揚羽_28

 ベッドの上、アゲハ蝶に触れるクロエの手の平の熱を肌で直接感じる。この瞬間が幸せでたまらない。しかし私ばかりなされるままというのも不公平だ。私もおかえしにクロエに触れようとしたのだが、どこに手を伸ばそうかと迷ってしまった。クロエの今日の衣装はワンピースだった。彼女が私に触れているのとのと同じ箇所、下腹部や腰回りに触れようとすると、スカートの下からを手を入れなければならない。十四歳の女の子に触れるだけでも難易度が高いというのに、さすがにそれは背徳感が強すぎてまずかろうと躊躇してしまった。なので結局私は手を出すことが出来ず、欲情を我慢するのに精一杯だった。


 クロエがアゲハ蝶に熱心に触れ、かわいらしく舌を這わせている様子を眺めていると、彼女が私のことを好きだと言ってくれた時のことを思い出す。あの時は驚きと恥ずかしさ、そして嬉しさがあった。それから時間経ち、今ではこうして私に触れてくれるようにまでなった。

 私にとって初めての経験と関係性だ。だから戸惑いを感じることもある。クロエに触れたいという衝動が押さえきれなくてどうしよもない時が本当に辛い。手を握ったり、ワンピースの上から抱きしめているだけでは我慢できないのだ。

 アゲハ蝶に問う。私はクロエにどこまで距離を詰めることを許されているのだろうか。クロエから愛撫を受けているアゲハ蝶。アゲハ蝶は自分の体の一部であるはずなのに、なんだからずるいと思ってしまう。


 ようやく満足したのか、クロエはアゲハ蝶から離れて布団に頭を埋めた。そして私の方に顔を向ける。

「ねぇ揚羽、気持ちよかった?」

 私達はお互いにベッドで横になっており、視線がぶつかる。クロエからの質問。私は正直に答えるのが恥ずかしくて顔が熱くなる。

「飲み物を取ってくるから待ってて」

 逃げるわけではなく……と自分に言い訳をしながら立ち上がった。

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」

 クロエの気怠げな声を聞きながら自室のドアノブに手をかける。

「ふふ。わかった。ちゃんと待ってるよ」

 私はクロエの声を背中で受けて自室から出た。


 どうやらお母さんは買い物に出かけているらしかった。私が発しているであろういまの雰囲気を感じとられると困るので、助かったと安心した。こんなに火照っている顔を見られ、何をしていたんだと尋ねられたとしても、当然答えることなどできやしない。

 冷蔵庫の中からオレンジジュースのペットボトルとチョコプレッツェルの箱を取り出した。次いで棚からはグラスを二つ手に取って、持っていくものをすべてトレイに置いた。

 気持ちを落ち着ける為にも、私は一度椅子に腰を下ろした。自分の頬を右手で扇ぎ熱を冷ます。そしてふと自然な動作でシャツの下に手を差し込み左下腹部のアゲハ蝶に触れる。そこはぬめっとしていた。

 ああ……これはクロエの唾液だと気付き、私は椅子の上で膝を抱えて顔を埋めた。


 オレンジジュースのペットボトルと用意したものを乗せたトレイを持って部屋に戻ると、クロエはベッドから丸カーペットの上に移動しており、スマホをいじっていた。私は手に持っていたものをテーブルの上に置いて、クロエの向かいに座った。

 クロエはスマホにだいぶ集中しているみたいだったので、私は邪魔しないようにグラスに二人分のオレンジジュースを注ぎ、チョコプレッツェルの箱を開封してテーブルの上を飾った。

 準備が整ってしまうと手持ち無沙汰になってしまい、私もスマホをいじろうかと思ったが、クロエが目の前にいるのだからそれは勿体無いなと、テーブルに肘をつき待つことにした。

「ごめんなさい。千佳から連絡があったものだから」

 スマホから顔を上げたクロエが申し訳無さそうな表情を見せる。私はそれに対して、うん、大丈夫、気にしていないよと微笑みで返す。


 私達はオレンジジュースで乾杯し、お喋りに興じる。

 クロエはタトゥーのことについて興味が高く、その話をよく聞きたがった。施術される時はどんな様子だったのか、アーティストは怖そうな人ではなかっただろうかなど、もう何度も同じ質問をされている。一度答えを聞けば十分だと思うのだが、その都度色々な想像を膨らませるのが楽しいのだと言う。なのでクロエがそう言うならばと、私も毎回付き合い答えを返してあげる。

 もっとも、私はクロエに対して真実ですべてを話している訳ではなかった。なぜなら、施術する時にサインした承諾書に他言無用の一文があったからだ。なので私はこのことを考慮して、施術を受けたのは東京にある普通のスタジオである体で話をしていた。真実を隠して話すことは承諾書にサインしたと時から決めていたことだ。

 クロエはタトゥーに関しては興味津々といった感じだが、東京にはあまり関心がないようで、観光的なことは殆ど訊かなかった。

「それで、そのアゲハ蝶は揚羽がデザインしたものなんだよね?」

「ええ、そう。私が描いたものをアーティストの人に渡して彫ってもらったの」

 私の趣味が絵を描くことであるのは既に打ち明けていた。私の部屋を見渡せば、机の上にはペンタブがあり、本棚には教則本が並んでいる。これらを目にすれば私が絵を描いていることが一目瞭然なので、打ち明けたというよりも、隠し通せなかったという方が実際は近かったりもする。

「わたし、揚羽の描いた絵が見たいな」

 そう言ってクロエはテーブルの上に身を乗り出し私に迫った。絵描きが趣味であるとは教えたが、これまでクロエに見せたのはアゲハ蝶の原型だけで、それ以外のイラストはまだ一枚も披露していなかった。

 イラスト投稿サイトにアップするのは自信があって完成したものだけだし、ネットの世界であれば実在の私を知る人はいないのであまり気にしていなかったのだが、実際の人を目の前にして評価を貰うのがまだ怖かった。アゲハ蝶に関しては紫聖さんから先に感想を貰っていたし、私に左下腹部に既にあるものだったから見せるのも大丈夫だったが、それ以外となるとまだ抵抗があり、毎回なんとか言い訳をして話をうやむやにしていた。

「ねっ、いいでしょう」

 だがこうも何度もねだられると、断り続けている自分に対して、どうしてここまで意固地になっているのだろうと感じなくもない。先延ばしにすればするほどハードルは上がっていくだろうし、教則本にだって他人に見られることの重要性について書かれていたはずだ。

 だからそろそろ頃合いなのだろう。ならば机の引き出しからスケッチブックを取り出そうと、私は意を決し立ち上がろうとした。しかしその時、クロエの赤いポシェットから音楽が流れた。

 私が立ち上がるより早く、クロエはポシェットに手を伸ばしスマホを取り出した。そしてまた何やら集中して操作している。私は今しがた芽生えた決意からの行動が躓いたような形になり、ふと冷静になる。そして、スケッチブックを見せるのは別に今日じゃなくてもいいかなという気分になった。浮かしかけていた腰を元に戻すと、よりしっかりとカーペットの床に根付いてしまったよう感じられる。

 

「千佳が揚羽に会いたいって言ってるんだけど、どうする?」

 スマホに向けていた真剣な表情が、今度は私に向けられていた。

 突然の質問だったから、私はすぐに答えることが出来ず、もう一度自分の中でクロエの言葉を反芻した。

 千佳が揚羽に会いたいと言っている。

 さてどうしたものかと私は返答に困った。まさかここで、私は会いたくない、などとは言えないだろう。いきなりそれは印象が悪すぎる。いや、別に私は千佳さんに会いたくないと強く思っている訳ではないのだ。たんに知らない人と会うのが億劫だからと、そうした意味での拒否反応だった。

 しかしそうか、クロエの知り合いかと、少し冷静に考えてもみる。度々クロエが名前を上げているけれども、私はいつもその時、どうしてか不安な気持ちになり、話題になるのを避けていた節がある。そうしている内に、結局は向こうから接触をはかりにきたような形となった。クロエの交友関係を知っておいた方がいいのかもしれない。千佳さんの名前を口にする時のクロエは、どこか大人びた雰囲気を感じさせる。以前少しだけ話していた感じでは、一緒に住んでいるようではあるが、彼女は母親ではないということだった。

「ええ……私は別にいいけど。あっ、でも次の土曜日は予定があるから、それ以外の日にしてくれると嬉しい」

 そういえば京子にメッセージを送っている最中にクロエが背中に抱きついてきたので、結局返事を返せずに途中にしたままであることを思い出した。後でちゃんとメッセージを返さなければ。

「うん、わかった、ありがとう。じゃぁ千佳にはそう伝えておくね」

 そう言うとクロエは立ち上がり、洋服箪笥の方へ向かった。

「あれっ、もう帰るの?」

「うん。もうすぐ千佳が家に帰ってくるみたいだから。ごめんね」

「いや、いいよ。なら駅まで一緒に行こうか」

 私も立ち上がり、クロエに並んで洋服箪笥からコートを取り出した。

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