紫聖と神楽_2
「それで、揚羽ちゃんはファイルに一度も手を付けなかったんだ」
枕に顔を埋めている紫聖は、隣で髪を撫でてくれている神楽に訊いた。
「ええ。部屋に案内した時にさりげなく伝えたけど、彼女には興味がなかったみたい」
揚羽はタトゥーの施術を終えた後、紫聖と神楽二人の寝室の向かいにある部屋で一泊した。その部屋の本棚には、揚羽が撮影した男達の個人情報が記されたファイルが収められていた。それらを読めば、『碧色の時計盤』のマップに表示されていた赤い点が、何を基準として男達を選定していたのかを知ることが出来た。
「自分が何をしたのか、揚羽さん自身は知らぬままでいることは、紫聖にとっては良いこと? それとも悪いこと?」
仕事を離れれば神楽は紫聖にとても砕けた調子で接する。今はベッドの上なので眼鏡も外している。
実際の所、神楽は仕事用の言葉使いに未だ慣れていなかった。あの喋り方には苦労させられており、できれば普通の口調で話をしたかった。しかし、受付を担う者にはそれに相応しい態度と口調があり、それに則っていなければならないと弥生から口うるさく指示されている為、仕方なく従う他なかった。
「どちらでもないさ。僕は薬が貰えてタトゥーが彫れればそれでいい。彼女達がどんな心境で写真を撮って送ってこようとも興味がないんだ。ただ、姉さんは残念がるだろうけどね」
紫聖は枕から顔を上げ、ベッドの上部に備えられた棚から一枚の写真を手に取った。
「ほら見てよ。今回のタトゥーも良い出来だろう」
揚羽に彫ったアゲハ蝶のタトゥー。紫聖はその写真を神楽に渡す。上半身を起こしていた神楽は下から差し出される写真を手に取り、まじまじと見つめた。
「ごめんなさい。やっぱり何度見せられても、私にはタトゥーの良さがわからない」
枕に腕を乗せ背中を少し逸した格好の紫聖は神楽を見上げ、残念そうに口を尖らせた。
「うん、知ってた。はぁ……どうして神楽もわかってくれないんだろうか。いや、いいんだけどさ、別に」
「でも紫聖の体にもタトゥーはないわ」
「僕はほら、彫る専門だからさ。それに名前に刻まれているからね」
神楽から写真を返された紫聖は、「こんなにいい作品なのになぁ」と、もう一度写真に映るタトゥーを見て嘆いてから棚に戻した。
紫聖は再び枕に顔を埋める。
タトゥーを施術した後の紫聖は長い時間をベッドの上で過ごす。
「体調はまだ良くならない? もうだいぶ時間が経つけど」
あらわになった紫聖のきめ細やかな背中を撫でながら神楽は訊く。
揚羽への施術を終えて以来、神楽は紫聖から一時も離れずに寄り添い生活をしている。シャワーを浴びるのも疲れると言うので、神楽は紫聖の体をタオルで拭いてやる。髪も洗っていなのだが、毎日水で軽く濡らしてやっているので艶やかさは失われていない。同様に食事も全く摂っておらず、喉を通るのは水だけである。紫聖はまた痩せたようだと神楽は心配する。
痩せてやつれた紫聖もまた美しくはあるのだが、もしかするとこのまま衰弱して消えてしまうのではないかという不安が神楽の胸の内を侵食してく。
初めて出会った頃の紫聖は無力感に蝕まれていた。神楽はそんな紫聖の姿が直視できず、俯いたままで顔を合わせることが出来なかった。
当時の紫聖は弥生によって全てを取り上げられていた。
タトゥー、薬、居場所、他人との関わり。
神楽はそんな紫聖を救ってあげたいと思った。しかしそれは、自分だけの力では足りない事に自覚があった。
それでも一緒にいられればと、あの日から今もずっと神楽は紫聖の隣にいる。
「紫聖は今幸せ?」
問うてみたが返事はない。
神楽は手を伸ばしサイドテーブルから自分のバッグを手繰り寄せ、中から封筒を取り出した。
「紫聖、こっちを向いて」
「うーん、僕はまだ疲れてるんだ。もう少し寝かせてよ」
「そう不機嫌にならないで、ねぇ。ほらこれ、今回の分」
面倒臭そうに紫聖は神楽の手から封筒を受け取った。中に入っていた紙幣を取り出すと、興味がなさそうにぺらぺらと捲る。
「契約通り、紫聖の分はきっちり三割。それと弥生さんからの報告書も同封されてますから、確認しておいてく下さいね」
仕事に関する事柄なので、神楽は悪戯心から事務的口調で話しかけた。そして、ここ何日も何も食べていない紫聖に対して、このお金で美味しいものを食べに行きましょうねと、続けて話しかけるつもりだった。しかし紫聖が割り込むように口を開いた。
「薬は入っていないんだね」
不貞腐れたような口振りに、神楽の心は曇る。
「それは……仕方のないことだわ。あれは施術の時にしか支給されない」
神楽は顔を俯け、紫聖の反応に怯えながら続ける。
「正直私は、紫聖にこの仕事を辞めて欲しい。あの薬は強すぎる。施術後は意識がはっきりしなくなるし、それに体力だって、まだ回復してない」
「まぁ、そうだね。確かに僕は誰かにタトゥーを彫る度に、自分の寿命を削っているように思えるよ。でも、それがいいんだ」
俯く神楽をからかうように、紫聖は彼女の下唇をつまんだり軽く引っ張ったりと弄ぶ。
「私にはその気持がわからないわ。心配で堪らない」
「そう言われてもねぇ。止めることなんて出来ないよ。それは神楽だって、よくわかっていると思うけど」
そんなことは十分承知の上で、あえて訊いているのだった。簡単に折れてしまいそうなほど華奢である紫聖の体を見たり触れたりしていると、どうしても口にせざるを得なくなる。
「それでも……」
神楽が喋ろうとした唇に紫聖は人指し指をあて黙らせると、そのまま口内へ指を突っ込んだ。
二人はお互いに何をされれば喜ぶのか、長い間時を同じくすることで、しっかりと把握しあっていた。だからずるいと神楽は抗議したかったが、自然な動作として、紫聖の指を舌で絡めることに必死になってしまう。
紫聖は神楽に自分の人指し指を差し出しながら、机の上にあるPCにメールが届いていることを視界に入れた。神楽はそれに気付く暇もなく、紫聖の指をしゃぶることに必死になっていた。紫聖が指をすっと抜くと、神楽はまだ足りないと口を半開きにしたまま追いかける。
「君だけじゃなくて、僕にも楽しませてよ」
紫聖は神楽の濡れた唇に自分の唇をあてがった。指を取り上げられ、途中でおあずけを食らったような心持ちだった神楽は始めから激しい舌使いだった。
紫聖はこうゆう神楽が好きだった。自分のことをとても心配してくれているのを知っている。しかし、それだけでは足りなかった。紫聖にとってタトゥーと薬はなくてはならないものだ。神楽だって不満を言いながらも、なんだかんだで紫聖の姉である弥生の事務所まで出向き、仕事と薬をちゃんと持ってきてくれる。
だから紫聖は神楽のことをちゃんと愛している。なので先程目に入ったメールはひとまず無視して、今は神楽との時間を楽しむ事に決めた。
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