揚羽_31

 私はクロエの表情を窺う。クロエはいつもとそう変わらない笑顔を見せている。対して千佳さんはまるで子供のような無邪気さでクロエに接している。先程まで感じさせていた大人っぽさからの移り変わり、そのギャップの大きさに驚かされる。

「千佳は私を救ってくれたのよ」

 抱きついていた千佳さんを引き剥がしながらクロエは言った。

「あら酷い」

 千佳さんは傷ついたような口調で抗議したが、半分面白がっての演技だった。


 私は千佳さんの『恋人』発言をどのように受け取ればいいのか迷っていた。

 けれどその言葉を聞いて、私が千佳さんに抱いていた感情の正体が、少しだけ輪郭を帯びた。


 その後も千佳さんの仕事話を中心に会話が回った。私自身の話題に移りそうになったら、それとなく逸れるよう努力した成果でもある。話題を深掘りされそうだと感じたら、言葉を濁らせ流す。多少みっともない、不器用な所があったかもしれないが、傷を負わずにここまでの時間を過ごせた。

 もっとも千佳さんだってとっくに察していて、私に気を使ってくれているのだろうとも思う。なにせ千佳さんは毎日人と話す事が仕事なのだ。それも日本人だけではない、世界中の人間が相手なのだ。そんな人に対して、私のような高校中退者のコミュニケーション能力が通用しているはずがないのだ。私はそのことをちゃんと理解していた。


 千佳さんはクロエに終始べったりだった。スキンシップも多く、クロエの髪の毛、頬、首筋、腿と、私に見せつけるように体のどこかしらに触れている。

 そう見えてしまうのは、私が過剰に意識しすぎているからだろうか。

 千佳さんはそんなことを考えてなどいないのかもしれない。

 だがしかし、千佳さんが言うようにクロエが彼女の恋人であるならば、私の考えはあながち間違えではなく、これらの行為はやはり私に向けられている。


 私は今日、なぜ呼ばれ招かれたのだろう。クロエは千佳さんに私のことを話しているという。しかしそれは一体どこまで何を伝えているのだろう。千佳さんは私がクロエの恋人であることを知っているのだろうか。


 クロエと千佳さん。二人の様子を眺めているとだんだん居心地が悪くなってくる。そして私は、本当にクロエと恋人同士だったのだろうかと自身が疑わしくなってきた。

 クロエは私のことを好きだと言ってくれた。

 私もクロエのことが大好きだ。

 だから私達はお互いの肌に触れ、愛し合ってきた。

 なのにどうしてだろう。私はいまとても不安だ。

 目の前に、私の知らないクロエがいる。その要因は千佳さんが隣にいるからに他ならない。

 私は千佳さんに差し出す言葉を持たなかった。千佳さんは会社を経営し、美人であり、有能な女性であり、高級住宅に住まいを持つ。

 比べて私はどうだ。高校中退、つまりは中卒ニートだ。この圧倒的な格差に愕然とする。

 このような人間が、クロエと一緒にいてもいいのだろうか。


「あの……そろそろ時間も遅くなってきましたし」

 私は遂に耐えられなくなり、自分から帰宅の意思をもらした。だってここはクロエと千佳さんの同棲場所。これ以上私の精神が持たなかった。

「あらっ、もうこんな時間。楽しい時間って、本当にあっという間ね」

「ええ……そうですね」

 私だって名残惜しいのだと、自分の中に残っている最後の自尊心で、失礼にならないようタイミングを見計らってゆっくりと席から立ち上がった。早く帰りたいのだという素振りは見せたくない。

「なら、揚羽を駅まで送らなくちゃね」

 私に次いでクロエが立ち上がった。

「そうね、うん、お願いね」

 続いて千佳さんも席を立つ。私はその申し出を断りたかったが、この居住エリアから一人で駅まで戻るのは難しそうだったので、素直に受け入れるしかなかった。

「今日は招いていただいて、本当にありがとうございました」

「いいえ、私も今日揚羽ちゃんに会えて本当に良かったわ」


 玄関先でコートを羽織っていると、クロエに腕を引っ張られ、耳元に顔が近付けられた。

「そんなに不安な顔はしないで。千佳にあのことは話していないから」

 私は一瞬、クロエが何のことを指しているのかわからなかったが、反射的に「ええ」と頷いていた。その後に少し考え、『あのこと』とはアゲハ蝶のタトゥーを言っているのだろうと察しがついた。

 しかし私は、そのことについて今日不安を感じたことは一度もなかった。それはクロエの見当違いだった。だってアゲハ蝶は私とクロエだけの秘密だったから。初めからクロエが誰かに話すはずがないと信頼していたから。だから私はアゲハ蝶のことを不安がったりはしていない。

 アゲハ蝶のことはわかった。では、私とクロエが恋人同士であることは千佳さんに伝えていただろうか。それとも千佳さん自身で何となく察するものがあったのだろうか。このことから生じた足場の不安定さを、今日は嫌という程味わった。

「あらっ、二人で内緒話? 仲がいいのね」

 千佳さんの声が聞こえ背中がピンと伸びた。リビングで別れの挨拶をしたので、もう声を聞くことはないと思っていたのだ。

 私は千佳さんの言葉に対して、何気ない、和やかな声色であるからこそ、裏に何か含むものがあるのではないかと勘ぐってしまう。

 だいぶ弱っているな、私と、思わず千佳さんから顔を背けてしまう。けれど千佳さんはそんな私に構わず近付いて来て、青い紙袋を差し出した。

「今日お話出来たお礼よ。お土産にどうぞ」

 私は千佳さんの手からそれを受け取った。青い紙袋には見覚えのあるロゴ。それはクロエが初めて私の家に来てくれた時に貰ったものと同じだ。お母さんはこれを見た時、この洋菓子店は東京だととても有名で、その初めての支店がショッピングモールに入ったので、連日列が途絶えないのだと言っていた。一つ一つの値段も高いのに凄いことだ。そして今日、この高級洋菓子店を日本に持ってきて運営しているのは、千佳さんが経営している会社だということを知った。なるほど、だからクロエはこれをお土産にしていたのだ。そして恐らく、これ以降もクロエが私の家に来た時に持ってきた数々のお菓子は、千佳さんの会社で扱っているものに違いない。

 千佳さんはクロエの陰にずっと潜んでいたのだ。

「ありがとうございます」

「いえ、いいのよ。それじゃあクロエ、揚羽ちゃんを宜しくね」

 そう言って千佳さんはクロエの頭にぽんと手を乗せ、玄関から送り出した。


 クロエとエレベーターに乗り、ロビーのある階まで降りた。中央ホールを抜けて、居住エリアの扉の前まで辿り着く。クロエが赤いポシェットからスマホを取り出す。来た時と同じ動作だ。外側からだけではなく、内側から外に出る時もロックを外す必要がある。

 私はようやく居住エリアから抜け出した。

「クロエ、今日はありがとう。送ってもらうのはここまでで大丈夫だよ」

「えっ、そう? 改札口まで一緒に行こうと思っていたんだけど」

「ううん、大丈夫。ここからなら、たぶん一人で戻れると思うから」

 私は早く一人になりたかった。居住区エリアの扉さえ抜けてしまえば、改札口までは単純な道順なので迷うこともないだろう。

 クロエは改札口まで一緒にと何度も渋ったが、私は本当に平気だからと断った。

「家に着いたら、メッセージ頂戴ね、揚羽」

「うん、するよ」

 別れ際、クロエは私の手をぎゅっと握りしめた。

 実際の所どうしてクロエと千佳さん一緒に住んでいるのか、結局わからないままだった。

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