揚羽_40

 クロエから「おはよう」のメッセージが届く。私はペンを動かしていた手を止め返事を返した。

 私とクロエは今もまだしばらく逢えていなかった。それは恐らくタイミングの問題で、クロエの都合がどうしても合わず、約束が締結しなかった。

 けれどもう我慢できなかった。

 東京で買ってきたお土産を渡したいし、千佳さんから聞いた電話の件もある。それになにより、私はクロエの顔と声、そして体が恋しかった。触れたいと思った。

 私は意を決してメッセージを打ち込み始めた。その最中に、画面上部にメッセージ通知が被さった。


――いますぐ揚羽に逢いたい


 私はモニタを見つめタブレット上にペンを走らせていたが、何度も時間を確認し、今か今かと気が気でなかった。

 部屋のドアが開く音。

 振り返るとそこにはずっと逢いたかったクロエの姿があった。

 しかしクロエはスカートの裾を握り締め、俯いたままもじもじとしている。どうしたのだろうと、私は声をかけた。

「ねぇ、クロエ」

 言葉に反応して顔をあげたクロエに向かって、私は手招く。するとクロエはぱたぱたと小走りで私の側まで寄り抱きついた。

 初めて出会った頃のクロエは大人びた印象が強かったが、最近は十四歳という年齢相応の子供っぽさも見せるようになっていた。

「本当はもっと早く逢いにくるつもりだったのに、こんなに遅くなったちゃったの。ごめんなさい、揚羽」

 クロエは椅子に座っている私のお腹辺りにしがみつき顔を埋めている。私はたまらずクロエの頭を腕で包んだ。

「私もずっと逢いたかったよ、クロエ」

 私達は逢えなかった時間の溝を埋める。


 しばらくして気分が落ち着くと、ベッドから降りて丸カーペットが敷かれた床に移動して、オレンジジュースで口内と喉を潤した。

「そういえば揚羽、まだピアスしてなかったのね」 

「ああ、うん。そうなんだよね」

 特に理由があった訳でもないが、ピアサーは机の引き出しの中に仕舞われたままだった。

「ねぇ、わたしにあけさせてもらえないかしら?」

「えっ、うん。そうだね……クロエにそうしてもらうのが、嬉しいかも」

 私は床から立ち上がり机の引き出しを開けた。奥に手を伸ばし、ピアサーとピアスが入った袋を取り出す。

 クロエの隣に戻り、袋のテープを外し傾けると、手の平にアゲハ蝶モチーフのピアスが乗った。

「ああ、そういえば冷やすものが必要だったよね。ちょっと待っててくれる、冷蔵庫に何かあったかなぁ」

 私は手にしていたピアスをテーブルの上に置きながら立ち上がった。

 ネットでピアサーの使い方は一応調べていたので基本はわかっているつもりだ。

「うん、りょーかい」

 手にしたピアサーの上下を確かめているクロエを部屋に残し、私は台所へと向かった。


 冷蔵庫の扉を開けて何か使えるものはないかなと探していると、後ろからお母さんに「何をしているの?」と声をかけられた。私は手を止め振り返る。

 ピアス穴を開ける為に冷すものを探しているのだと正直に打ち明けるべきだろうか。タトゥーと違って元々隠す気はないのだが、それでもちょっとためらってしまう。これまでのことを考えるに恐らく反対はされないだろうが、どんな反応が返ってくるのか、多少の不安はある。

「うん、耳にピアスの穴を開けようと思うんだけど、何か冷やすものはないかなって」

「あらそうね、何がいいかしら……そうだ。氷枕があったはずだから、それがいいんじゃない」

「なるほど。でも氷枕なんて、私見たいことないけど、どこにあるの」

「ほら、冷凍庫の奥にあるはずよ」

 言われて冷凍庫を漁ってみると、たしかにあった。まるで隠されているように仕舞われており、これまであまり使われていなかったことが察せられた。

「あとこれも必要ね」

 私はお母さんからタオルを手渡された。これで氷枕を包めばよいのだろうか。

「ありがとう」

 お母さんは私からの返事を聞くと、この話題は終わりと水面台の前に立ち蛇口を捻った。


 台所から自室に戻るまでの間に、今の出来事を少しだけ振り返ってみる。ピアスをする旨の話を私から聞いたお母さんの反応は、殆ど予想通りのものだった。表情も特に驚いた感じもせず、「あらそうね」と言葉通りのものだった。

 まあ、そんなものだろう。


 氷枕とタオルを持って自室のドアを開けると、クロエはちょうどあくびをしている所だった。そして私と目が合ったクロエは発見されたのが恥ずかしかったのか、両手で口をぱっと押さえて顔を背けた。

「クロエは本当に可愛いなぁ」

 私は愛情を込めてからかい、クロエの隣に座った。

「もう、意地悪しないで」

「ふふ、ごめんごめん。ほら、冷やすものを持ってきたよ」

「ねぇ、ピアスを買ったのも、開けるのをお願いしたのはわたしだけど、揚羽は怖くないの?」

 突然不安げな表情をしてクロエが尋ねた。

 別に怖いとは思わない。タトゥーを彫る時も痛みや後の事などへの抵抗はあまり気にならなかったので、私はそうゆう気質なのだろう。

「別に怖いとかはないかなぁ」

「そうよね、うん。揚羽はタトゥーだって入れたんだもん」


「やっぱり、揚羽は強いね」

「……どうだろうね」

 予想される痛みに対して不安を感じないことを強さだとは思わない。


「改めて聞くけど、ピアサーを使うの、クロエに頼んでもいい?」

「うん、もちろんよ。揚羽の体だもの、わたしにやらせてちょうだい」

「そう言ってくれるクロエが好き」

 私たちは正面に向き合い、鼻の先がくっつきそうな程側に寄った。

 クロエが私の耳たぶに触れた。少しくすぐったい。

 まずは左耳から。タオルで包んだ氷枕をあてる。ネットでは感覚がなくなるまでとあったが、いくら冷やし続けていてもそうはなりそうになかったので、頃合いを見計らって手をどけた。

「そろそろお願い」

「うん」

 クロエは頷き、私の左耳上部を掴むと、ピアサーを耳たぶにあてた。

「このあたりよね。やるよ」

 

 ばちんと大きな音。


 私は思わず体をびくつかせ、心臓が止まるかと思った。鼓膜だって破れたんじゃないかと心配していると、耳たぶが急激に痛くなった。慌てて手に持っていた氷枕を左耳にあて、落ち着く努力をする。

 心臓の音も小さくなりなり始め、クロエに目を向ける。彼女も私と同じように音の大きさに驚いて、ピアサーをカーペットに落としてしまっていた。私の視線に気付いたクロエは「ごめんね、大丈夫だった」と焦った様子で私の腿に触れた。

 耳がじんじんする。しかし我慢できない程じゃない。異物がある感覚。私はなるべく表情を明るくして、クロエに「大丈夫だよ」と返した。


 しばらくこのまま耳に氷枕をあて冷静にしていた方がいいだろうと私たちは頷きあった。だけどただじっとしているのもなんだなと、私はさり気なさを装って、あの話を切り出した。

「最近も夜の散歩はしているの?」

「夜の散歩? ああ、そうね、初めて揚羽と出会ったのもその時だったものね。でも今は昔ほどじゃないかな。揚羽にお休みのメッセージを送信した後は布団の中ね」

 夜更かしはしていないというアピール。しかし私はこの言葉が嘘であることを、千佳さんから電話で知っていた。けれどそのことを直接口にすべきではないと直感で思った。

 ではさてこの後はどうやって話を続けようかと話題の方向性について考え、この際だからと、これまであまり尋ねないようにしていたことについて切り込んでみた。

「クロエはさ、千佳さんとはどれくらい一緒に住んでいるの?」

 言葉にしてから後悔と罪悪感に襲われた。どうしてこんな質問をしてしまったのだろう。これはきっと耳たぶの痛みのせいで、私はおかしくなっているのだ。クロエだって黙ってしまっている。私は「ごめんなさい、今のはなし」と声をかけようとした。

「もう二年になるのかな」

 私の言葉は間に合わず、クロエからトーンの落ちた声が耳に届いた。クロエは私のお腹にしがみつき、今日最初に逢った時みたく、顔を埋めた。

 やはりこの話題は失敗だった。私は氷枕を耳に強くあてた。すると冷たさよりも鈍い痛みを感じるようになった。

「わたし、家がないの。だから千佳のところにいなくてはいけないの」

 クロエが私のシャツをめくり、アゲハチョウを擦った。

「お父さんには違う家族があるから」


 クロエは呟くように話を続けた。お父さんが再婚したこと。新しい家族に馴染めず家を飛び出したこと。その時拾ってくれたのが千佳さんであったこと。そして夜の散歩はその時の名残であること。

「お父さんの家にはそれ以来一度も行っていない。だって、お母さんや私以外の人と一緒に暮らしているお父さんは見たくないもの」

 決してお父さんを嫌っている訳ではない。それは喫茶店でのやり取りをみていればわかる。だがそれとこれは違うのだ。

「ごめんね、言いたくないことだったよね」

「……ううん、そうじゃないよ。揚羽には聞いて欲しかった。だから話したんだよ」


 ショッピングモールでデートをした時、「クロエを揚羽のものにして」と言っていた。あれはクロエにとって、私と一緒に住みたいという意味も含んでいたのだろうかと考えてしまう。でもそれは無理だ。私には千佳さんのような経済力はなく、クロエの生活を保証してあげることは出来ない。

 そして私はクロエに京子とルームシェアする件も伝えるのは無理だと判断した。


 クロエは夜に出歩いていないと言う。お父さんの家にも行っていないと言う。


「わたし、揚羽が本当に好き。ずっとずっと好き」

「うん、ありがとう。私もだよ」

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