揚羽_32

 次の土曜日がもう数日後に迫っている。また他人と会わなければならないのかと思うと気分が滅入った。基本的に私は出不精であり、他人と対話するのが得意ではないのだ。

 ネット上での文章会話ならば、ある程度自分でコントロールすることが出来る。というのもまた錯覚ではあるのだが、この錯覚というのは私にとって案外大事なことだった。相手が話している最中でも、私が止めたいと思えば無視することで会話を終わらせることが出来る。その手段を私が常に持っている、コントロールできると思えるだけで気分は楽になる。

 でもリアルではそうもいかない。場を共有している限り、会話とは波長を合わせながら終わりまで持っいかなければならない。これは酷く労力のかかる作業だ。私はそれが本当に苦手だった。


 イラスト作成に対するモチベーションの低下も相変わらず続いていた。今の私にとって日々生活を送るということは、イラストを描くことに他ならない。これがいま唯一の自己表現なのだ。学生が学校で勉強するように、社会人が会社で仕事をするのと同じように、私は家で絵を描く。起きている間、多くの時間をそれにあてたいと思っている。なのにモチベーションが上がらないとなると、向き合っている時に感じるのは苦痛だ。私はPCの前に座りペンタブを適当に動かしたりスケッチブックに線を走らせてみるが、すぐに集中力が切れてしまう。ラフと呼ぶことも出来ないただの落書き。

 私はモチベーションを上げる為に音楽を聞いたり、動画を見たりとするのだが、一向に効果は見られない。

 はぁ、本当に嫌だなと、左下腹部のアゲハ蝶をさする。

 何もかもが面倒くさい。


 

「なんだか雰囲気変わったね」

 私を見るなり京子は言った。

「そうかな? 自分じゃちょっとわからないかも」

 駅前で待ち合わせた後、京子がランチに選んだイタリアンレストランまで移動した。

 店内に入り、ウェイトレスに案内され席に着く。私は牛肉の生パスタ、京子はラザニアを注文した。ランチメニューにはセルフのフリードリンクが付いていたので、私達はいったん席を立ち、それぞれ好みの飲み物を瓶からグラスに自分で注いた。

 元の座席に戻り腰掛け、オレンジジュースに口を付ける。酸味が強く、なかなか私好みの味をしていた。

 グラスにちびちびと口を付けながら京子の様子を伺うが、彼女は少しぼうっとしているように見受けられ、話し出す素振りはなかった。私は沈黙に耐えられず、つい先に声を出してしまった。

「ずいぶん久し振りだよね。最後に会ったのはいつだっけ」

 私がとっさに思いついた適当な質問に、京子はテーブルに肘を付き、唇に手をあてて考えているような姿勢を取った。

「揚羽が学校を休み始める前だよね。確か二年生に進学してすぐだったから、もう半年以上経つかな」

 京子の回答を聞いて、そうか、もうそれくらいの時間が経ったのかと改めて意識した。半年という期間は自分の中で意外に長く感じられた。

 不登校になったの二年生になってからすぐだった。最初はお腹が痛いだとか言って休んだのだ。これはまったくの嘘という訳でもなかった。ただ実際の所は、朝起きれずに倦怠感に苛まれという理由の方が大きかった。それからしばらくもなんだかんだと休み続け、高校を退学したのは夏休みが明けてからだった。

 休み始めてから今日まで、学生時代の知り合いとは誰一人会っていない。だから京子が初めての相手になる。

「あっ、料理が来たね」

 京子の声に釣られてテーブルの横に視線を移すとウェイトレスが立っていた。私と京子は黙ってその配膳姿を眺めていた。


 私達はランチを黙々と食べた。残りは半分ほど。向かいに座る京子はずっと下を向いて、お皿しか見ていないようだった。

 私は今日、どうして京子と一緒にランチを摂っているのか。仲の良い友達と土曜の午後を過ごす為に。いいや、それは違う。私は京子から話があるからと言われて来たのだ。ランチを一緒にすることが目的ではなかったはずだ。それなのに京子は先程から何も喋らず、私を見ようともしてない。

 このままずるずる引き伸ばしても仕方がないだろうと、私から切り出すことにした。

「何か……私に用があったの?」

 すると京子は顔を上げ、えっ、と驚いたような表情を見せた。

「そうね、ええ、そう」

 京子は独り言のように呟き、また下を向いた。

「揚羽は今、何をしているの?」

 顔を伏せたまま、京子は私を見ずに問いかけた。それは私にとって答えづらく、あまり話したくない質問だった。

「まあ、色々してるよ」

 私も京子と同じように視線を落とし、食べかけのパスタをフォークで弄びながら応えた。

「ふうん。バイトはまだ忙しいの?」


 私は高校一年生の頃、スーパーで品出しのバイトをしていた。休日も夏休みも仕事に励み、そのおかげでペンタブや本などを買うことができ、いくらかの貯金もできた。アゲハ蝶を宿す際にも使用した。

 しかし私は突然バイトが嫌になり辞めた。きっと短期間に頑張りすぎた反動なのだと思う。立ち仕事をしてお金を得るよりも、家で絵を描いていたいという気持ちの方が強くなったというのもある。これは、学校に行きたくないなと思い始めた理由の内の一つでもあった。


「いや、そうでもないよ」

 アルバイトはとっくに辞めていたが、わざわざ伝える必要もないだろうと、私は曖昧に返した。

「そうなんだ……私、揚羽がいつの間にか学校を辞めていてびっくりした。ただ休んでいるだけだと思っていたから」


 私と京子は同じ中学出身でもあった。しかし初めて会話を交わしたのは高校受験の試験会場だった。それまで同じクラスになった事がなく、お互いに殆ど面識がなかった。試験会場は生徒各々の志望校になっていた。つまり私が後に退学することになる学校だ。そしてその試験会場で、私と同じ中学校から来ていたのは京子ただ一人だった。

 先に声をかけたのは京子からだったはずだ。なぜなら私から他人に声を掛けることは稀であるから。確か、同じ中学校からこの高校を受験するのが私達二人しかいないなんて思わなかったとか、そんな話題を振られた気がする。その時私は、京子もまたあまり友達が多い子ではないのだなと思った。

 それから二人共志望校に合格し、高校一年生、二年生と同じクラスになった。中学校が同じであるという共通項からか、お昼時間や休み時間など、一緒にいる事が他の生徒に比べれば多かったかもしれない。


「相談くらいしてくれればいいのにって思った。それとも私、嫌われてたのかな。電話にも出てくれなかったし」

「いや、嫌ってたとか、そんなことはないよ」

 私は否定した。嫌うほど、京子の何かを意識したことはない。だからそれは、相談する程心を許してもいなかったということでもある。

 ただ、電話に出られなかった、折り返す事ができなかった件に関しては、気絶した男の写真を撮った後にかかって来たのでタイミングが悪かったというだけだ。もっと別の日、別の時間帯であったならば、受け取ることが出来ていたと思う。

「そう、嫌われていないのであれば、良かったのかな」

 京子はラザニアをフォークで突っつきながら話しを続ける。

「私ね、揚羽が羨ましいなって思ったの。学校を辞めてしまえるなんて」

 陰る京子の表情。学校で何があったのだろうかと窺う。

 京子はどちらかといえば引っ込み思案で物静かなタイプだ。殆ど初めて話すことになった試験会場でも、心細さから勇気を出して私に話しかけて来たといった雰囲気があった。彼女は私と違ってたぶん一人が苦手であり、誰かに話しを聞いてもらいたい性格なのだろうとは思っていた。

「学校で何か嫌なことでもあったの?」

 私だったら絶対に他人には答えたくない質問だったが、京子はこれを望んでいるような気がした。

「そうね……何か特別なことがあったって訳じゃない。でも、揚羽はこうゆう話し嫌いだったよね」

 確かに私はこうした話題が苦手だった。答えを示してくれと言われても困るのだ。私だったら他人に答えを求めることなどしない。だから学校を辞める時も誰かに相談しようなどと一切考えなかった。それはお父さんとお母さんに対しても同じだった。

 京子は明らかに何かを話したがっていた。私は今日こうして一緒にランチを摂ることを選んでしまったのだから、話を聞いてあげるのも仕方ないことだろうと先を促した。

「話があるっていうのが、京子からのメッセージだったでしょう。私はそれに対して今日ここに来たんだし、話したいことがあるなら話なよ」

「そうだったよね、うん。私のメッセージに反応してくれたんだよね。電話は無視されちゃったけど」

 また電話の事を言われる。かなり根に持たれているようだったが、私は黙って話の続きを待った。

「担任の佐藤先生にね、揚羽がどうして学校を辞めたのか理由を知っているのかって訊かれたの」

 私は二年生になってからすぐに休み始めてしまった為、その担任の顔を思い出すことが出来なかった。

「私達、ずいぶん仲が良いと思われていたのね。佐藤先生が一年生の頃の担任だった林先生に尋ねたら、私なら知っているんじゃないかって教えられたんだって」

 少し呆れたような口調で京子は言う。

「でも私は知らないって、佐藤先生には何度も言ったんだけど、その後もしつこくてね。けれど何度訊かれたって答えは変わらない。だって本当に知らないんだから」

「そうだね」

「ええその通り。確かに私と揚羽は学校で一緒にいることがあったけれど、秘密を共有したり、辛いことがあったら相談し合うような仲じゃなかった。でも佐藤先生はそのことを知らないからね。私なら知っているはずだの一点張り。私には、佐藤先生がどうしてこんなに頑張っちゃってるのか全然わからなかった。終いには、お前は学校を辞めるんじゃないぞなんて言われてね」

 京子は本当にうんざりしたように息を吐くき髪を掻き上げた。これまで黙っていた分を一気に吐き出すように喋ったので疲れたのだろう。テーブルに肘を付き、私から顔を背けるように横を向き遠くを見つめた。



 担任教師とのやり取りを聞かされて、それは申し訳なかったなと思う反面、かといって私を責められても困るという気持ちもあった。

 京子を追い詰めているのはその担任教師なのだから。

 私が退学理由をきちんと述べていたならば、こんなことにはならなかっただろうか。だが私も退学する直前に担任教師と電話で直接話し、自分の口から一応それっぽいことを伝えていたつもりだった。

 しかしどうもそれだけでは納得できなかったらしい。

 まあ、それもそうだよなとも思った。だって私自身、特に理由らしい理由があった訳でもない。ただ単純に面倒くさいな、朝起きるのが辛いなといったことが本音だった。けれどこれをそのまま話しては体裁が悪い。なので聞こえが良いようにこねくりまわしたのだが、結果かなり抽象的な話し方になってしまっていたのかもしれない。


「でも私だってね、どうして揚羽は学校を辞めちゃったんだろうって気になっていたのよ。だから、ちょっと失礼かもしれないと思ったけど、佐藤先生の件もあったし、直接訊いてみようと思ったの。電話を無視されちゃった時は、やっぱり嫌われてたんだって、結構凹んだけどね」

「それは本当にごめん。あの時は色々あって……謝るよ」

「いや、私もごめん。別に嫌味を言いたかった訳じゃないの」

 私は京子の食べかけのラザニアを見ながら話した。

「それで、京子は私の退学理由が知りたくて電話をかけてくれたんだったよね。でもそんなにたいした理由じゃないのよ、本当に。学校に行くのが面倒くさいなとか、その程度のものだから」

「そうなの? そう……でもそれはそれで、揚羽だったら納得できる気もする」

 グラスに口を付け、喉を鳴らす京子。今日会う理由となった話したかったこともこれで終わりだろうかと、私もオレンジジュースのグラスに手を伸ばした。しかし口を付ける前に、京子がまた口を開いた。


「ねぇ、話は変わるんだけど、いいかな?」

「えっ、うん、いいけど」

「あのね、揚羽。私と一緒にルームシェアなんてどうかな?」

 それは少しぎこちない口調だった。平常を装うとしたのだろうが、緊張が表れてしまっていた。

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