揚羽_34
夜になってもクロエからの返事は返ってこなかった。
私は音楽を聴きながらペンタブで絵を描いていたが、注意はもっぱらスマホに向けられていた。
やはり気分を悪くさせてしまったのだろうか。私とクロエの間に他人を挟むべきではなかった。けれど先に千佳さんを紹介したのはクロエからだった。たしかに最終的には私も会うことに承諾したが、そもそもクロエはその話を切り出さず勝手に断ってくれればよかったのだ。
それともクロエは、私が自分のお母さんを見せたように、千佳さんも保護者のような役割として紹介してくれたのだろうか。だがクロエに対する千佳さんの視線はそうではなかった。
あれから時間が経つごとに、千佳さんの恋人発言は本当だったのだろうと思うようになった。私と出会う以前のクロエは、千佳さんを愛していたに違いない。それはもしかすると今だって、クロエはスマホを取り出す度に「千佳が」と口にする。
私はその名前を聞く度に心を掻き乱されていたのだ。
自室のドアにノック音。私はペンを握ったまま首を回した。
「ご飯の準備できたわよ」
お母さんがドアの隙間から顔を覗かせ教えてくれる。
「うん、いま行く」
私はペンを机の上に置いて立ち上がった。
食卓に着いて夕食を家族で共にする。私は漬物をお茶碗の中でもてあそびながら、誰に言うともなく、呟くように言葉を発した。
「今日、友達からルームシェアしないかって誘われた」
アゲハ蝶は見た目の話なので隠していられるが、ルームシェアともなると流石に黙ったま実行する訳にもいかないだろうと、私はいったん伝えてみることにした。相談する為ではなく、お父さんとお母さんがどう受け取るのかに少し興味があった。
「その誘いって、クロエちゃんから?」
私は動かしていた箸の手を止め、首を横に振った。
「へぇー、ルームシェアか」
お父さんも口を開いたので、私は顔を上げて二人の表情を観察したが、にこにこしているだけで、何を思っているのかよくわからなかった。
「友達と一緒に住むって楽しそうねぇ。お母さんは特に仲の良い友達もいなかったから、ルームシェアって縁がなかったなぁ」
「いや、今は別に友達同士でなくたって一緒に住むことはあるみたいだよ。立地のいい場所や少し大きめの部屋に住みたいだけって人は、むしろお互いに干渉しあわない為に、ネットで利害が一致している人を探したりしているんだって」
「いまはそうなのねぇ。ルームシェアって、学生寮に似ていると思わない」
「うーん、まあ近いのかもしれないね。もっとも、ルームシェアは学生寮と違ってご飯の準備は自分でしなくちゃいけないけどね」
「あらでも、学生寮だからといって必ずしもご飯を作ってくれる人がいるとは限らないじゃない。ただお部屋を貸してくれるのが安いだけの所もあるわ」
「それはまあ、確かにそうだね。でもやっぱり寮と聞けばさ、僕はこう、甲子園に出るような強豪野球部が食堂に並ぶ姿をイメージするよ。ほら、テレビでもよくやるだろう、朝からこんなに沢山食べてますって」
お父さんとお母さんはいつものように私を置き去りにして会話を続ける。
「そうだ、中学で一緒だった野球部の柿島って覚えてる? 野球が強いことで割と有名な高校に進学したんだけどさ、なかなか酷いものだったらしいよ。上下関係とか厳しくて、殴られるのも当たり前だったって話を聞いたよ」
「私三年生の頃同じクラスだったわ。そういえば野球上手かった気がする」
「でもそれが辛くて一年で転校したらしい」
そして二人は大体いつも中学生時代の思い出話に辿り着く。しかし今日は私がルームシェアすることについてどう考えているのかを知りたいので、少し口を挟ませてもらう。
「ねぇ、それで私、友達とルームシェアしても大丈夫だよね」
会話を遮ると、お父さんとお母さんは二人して「えっ?」という表情を私に向けた。
「いいんじゃないの。楽しそうだし」
なんとも軽い感じでお母さんが言った。
「うん。いいんじゃないか」
続けてお父さんも同意する。
「あー、うん。わかった、ありがとう」
予想の範囲内の返答ではある。そしてまた二人は思い出話に戻る。
結局私がクロエでなければ誰と一緒にルームシェアをするのか、時期としてはいつ頃を考えているのか等といった方面の話には広がりそうになかった。なので私はご飯をさっと食べ終えると席を立ち自室へ戻った。
夕食前に描いていた絵の続きに戻り手を動かしていると、スマホがようやくメッセージを受信した。私はずっと待っていたはずなのに、見たくないなという気持ちをちょっとだけ持って手を伸ばした。
普段以上に返信に時間をかけたクロエは、果たしてどんなメッセージを送ってきたのだろう。私は緊張しながらロックを解除し、メッセージアプリを起ち上げた。
――明日はデートに決まったから。十時に喫茶店で待ち合わせね。おやすみなさい。
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