揚羽_27

 冷蔵庫を開くと飲みものは水のペットボトルしかなかった。棚を覗けばお菓子もない。私はコンビニへ行く支度を始めた。


 ここの所クロエは結構頻繁に私の家へ遊びに来てくれる。ただ連絡が直前であることが多く、部屋の片付けなりお菓子の用意などしなければならない私にとってはちょっとした困りものでもあった。とはいえ普段から自室にクロエが尋ねてきてくれるとわかっているならば、部屋の使い方も自然に順応される。今では少し片付けるだけでクロエを招ける部屋へと準備は整う。


 手は外に出していると冷えるのでコートのポケットにしまう。口からは白い息が吐き出される。空気の色もなんだか少し透明感のようなものを感じられ、思わず体が縮こまる。 コンビニへ行く道がてら、これから私の部屋に訪れるクロエのことを考え想う。私は彼女がどこの街に住んでいるのか未だに知らない。初めて出会ったあの時、クロエは夜の散歩中であり、あの辺りに家がある訳ではないと言った。お父さんが経営している喫茶店の近くに住んでいるようでもない。お母さんは既に亡くなっているということなので、お父さんと二人で暮らしているのかなと思うのだが、なんだか家のことを直接訊くのはためらわれて、メッセージのやり取りの中から得た断片的な情報しかもたない。クロエの性格からすれば、こんなことは気にせず気軽に訊いてくれればいいのにと言ってくれるだろうが、人との距離の掴み方が苦手だと自負する私には、どうにも難しいのだった。


 コンビニに入るとおでんの匂いがふわりと漂ってきた。私はお菓子の棚の前に立ち、今日はどれにしようかなと考える。クロエは甘いものが大好きだ。チョコレートならいくつでも食べれると豪語する。高級洋菓子店のチョコレートや喫茶店でのショコラなどを食べ慣れているクロエではあるが、コンビニのお菓子もよく好んで食べる。

 私は冬季限定のチョコプレッツェルの箱を手に取った。飲み物はオレンジジュースと決めているので迷う必要はない。この二つを今日のお喋りのお供に決め、レジでお金を払った。


 コンビニから帰る道の途中、コートのポケットに入れているスマホが震えた。クロエからのメッセージが届いたのかもしれない。もしかするとクロエが先に私の家に到着してしまっただろうか。お母さんが家にいるので外で待たされているということはないだろうが、私の部屋で一人待っているクロエの姿を想像すると居ても立ってもいられなくなる。私自身の会いたいという気持ちが足を早める。それでもまずは安心させる為にもメッセージに対して返信しなければと、コートのポケットからスマホを取り出した。

 しかしメッセージはクロエからではなく、京子からだった。そういえば先程返事を送っていたので、彼女からだという可能性だってあることを忘れていた。内容はたぶん待ち合わせの日程や日時についてだろう。少し迷ったが、今はこれよりも大事なことがあると、いったん無視することにした。いきなり今日会うことにはならないと思うし、もしそうなった場合は断ることになるので、約束が明日以降になるならば別に急ぐ必要もないだろう。今はとにかくクロエに会いたいと、それしか考えられなかった。例え連絡がまだ来ずとも、クロエが既に私の家に到着している可能性はあるのだ。


 家に戻り玄関の扉を開けたが、そこにクロエのブーツは見当たらなかった。私はふと冷静になり、ゆっくりと靴を脱いで玄関を上がった。コンビニで買ってきたチョコプレッツェルとオレンジジュースを冷蔵庫に入れて、手洗いとうがいを済ませてから自室に戻った。

 脱いだコートを洋服箪笥にしまい、PC前の椅子の座る。デスクトップに表示させているSNSのクライアントアプリのタイムラインを目を追うが、特に興味を惹かれる話題もなく、手持ち無沙汰になってしまった。それなら先程いったん無視してしまった京子からのメッセージを確認しておこうとスマホを手に取った。


――返事ありがとう。気付いてもらえて良かったです。それで待ち合わせ日時なんだけど、来栖さんがいつでもいいのなら、次の土曜日、お昼ぐらいはどうでしょうか。一緒にランチでもしながらお話できたらなと思っています。


 私はカレンダーに目を移し、それで大丈夫だと返事を返した。

 学校の時間割もそうだったが、曜日感覚についても最近鈍感になっているような気がする。とっさに今の曜日を訊かれても、すぐに答えられる自信がない。お父さんが家にいれば休日、いなければ平日というのが今の私が把握しているところだ。


「あーげは」

 ぼんやりカレンダーを眺めていると、突然背中から抱きつかれた。顔を見なくたって誰なのかは、背中で感じる体つきと体温、それに声色ですぐに分かる。私は跳ね上がった心臓の音がばれないようなるべく平常を装って、肩に回されたクロエの腕に自分の手のひらを乗せた。

「いらっしゃい、クロエ」

 私は気持ちを落ち着けて、振り返る。私だって今すぐにでもクロエに抱きつきたい。けれど私の方が年上だから、あまりにべたべたし過ぎるのは気恥ずかしく、みっともない。なので心には余裕がある体で接する努力をする。

「ねぇ、このままだと飲み物とお菓子が取りに行けないんだけど」

 駆け引きを楽しむように大人ぶった態度でやんわりと抗議する。対してクロエは子供っぽく、つんとして私に回していた腕になおいっそう力を込めてしがみついた。

「飲み物は後でもいいわ。わたしはいま、揚羽に触れていたいの」

 そう言ってクロエは私を椅子から引きずり下ろしベットまで移動した。そして押し倒される。勿論私にもそうされる期待があったから、クロエだけの力ではなくて、共犯関係的にこのような格好になったのだ。


 クロエが私のシャツを胸の下までめくる。

 アゲハ蝶にそっと触れ、撫でる。

「痛くはないのよね?」

「ええ、痛くないわ」


 あの日東京で紫聖さんからの施術を終えた後、一泊してから地元に戻った私は五日間左下腹部にガーゼを掛けていなければならなかった。そしてようやく紫聖さんから言われた通り、六日目の朝にガーゼを外し、左下腹部に宿したアゲハ蝶と対面した。

 なんて素晴らしいのだと見惚れた。

 そして私はクロエにも早く見てもらいたいと思い彼女に連絡をした。

 ただ少しだけ不安もあった。

 もしクロエがアゲハ蝶を気持ち悪がったり、タトゥーを彫るような女とは付き合いたくないと拒絶されたらどうしようと思ったりもした。

 けれど私はアゲハ蝶を宿した私自身をクロエには愛してもらいたかったし、クロエなら愛してくれるだろうと信じてもいた。

 私の部屋に呼ばれたクロエはベッドの上に座っている。

 私はクロエの前で自らシャツをめくり、アゲハ蝶を見せた。するとクロエは、私を初めてみた時と同じように「美しい」と言ってくれた。私のアゲハ蝶を撫でながら、何度も何度も「美しい」と囁いてくれた。


「わたしにとって揚羽は、やっぱり特別だったんだ」

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