揚羽_35

 待ち合わせの時間ぴったりに喫茶店の扉を開けた。

 午前中から顔を合わせることは私達にとって珍しかった。なぜなら私は夜型の人間だし、クロエも夜中に散歩をするのが趣味だ。だからどうしても朝起きるのが遅くなる。なので大体いつも約束をするのは午後に入ってからだった。

 けれど今日は違った。昨日のメッセージを読んだ感じだと、どうもクロエは散歩をせず早めに就寝した雰囲気がある。逆に私はそんなクロエの態度が気になってしまい、あまり眠れなかった。


 既にクロエはカウンター席に座っており、向かいでコーヒーを焙煎しているお父さんと何か話をしていた。

 扉を開けた時に鳴らしたベルの音に気付いた二人は私に視線を向けた。クロエに手招きされ、側に寄ると隣の空いている席に座ってと勧められた。

 私が椅子に腰を降ろすとクロエのお父さんは私の前にエスプレッソとマカロンを置き、薄く微笑んだ。私は「ありがとうございます」とお礼を言ってからエスプレッソに口を付けた。相変わらずの甘さだが、初めて飲んだ頃に比べるとだいぶ慣れてきていた。


「わたし達、今日はこれからデートなの」


 クロエは私にではなくお父さんに向かって言った。

 そしてクロエはようやく私の方に体を向けた。

「という訳だから、私と揚羽はここで少し休憩した後ショッピングに出掛けるの」

 考えてみれば、これまで私達はこの喫茶店でお喋りをするか、私の家に遊びに来て自室で過ごすかといった時間の使い方しかしてこなかったので、いわゆる一般的なデートをしたことがなかった。

 

「揚羽って、洋服のバリエーションがあまりないよね」

 クロエから発せられた突然のセリフがまるでナイフのように私の胸に刺さった。クロエはエスプレッソを飲みながら何でもないようにさらっと口にしたが、結構酷い言いようだ。私は反論でもしようかと思ったが、しかしクロエの洋服と比べられてしまうと何も言い返すことが出来なかった。クロエは今日も可愛らしいふわふわのファーコートを着ているが、それは以前見たものとは違っている。また肩にかけているポシエットにしたって、色々なバリエーションで揃えている。そんな感じでいつも違った衣装を身に着けているのは知っているのだが、しかしその詳細なデザインについては記憶が薄い。とにかく今日は前と違うな程度しかわからない。

 だから洋服のバリエーションが少ないことを指摘されて、いま初めてそのことに気が付いた。お洒落に対してさすがに無頓着過ぎるのではと、私は床に膝を付けてしまいそうな気持ちになった。私の今日の洋服だって、千佳さんの家を訪問した時と同じものだ。

 たしかに私はそこまで洋服にこだわっていない。大体いつもシャツにパンツ、寒ければ上にシンプルなコートかパーカーを羽織る。これはこれでそれなりに気に入っているのだが、そこがクロエからするとバリエーションが少ないに繋がるのだろう。

 私は自己分析しつつ弁解の言葉を探してみたが、結局何も思い浮かばす黙り込んでしまっていた。

「でも大丈夫。揚羽のコーデは私がしてあげる」

 席から立ち上がり、まかせて頂戴と胸を張るクロエ。そして「さあ、行こう」と私を急かす。

 私は残っていたマカロンを口に放り込み、美味しかったですとクロエのお父さんにお礼を言って席を立った。

 しかしクロエに洋服のことを指摘されたのはショックではあるのだが、かといってそこまで悪い気分でもないのだ。だってそれだけクロエが私のことを想ってくれていると感じられるから。


 電車に乗り向かうのは市のシンボルでもある複合施設。数日前はクロエが住まう居住エリアが目的だったが、今日はショッピングモールに用がある。

 電車から降り改札口を抜ける。駅直結の連絡通路からショッピングモールの入り口を目指す。

「せっかくだから他の場所を考えたんだけどね、この辺りではここが一番洋服が揃っているの」

 それはそうだろうなと私も思った。

「クロエはやっぱりよく来るの?」

「ええ、そうね。時々は他の場所へ行くこともあるけど、良いものが欲しいと思ったら結局ここに来ちゃうかな」

「へぇ、私はもっぱらネットだなぁ」

「……手、繋いでもいい?」

「えっ、勿論いいけど」

 いつもは確認などせず積極的に手を握ったり腕を組んだりしてくれてるのに、初めてされる質問に私は驚かされた。返事を聞いたクロエはもじもじと私の左手を両手で包んだ。「どうしたの、急に?」

 喫茶店にいた時はそうでもなかったのに、急にいつもと違う素振りを見せたので、さすがに心配になって訊いた。

「べつになんでもないけど」

 クロエはやんわりと否定するけれど、そのよそよそしさが余計に怪しい。だがクロエは握る手を一つにすると、「行こうか」とって言って私の手を強く引っ張った。


 さすが日曜日のショッピングモール、どこに目を向けても人の顔がある。私はショッピングモールに訪れたのが初めてだったので、どこに何がありどうなっているのか分からず、クロエが手を離してしまったら迷子になってしまうのではと不安になった。この光景や雰囲気は、東京に行った時のことを思い起こさせる。


 ショッピングモールには沢山のショップが並んでいる。それぞれ取り扱っているブランドやファッションの系統が異なっており、中にはどうしたって私には似合わないだろうと思うものもある。

 クロエは私にまかせてと自信満々だったが、まさか彼女が着ているような可愛らしさ全開のものを選ばれたとしたら、さすがにそれは困る。そうなった場合は例えクロエが選んでくれたものだったとしても断る他ない。


「ねぇ揚羽、わたしの話し聞いてた?」

「えっ?」

 私は声がする方に首を回すと、手を繋いでいるクロエが少しむすっとした表情を立ち止まった。

 私は別に無視していたつもりはなかったのだが、ショッピングモールの威圧感と始めての外出デートによる嬉しさから少し浮足立っているなという自覚はあった。

「いや、なんだろう。私、クロエと一緒にいるだけでこんなに嬉しくなれるんだなって、改めて思って」

 私は素直な気持ちを伝えた。

 千佳さんの家を訪ねてから抱いている、クロエは実際の所どう思っているのだろうかという不安。それは今も消えていないけれど、一緒にいるとそれだけで幸福になれるのも事実だった。

 それにただ謝って言い訳するよりも、思いを言葉にして伝えるほうが大事だと思った。

 私の言葉を聞いたクロエは一瞬きょとんとしてから顔を背けた。髪の隙間から覗く耳たぶが真っ赤に染まっている。ただ気持ちを言葉にして投げかけただけなのに、今までに見せたことがないようなクロエの反応に私は驚かされていた。

 これまでのクロエであれば、「まあね」だとか、「ありがとう」程度の返事で済んでいたはずだ。それがどうしてこんなにもあからさまな態度を見せるのだ。その後ろ姿を見ていると、言葉を発した私の方こそ恥ずかしくなってくる。

 

 クロエは「こほん」と咳を吐くようなジェスチャーをしてから私の方へ向き直った。頬の色も元に戻っており、何事もなかったかのようにすました表情をしている。

 珍しい出来事だったので、クロエの照れた顔も見てみたかったなと、私は少しばかり残念に思った。

「そう、さっき訊きたかったのはね、揚羽はいつもどうゆう風に洋服を選んでいるのかしらということよ」

 その質問に答えることは簡単なのだが、そのまま伝えてしまうとなんだか女の子として負けたような気分になりそうだった。今朝までの私だったら、別にそんなことは思わなかった。けれど先程喫茶店でクロエから服装について指摘されてからというもの、胸がちくちくする。

 とはいえここで嘘を吐いても仕方がないし、私は正直に答えることにした。別の言い回しが思いつかなかったというのも正直あるけれど。

「さっきも話したと思うけど、ネットに頼りきりだよ。そろそろ買わなきゃ駄目かなって思い始めてきたらネットで探して、適当に選んで注文する感じ。えっと……あまり深く悩むことは少ないかなぁ」

 ふうんとクロエは頷く。呆れられていはいないようだと少し安心する。

「わたしもネットは便利だからよく使うわ。実際そっちの方が趣味に合うものをピンポイントで探せるから効率はいいのよね」

 私達は手を繋ぎ歩きながら会話する。

「でもこうして一緒にショップを見て回るのも楽しいと思うな、ねっ?」

 そんなに嬉しそうに尋ねられれば、私はうんと頷くほかなかった。


 シンプルだけどポイントをおさえているデザインの洋服を取り扱っているショップに足を踏み入れた。ここは割と私の趣味にも合っていたので、なにか購入してもいいかもという気持ちになったのでその事を伝えた。けれどクロエは少し不満のようだ。

「たしかに揚羽に似合っているとは思う。でもこれじゃぁ今とあまり変わらず、ちょっといいものを着ましたって感じにしかならないわ。わたしが揚羽に選んであげたいのはね、こうゆうのじゃないの」

 クロエは私の腕にしがみ付き目で訴えた。

「そうね、わかった。別のショップに行こうか」


 クロエが選び入店した洋服のラインナップは、私には少し派手すぎるのでは思われた。ショップ店員は自分たちが売っている商品の洋服を着ている。太腿を大胆にもあらわにした短いパンツを履き、上はだらっとした大き目のシャツ。見る角度によっては、下に何も履いてないんじゃないかと勘違いされてもおかしくない。

 これがクロエの求める私のイメージなのだろうか?

 恐らくクロエは私のアゲハ蝶に合わせた洋服を選びたいのだろうと思う。ショップ店員のなかにも腕や腰にタトゥーを入れた人が多く見受けられる。だからなるほど、洋服のデザインについても露出が大きいのは、タトゥーを見せることも考慮されているからなのだ。

「ねぇ揚羽、これはどうかしら? 向こうに試着室があるから合わせてみましょう」

 そう言ってクロエが棚から引っ張ってきたのは、体のラインがはっきりと浮き出るような黒のキャミソールだった。胸の辺りはレース柄が施されている。

「いやでも、これはちょっと……」

 恥ずかしいというものあるけれど、一番の問題はキャミソールの丈が明らか短いことだった。おへそが露出するようデザインされている。それはつまり、アゲハ蝶も丸見えになってしまう。

 だがクロエは瞳を輝かせて「これにしましょう」と強く押してくる。

「とりあえず今この場で着てみるだけでもいいから、ねっ。買うかどうかはこの後に決めるんだし、まずは試着してみましょう」

「……そんなに言うなら、うん、わかった」

 結局私は観念し、黒のキャミソールを手に試着室に入った。


 着替えを終えて、試着室のカーテンを開けた。

「どうかな? ちょっと……というか、かなり恥ずかしいんだけど」

「すごい! とっても似合っているわ! やっぱり揚羽は、こうゆうちょっと悪い感じの方が素敵よ」

「そう、なのかな。ありがとう。でもやっぱりこれはちょっと……お腹、出し過ぎじゃない?」

 私がそう言うと、クロエは試着室に入ってきてカーテンを閉めた。密室に二人、距離が近い。

「これはね、わたしの前だけで着ていてほしいの。他の子には見せてほしくない。ねぇ、揚羽はタトゥーをわたし以外に見せたことはあるの? そう、例えば昨日メッセージに書いていた友達とかに」

「いいえ、クロエ以外には見せたことがないし、教えるつもりもない。アゲハ蝶は私にとってとても大切なものだから、それを共有できるのは、クロエだけなの」

「嬉しい」

 首に腕を回し抱きついてきたクロエに私も応えて同じようにする。頬が軽く重なりあい、クロエの体温を感じる。

「わたしね、揚羽を初めて見つけた時から、ずっとこの人は特別だって思っていたの」

 クロエは私と出会った時のことを、これまでにも何度か同じように口にしている。

「あの時、わたしが揚羽を好きになるのは必然だったの。でもね、揚羽のお腹にあるアゲハ蝶のタトゥーを見た時、好きだけじゃ駄目、それだけじゃ足りないんだって思ったの」

 でもこの言葉を聞いたのは初めてだった。


「ねぇ、クロエを揚羽のものにして」

「うん……いいよ」


 クロエが私を見つめる。私は私が望むようにクロエの艷やかな唇に自分のものを重ね、耳の裏をくすぐった。クロエの甘い吐息が舌を伝わって感じられる。

「んっ、ねぇ、もっと……」

 ずっと味わっていたいとは思ったが、私はそっと唇を離した。

 瞳を潤ませてクロエはもっととねだったが、ここは試着室の中なのだ。クロエはそのことを忘れているのか、それとも関係ないと考えているのか、どちらであるのかわからないけれど、私としてはもっと静かで二人きりになれる場所で触れ合いたかった。

「クロエ、これ以上は今度にしましょう」

 私の言葉を聞いたクロエはくすりと笑い首から腕を離した。

「大胆なことを言うのね、揚羽って」

 なんのことかと思ったら、少し考えてみてから、自分の言った事の恥ずかしさに気付き、思わず両手で顔を隠してしまった。これ以上って、私は何をするつもりなのだ、一体。

「ふふっ、そんなに恥ずかしがらないで揚羽。わたしだったら、いつだってこれ以上をしてくれて構わないんだから」

 私はクロエに対して初めて主導権を握れたと思っていたのに、またいつの間にかもてあそばれてしまっている。

 しかし私にとってはこの方が慣れているので、それはそれで構わないとも思った。

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