揚羽_29

 千佳さんがクロエを通じて、私に会いたいと言っている。

 クロエを駅まで送って帰宅した頃には、明後日に会う事が決まっていた。なんて早い連絡網なのだろうと驚かされる。

 そしてその数日後には京子との約束もある。

 時間指定の予定が続いている。


 私はPC前の椅子に座り、モニタに表示されているSNSのタイムラインをぼうっと眺めている。どうにもモチベーションが上がらない。この落ち込んだ状態が一時的なものであるのなら問題はないのだが、いつまでも治らないとなると、登校拒否時中盤に経験したのと同じように寝たきりになってしまう可能性がある。

 本も音楽もネットも、絵を描くことさえも嫌になっていた時期。私はひたすらベッドの上で布団にくるまり眠り、嫌な夢を見続けた。

 あの時は結局どうやって立ち直ったのだったかと思い返してみるが、明確な処方箋などはなく、ただ時間が過ぎていくのを待っていただけであったことを思い出す。


 私は机に突っ伏し、お腹に手を回し瞼を閉じる。

 クロエの顔を思い浮かべる。

 椅子で眠ると背筋を痛めることになるので後々後悔するのだが、どうにもベッドまで移動する気力が湧かなかったので、今日の所は仕方がないかと諦めた。



 駅の改札口を出ても天井は低いままだった。私は人の波の中からクロエの姿を探した。メッセージで送ってくれた情報を元に付近を目で凝らせば、クロエの可愛らしい洋服とその佇まいから、すぐに見つけることが出来た。私はクロエに近寄り声をかける。

「クロエ、こんにちわ」

「ふふ、こんにちわ、揚羽」

 私達はお互いを認識しあうと見つめ合い微笑んだ。本当は指も絡めたい気分だが、さすがに公共の場でそうするのもどうかと思い留まった。

「そういえば私、ここに来るのは初めてだわ」

「あら、そうだったの?」

 クロエから待ち合わせ場所として指定されたのは、去年完成したばかりの複合施設だった。電車の窓からこのシルエットを眺めたことは何度もあるが、これまで縁がなく、降り立ったことがなかった。お父さんとお母さんは休日によく二人で買い物に来ているようだが、私には訪れるのにどうも抵抗がある場所だった。

 周りには人が多くて居心地が悪い。企業フロアに近いせいだろう、皆スーツでびっしりと着飾っており、私と同い年であったり、学生服姿の人は見当たらない。クロエはそんな中に混じっていても存在感故か違和感がないのだが、私の場違い感は居心地の悪さをより強くさせていた。

「ほら揚羽、こっちよ」

 クロエはそう言って、お土産の紙袋を持っていない私の左手を握った。そして先を急ぐように、私を引っ張り人波のをかき分けて先へと進んでいく。


 いったん改札口付近まで戻り、今度は別の方向に伸びた複合施設への直結通路に案内される。ここが駅構内と複合施設の境目だろうかという所で、雰囲気がお洒落なものにがらりと変わった。壁には「居住フロアはこちら」と英語で書かれたプレートが掲げられている。蛍光緑を基調としたフロア入り口は、複合施設のテーマがエコであることを象徴しているらしかった。


 クロエは迷うことなく居住フロアの扉まで辿り着いた。彼女は赤いポシエットからスマホを取り出し、扉の横に備えられたパネルにタッチした。ピッと音が鳴ると自動で扉が開き、私達を招き入れた。

 中に入ると大きなホールが広がっていた。所々にソファーも設置されている。そこでは白髪の老男性が英字の新聞を読んでいたりする。別のソファーでは、アイスクリームを手にした小さな女の子と母親が仲睦まじく座っている。ホールには軽食を扱っている売店もあり、ここはさながら喫茶店のようでもある。そして天井や壁には監視カメラもしっかりと設置されていた。

 中央ホールを突き抜けるとエレベータホールへ繋がっている。そこは四つの入口に分かれており、それぞれで止まる階数が違うようだ。私達は上から二番目の階層に到着するエレベーターに乗り込んだ。

 密室に閉じこもった為か、私はようやく少し気分を落ち着けることができた。それにしたって、私は一体なんて所に来てしまったのだろうと驚きっぱなしだ。お洒落な空間もそうであるが、ここに暮らしているであろう人達の雰囲気にもまた気圧される。私には縁がない場所過ぎると、本当にここに居てもいいのだろうかと不安に苛まれる。

 十九階に到着する。クロエが私から手を離す。私は彼女の背中を追い、通路を歩く。そしてドアの前で立ち止まる。

「ようこそ揚羽。ここが千佳と私の家よ」


「おじゃまします」

私はクロエに促されて敷居を跨いだ。クロエがブーツを脱ぎ先に玄関を上がる。靴置きの脇にある棚からオレンジ色のスリッパを取り出し床に並べてくれた。私もスニーカーを脱ぎ、クロエが用意してくれたスリッパに足を通す。クロエのスリッパはポシエットと同じく赤い色をしていた。

「コート掛けがここにあるから、預からせてくれる」

「あっ、うん。ありがとう」

 私は頷き、羽織っていたコートを脱いでクロエに手渡した。玄関にも暖房が入っているようで、コートを脱いでもぽかぽかとしていた。


 クロエに案内されて奥の部屋に入ると、温かな色味の部屋に通された。蛍光灯から壁の色まで、とても落ち着くような雰囲気が演出されている。置物やカーテンなど、その一つ一つの装飾のセンスが良いと、私でもわかる。勿論それらは、値段の方も恐らく良いのだろう。


 そして、淡いピンク色のテーブルクロスの上にノートパソコンを広げ、キーボードを叩いていた女性が顔を上げる。

 私に向かって微笑んだ。


 赤茶色の髪は肩元からパーマがかかっており、胸の辺りまで長さがある。襟の高いワイシャツ、首元にはシンプルな黒いリボンを付けている。その姿を見て、神楽さんのことをぱっと思い浮かべたが、清潔という観点でいえば、二人は真逆に位置している。目の前の女性からは、女性の性的ないやらしさを感じることはない。


「ようこそ来栖さん。初めまして。来てくれて嬉しいわ」

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