揚羽_38

 耳元で音が鳴ったので、私は寝ぼけ眼のまま枕の側に置いたスマホに手を伸ばした。メッセージではなく着信履歴が表示されていた。ディスプレイに映る時間は三時だ。こんな時間に一体誰からと詳細を確認してみるが、知らない電話番号からだった。

 なんだろう、ただの間違い電話だろうかとスマホを元の場所に戻し、また睡眠に戻る為に瞼と閉じた。

 だがすぐに着信の音が鳴り響いた。私は慌てスマホを手に取りディスプレイを確認した。着信履歴に残っていた、知らない電話号からだ。通話ボタンを押すべきか悩む。一体誰から、どんな用件があるのだろうと、不安が煽られ指を動かすことができない。


 暗闇のなか鳴り響く着信音は不気味だ。

 時間が経ち留守番電話サービスに切り替わると、ぶつりと通話が切れた。これでもうかかってくることはないだろうか。いつのまにか私はベッドの上で正座になり、スマホを握り締めていた。


 それでもやはり、また同じ番号から電話がかかってきた。どうするべきだろうと考えていると、ふと前に、京子から電話に出なかったことを咎められた時のことを思い出した。あの時の彼女はかなり根に持っていた。

 今回私に電話をかけている誰かは、深夜だというのにこうして何度も掛け直し続けててくるような相手だ。もしこのまま私が出ないままでいたらと考える、と恐ろしくなってきた。

 私は意を決して通話のボタンを押し、スマホを耳にあてた。


「はい、もしもし」

「ああ……揚羽ちゃん……」


 酷く沈んだ声であるが、千佳さんのものだとすぐにわかった。

 私から彼女に電話番号を教えた覚えはないので、たぶんクロエから聞いたのだろう。しかしなぜこんな時間にと、疑問が湧いた。


「クロエ、そっちにいるかしら?」

「えっ? いえ、いませんけど」

「本当に? 最近、夜にクロエがいなくなる。知り合いといえばあなたくらいしかいないから、もしかしたらそっちに泊まっているんじゃないかと思ったのだけれども……」


 間違いなく千佳さんの声だ。しかし、ぼそぼそとした疲労感溢れる喋りから、電話の向こうの千佳さんの姿がまったく想像できないでいた。私が知っている千佳さんは背筋が伸び、口調もはっきりとした自立した女性だ。

 それがどうしてこんなにもくたびれてしまっているのか。

 それはクロエが原因に他ならない。


 私は今日既にクロエからの「おやすみ」というメッセージを受け取っていた。だからなるほど、今日は散歩に出掛けずもう寝るのだなと思った。こうゆうのは別に度々あることなので不思議ではない。私だっていつもは夜型だが、今みたいに眠くなれば深夜布団に入ることはある。これが体調と気分に合わせた生活だ。

 しかし実際クロエが千佳さんの家にいないとなると、ではどこにいるのだろうか。私が考え思いつく範囲で口を出してみる。

「あの、お父さんの家に行っている、というのはないんですか?」

 千佳さんの家で一緒に生活しているのはクロエだけだと言っていた。だとすれば当然クロエのお父さんにもどこかに家があるはずなので聞いてみた。

 

 千佳さんはしばらく黙ったまま、何かを考えている様子が電話口の吐息から察せられた。

 もしかして私は嘘を吐いているのかもしれないと疑われているのだろうか。

 千佳さんはクロエを恋人だと言った。私はその真意がどこまであるのかわからないが、千佳さんのクロエに対する接し方のその様子は、まさにそれだったと言えなくもない。

 だとしたら、いま私がクロエの恋人であることを千佳さんが知ったら、どう思われるだろうか。

 恐らくクロエはこのことを千佳さんには黙っている。しかし千佳さんは私の電話番号をなぜか知っており、クロエのスマホを覗き見ている可能性もあるのではないか。そして私とクロエのメッセージでのやり取りを読んでいたとしたら……私たちは「好き」や「愛してる」といった直接的な言葉を使ってはいないけれど、なんとなく感じ取れるものがあるかもしれない。特に疑いの目を持ってすれば。


「彼には先に電話したわ。でも、いないと言われたの」

「そうですか」

 千佳さんの声がようやく聞こえた。

「ええ。クロエもね、お父さんの家に泊まってくると行って家を出ていったの」

「…………」

「でもそれは絶対にありえないのよ。だからクロエが出ていってから、彼にも電話したの。それでやっぱり、クロエは彼とは何も約束していなかった。あの子は私に嘘を吐いて外出しているのよ」


 これまでクロエが私の家に泊まったことはない。

 クロエは千佳さんに夜の散歩のことも秘密にしていた。

 千佳さんは最近クロエが夜いなくなるようになったと言っている。

 私は今夜クロエから「おやすみ」のメッセージをもらっている。

 

「こんな時間にごめんなさいね」

 消え入りそうな千佳さんの声。耳を澄ませていなければ聞き漏らしてしまう。そのあまりの消沈っぷりに、私は返す言葉を失ってしまう。

「ほんとうに、どこに行ってしまったのかしらね……」

 

 電話は一方的に切断された。

 クロエが私の所にいないと知れば、千佳さんにとって話すことはもうないのだろう。

 私とクロエの関係に気付いているのかどうかは、いま話しただけではわからなかった。 ただ、友達として私の所に泊まる可能性があるのではないかとは考えているようだ。

 千佳さんはまるで亡霊のようにクロエの足跡を追っている。


 しかし私はクロエが夜いなくなることに、正直それほど心配していなかった。よくよく考えてみれば、「おやすみ」のメッセージを送った後に夜の散歩に出掛けることだってあるだろう。私にとってクロエはいまだに不思議な子で、何を考えているのかわからないことも多々ある。だから私がいくら悩もうとも、結局それは仕方がないことで、本人に訊いてみなければ答えはわからないのだ。


 私は枕に頭を埋めて、また夢の中に戻ろうと瞼を閉じた。

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