撮れるかしら」
スマホの液晶を見つめたまま、クロエが表情が虚ろなものに変化した。
どきりとさせられた。もしかしてクロエはまだ一枚も写真を撮れていないのだろうか。不安が胸の真ん中から溢れ出し一瞬にして全身を駆け巡り、そして話そうとしていた言葉が喉で止まってしまった。
だつてクロエは、千佳さんを何度も心配させるくらい夜中に家を抜け出していたはずだ。そしてクロエの体には痣があるに違いなく、それは恐らく本当で、今日の服装を見れば肌を隠そうとしているのがわかる。私は痣のことについては敢えて触れないようにしていた。
「わたしね、まだ一枚も撮れていないの」
クロエが告白した。
自分から問うつもりはなかったが、クロエから吐き出したい言葉があるのなら、私は喜んで受け入れる。
「どうしても上手くいかないの。催眠スプレーを使ってみたんだけど、駄目だった。ひっそりと近付いて吹きかけてみたんだけど、二回続けて効果なし。それで慌てて誤ったんだけど、この前は……」
苦笑いをしながら、クロエがレギンスの裾をめくる。青あざ。
私はそれを見て胸が痛くなった。白くて綺麗な肌に、その模様はあまりにも目立ち過ぎている。
クロエはあざを隠すように手を置いた。
千佳さんもこれも見たのだろう。深夜泣きながら私に電話をかけてきたことも、今なら納得し許せる気になる。
十四歳の女の子に、どうしたらこのような酷い仕打ちが出来るのだろうか。私は顔も名前も知らない男に怒りを覚える。
しかしそれでも、クロエは私にタトゥーのデザインを頼み、これで頑張れると笑ったのだ。
レギンスを元の位置に戻したクロエが、寝転がり私の膝に頭を乗せた。私がその柔らかな髪をそっとなで続けていると、いつしかまた静かな寝息に変わっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます