揚羽_30

 洋風のダイニングチェアに座っていた女の人はノートパソコンを閉じて立ち上がった。それからテーブルの向かい、同じ様式のダイニングチェアを引いて手の平を向けた。私はクロエに背中を押され、女の人に勧められたダイニングチェアに腰を降ろした。

「あのこれ、どうぞ……」

 私はクロエとの待ち合わせ前にコンビニで買った、お土産用に包まれた菓子折りの紙袋を差し出した。

 女の人が私から紙袋を受け取る際、香水の甘い香りが仄かに香った。

「丁寧にありがとう。頂戴するわね」

「いえ、はい……」

 私は自分が渡したものに対して恥ずかしさを感じた。お土産はコンビニで買うのではなく、昨日の内に無理にでも外出してより良い品を用意しておくべきだったと後悔する。


 クロエが複合施設の居住エリアに住んでいることを教えられたのは、一昨日送られたメッセージの中でだった。千佳さんに会う日程が決まり、では待ち合わせ場所はと指定されたのが複合施設が建設された駅の名だった。


「来栖さんも紅茶でいいかしら?」

「あっ、はい。大丈夫です」

 千佳さんが自然な動作で微笑んでいるのとは対象的に、私は緊張のあまり顔が引き攣ってしまっているのが自分でもわかった。

「クロエは勿論エスプレットよね」

 いつの間にか私の斜め向かいに座っていたクロエに千佳さんが訊いた。

「うん」

 お茶の用意のため千佳さんはキッチンに消えた。

 私はシャツの上からアゲハ蝶に触れ気分を落ち着かせる。招いてもらった身として、失礼を感じさせてはいけない。緊張のし過ぎはみっともないので、もっと自然に、なおかつ礼儀よくなければならないと、私は一息吐いて気分を入れ替えた。


 なんだか今日のクロエは口数が少ないように感じる。駅で待ち合わせて家へ手を繋いで案内されている時にも少し違和感があったが、室内に入ってからはより一層、妙なよそよそしさがある。今もこうして斜め向かいに座っているクロエはじっと黙ったままだ。

 家での生活を見られて恥ずかしかったりするのだろうか。


 しかし、クロエと千佳さんの関係について私は未だよくわかっていない。一緒に住んでいるらしいことは、前々から電話のやり取りから察せられた。初めの頃はてっきり親子なのかなと思っていたが、クロエのお母さんは既に亡くなっていると話していたからそれは違う。だとすればあとは、たとえばクロエのお父さんの再婚相手だという線はどうだろうか。そうなると千佳さんはクロエの義母にあたる。

 ただ千佳さんはかなり若く見える。クロエのお父さんは仏蘭西人だということで、私にははっきりとした年齢がいまいちよくわからないのだが、それでも千佳さんとは結構な年齢差があると感じられる。千佳さんは二十代前半、クロエのお父さんは五十代くらいだろうか。まあ、結婚する当事者にとって、年齢差を気にするか否かは、個々人の自由だ。

 そんなことを考えならが部屋の中を見渡すと、ソファーやクッション、テーブルなどから、クロエと千佳さんの生活感が感じ取れる。ただそれらはあまりに女性的な感性が強すぎて、この環境の中でクロエのお父さんが生活している姿が想像できない。もっともこの家は部屋数が多いみたいなので、居間は女性二人の趣味に合わせて、個室を自分の趣味に飾っているかもしれない。


 また例えば、千佳さんは義母ではなく、義姉妹という可能性はどうだろうか。クロエのお父さんは別の女性と実は結婚していて、千佳さんはその連れ子だったみたいな。


 私は思考を巡らせれば巡らせるほど迷宮に迷い込み、答えから離れていくよう感じられた。ここまでくればもう実際に訊いてしまった方が早く、それに安心できるのだからそうすればいいのに、けれど自分から切り出すことをためらってしまう。


 良い香りに釣られて顔を上げると、千佳さんが紅茶とお菓子を乗せたトレイをテーブルの中央に置いていた。私の前にはソーサーと花柄模様のカップ、生チョコが添えられた小皿が並んだ。

「砂糖の数はお好みでどうぞ」

 小さな陶器がコトリ音を立てて渡された。

 千佳さんはクロエにエスプレッソを、自分が座る席には紅茶のカップを置き、全ての配膳を終えてから椅子に腰を降ろした。

 私は陶器の蓋を開けて、中から角砂糖を一つ取り出し紅茶に溶かした。蓋を閉じてから元の位置に戻すと、千佳さんが手を伸ばし自分の近くに運んだ。そして中から三つの角砂糖を取り出すしクロエのエスプレッソに投入した。次いで千佳さん自身の紅茶に角砂糖を一つ入れた。

 飲み物を個人の好みに合わせて調整する。千佳さんのその慣れた手付き、またそれを当たり前だというように受け取っているクロエ。そんな二人の光景を目の前にした私は、クロエと千佳さんが共に生活しているのだということを強く意識させられた。

 どうしてだか、胸がちくりと痛む。


「それじゃあ揚羽、改めて紹介するわね。私の隣に座っているのが千佳よ」

 私は向かいに座っている女性に頭を下げた。

「はじめまして、来栖揚羽です」

「はじめまして、揚羽ちゃん。いつもクロエから話を聞いていてね、私もあなたに会いたいなって我儘を言っちゃったの。今日は来てくれてありがとう」

「いえ……はい」

 私は千佳さんに見詰められ、萎縮してしまう気持ちを抑えて何とか受け答えする。

「ねっ、可愛いでしょう」

 クロエはそう言って私に微笑みを向ける。

「ええ、そうね。とても」

 千佳さんもクロエに続けてそう言うので、さすがに私は赤面する。いえ、そんなと首を振り小声で呟く。もっと何か喋らなきゃと思うのだが、上手く言葉が出てこない。私をそれを誤魔化す為に紅茶に手を伸ばす。

「ふふ、そんなに緊張しないで。お菓子もどうぞ」

 私の態度はすっかりと見透かされており、千佳さんの大人な対応にたじろくばかりだ。私だってもっと堂々としていたいのだが、すっかり雰囲気にのまれてしまった。私はもう一度右手で左下腹部のアゲハ蝶にシャツの上から触れ、呼吸を整える。


 千佳さんから、まるで尋問されているかのように質問が続く。私はそれらに対してやんわりと、なるべく失礼にならないよう適当な答えを返した。私は自分のことを他人に知られるのが好きではない……というか、嫌いだった。なので表面的な内容しか口にしていないのだが、果たして千佳さんに対してどこまでうまく通用しているのだろうかと思う。私なりに彼女の顔色を窺ってみるが、よくわからなかった。


 私の話が終わると、千佳さん自身の話題に移った。彼女は東京の大学を卒業した後、友達と一緒に洋菓子の輸入を取り扱う会社を起業した。そして現在、複数のブランド洋菓子店を運営しているのだが、最近最も有名なのは東京に直営店を持ち、支店をこの複合施設のショッピングモールのテナントに入れた洋菓子店なのだった。そしてその支店起ち上げの為に、居住エリアに越した来たのだという。

 しかし自宅に帰って来れるのは週に三日程度しかないらしい。千佳さんは会社経営陣の一人であり、四ヶ国語を話す事が出来るので、主に海外の人との交渉の場に出席する事が多い。なのでショッピングモールに入った洋菓子店以外にも、喫茶店や雑貨店の経営にも携わる必要があり、会社での仕事は多岐に渡っている。その為日本国内だけではなく、世界各地を飛び回らなければならない。これが仕事だ。だから毎日家に帰って来ることが難しいのだと言う。

「あの……今日は大丈夫だったんですか。休んでしまって」

「まあねぇ、私の場合休日はないようなものなのよ。さっきも仕事してたしね。それに実は今日もね、揚羽ちゃんと会えるって聞いたから、英国の出張を延期させたの」

「えっ、そうなんですか。えっと、ごめんなさい」

「いやいや、揚羽ちゃんと会いたいって言ったのも、日程を決めたのも私なんだから、謝ることなんてないのよ。ねっ、ほら。紅茶だけじゃなくてこっちの生チョコも食べてみて。どちらも私が日本に輸入してきたものなのよ」

 どうして私なんかが千佳さんみたいな人と一緒にお茶を飲んでいるのか。それは私が、千佳さんからすればクロエと知り合いになったからに他ならない。そうでなければ、こんな人が私に時間を割くだなんてありえないし、そもそも繋がりを得ることもない。

 では一体、千佳さんにとってクロエとは何なのだろう。結局今日だって私に会うといいつつ、実際はクロエの為なのだろう。それ程までに千佳さんにとってもクロエは大事な存在なのだ。だからこそ、私は尚更千佳さんとクロエの関係性が気になった。どうして同じ家で一緒に住んでいるのだろう。


 そしてようやく、仕事の話の中でクロエのお父さんが出てきた。

「彼にはとてもお世話になったの。どうしても日本に持ってきたいお菓子があったんだけどね、そこの仏蘭西人のオーナーがなかなか首を縦に振ってくれなくてね。そこで彼にも間に入ってもらったの。実は彼、日本で喫茶店を経営する前は仏蘭西の有名店でパティシエをしていたのよ。彼とはね、私がまだ大学生だった頃に留学した時に出会ったの」

 千佳さんはクロエのお父さんのことをとても親しみを込めて『彼』と呼んでいるように聞こえた。特別な感情。学生の頃に出会った人物が社会人になってから助けとなった。そうした出来事により二人に恋愛感情が芽生えたとしても不思議ではないのかもしれない。だとすると、やはり千佳さんとクロエのお父さんが結婚して、クロエが義娘になったということだろうか。私はいまが尋ねるよい機会だと、思い切って訊いた。

「それで、ご結婚なさったんですか?」

 それを聞いた千佳さんが急にきょとんとしたので、一瞬場の雰囲気に緊張が走った。しかしすぐにまたくすくすと笑い始めたので、気まずさは僅かな時間で過ぎ去った。そして千佳さんの隣ではクロエも同様に口に手をあてて笑っていた。

「ふふっ、違う違う。私はまだ独身だし、しばらく結婚する予定もないわ。彼とは仕事で仲良くさせてもらっているだけ」

 千佳さんは首を振り、強く否定した。どうやら私のあては外れたようだ。

「そうなんですね……あの、ごめんなさい。クロエと一緒に住んでいるから、てっきりそうなのかと……」

 私はここがチャンスだ、引くべきではないと突っ込んだ。

「なるほどね。どうして私達が一緒に住んでいるか、クロエからは聞いていないのかしら?」

「はい、特には」

「だから勘違いしてしまったのね。でもそれでいうなら、そうね」

 千佳さんは喋っている途中で隣に座っているクロエにばっと抱きついた。


「私とクロエはね、恋人同士なのよ」

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