揚羽_25
男の子がまじまじと私の顔を見る。その距離があまりに近くて困惑させられる。恥ずかしさから顔を背けたくなるが、しかし男の子の不思議な魅力のせいなのか、彼のなすがままに従ってしまう。
そうしている内に、私は彼を間違えて捉えている事に気が付いた。目の前に立ち私の顔を覗いているのは男の子ではなく、女の子だった。自分のことを僕と呼んだこと。そしてショートカットの髪型と中性的な顔立ちによって勘違いさせられていたが、体つきはとても華奢で少女のフォルムをしている。もしかすると私とそう年齢が変わらないのかもしれない。
彼女から「あげはちょうちゃん」と呼ばれた事にも驚かされていた。アカウント登録で必要だったのはIDネームだけだったので私の本名は知らないはずだ。それなのになぜとびっくりした。ただ少し考えてみると、IDネームの「あげはちょう」を「あげは」と短縮するのはありえないことではない。ここで「あげはちょうです」とあえて訂正するのも変に感じられる気がしたので、この件については流すことに決めた。
顎先に手をあてられたまま顔を横に向かされた。すると視界の先に、私をここまで案内した眼鏡の女性が奥の部屋から台車を押して出てくるのが見えた。彼女はウォーターサーバーの前に立ち、グラスに水を注ぐとそれを台車の上に置いた。そして私と男の子のような女の子の側まで寄ると、無言のまま手を膝の前で重ね、待ちの体勢をとった。
男の子のような女の子がようやく私の顎から手を離し、背もたれのないパイプ椅子に座った。眼鏡の女性が持ってきた台車の上から一枚の用紙を持ち上げ、内容に目を通している。
私は顎を持ち上げられていたせいで首の後ろに痛みを感じていたので、それを和らげる為に手を後ろに回してその箇所をさすった。
「あげはだからアゲハ蝶か。なるほど、それが君にとってのタトゥーなんだね」
男の子のような女の子はそう言って手に持っていた用紙を私に向けた。そこには私がデザインしたアゲハ蝶が印刷されていた。
「うん、良いデザインだよ。僕も彫るのが楽しみだ」
私はこれまでイラスト投稿サイトに自分で描いた絵を何枚か投稿しているが、直接誰かを目の前にして見られるという経験がなかった。なのでデザインしたアゲハ蝶を男の子のような女の子から褒められたことがとても嬉しく、また同時にむず痒くも感じた。ネット上でもコメントを貰うことがあったが、それとは全然違うタイプの恥ずかしさだった。
「このアゲハ蝶が君のここ、左下腹部に彫られる」
男の子のような女の子が私の左下腹部に手を伸ばし、シャツの上から撫でる。手はすぐに離されたが、触れられた場所には熱が残っていた。
「さてと、僕の名前は
隣に立っていた眼鏡の女性、神楽さんは紫聖さんに紹介されて微笑んだ。彼女は先程から紫聖さんに寄り添うようずっと立っている。
「それじゃぁ神楽、あげはちゃんに先を説明してあげて」
「かしこまりました、紫聖さん」
二人の年齢はどうみても紫聖さんの方が下に見えるのだが、立場関係は逆のようだ。紫聖さんがアーティストであるからだろうか。
「あげはちょうさん、まずはこちらをご覧下さい」
神楽さんから用紙とボールペンを差し出されたので受け取った。
「そちらは施術承諾書になります。よくお読みになってからサインをお願い致します。もしご質問がある場合は、遠慮なくおっしゃって下さい」
私は承諾書に書かれた文章を上から順に目で追った。
――施術後のタトゥー写真を当スタジオのホームページに掲載することに同意いたします
このスタジオでアゲハ蝶を宿してもらいたいと決めるきっかけは、間違いなくホームページに掲載されたいた写真の数々だった。あの中に、私のアゲハ蝶も混じれることは光栄だと思った。私の場合は左下腹部にタトゥーを彫るので顔が載せられる訳でもなので、この項目は問題なく同意する。
私が承諾書を読んでいる間、紫聖さんと神楽さんが会話を始めた。私は紙面に目を落としたままであるが、自然に二人の声が耳に入ってくる。
「神楽のその喋り方、いつ聞いても面白いね。僕の前でもずっとそうしていてよ」
「……これは仕事用の言葉使いですから」
「そう言わずにさ。いいだろ」
「仕事中なので真面目にしていて下さい」
なんだか部外者が聞いていてはいけないような恥ずかしさがある会話だったので、私はなるべく承諾書に集中することにした。
読み進めていくが特におかしなことは書かれていない。そして最後の一文まで辿り着いた。
――今回の件に関して一切他言しないことを誓います
今回の件が指し示す範囲とは、写真撮影と碧色の時計盤は勿論のこと、ホームページの存在自体も含まれていた。ホームページに関しては、施術希望者自身が自分で見つけるのはいい。しかし過去に一度施術を受けたものがSNSやブログで情報は発信したり、知人や友人に話すことは禁じられていた。
スタジオの場所に関してもそうだ。私はアイマスクを被せられ車で移動してきた。待ち合わせは目白駅だったが、ここが果たしてどこなのかわからない。この秘匿性からすれば、この一文が記載されていることにも納得がいった。
それに例えこの一文がなかったとしても、誰にも言うつもりはない。見知らぬ男達をスタンガンで気絶させて、写真撮影をした時のこと思い返す。こんなこと誰にも言えるはずがない。
承諾書に記載されていた内容をすべて読み終え、どこにも異論はなかったので、指定の箇所にボールペンで「あげはちょう」とサインした。
親の同意が必要である旨はどこにも記載されていなったことに安心した。
サインを入れた承諾書を神楽さんに渡すと、ありがとうございますと言われた。そして深々と頭を下げられ、少し時間を置いて顔を上げると頬を緩ませた。とても自然な動作でなんて完璧なんだと思わされるが、先程までの紫聖さんとの会話を聞いてしまうと、これも仕事用の所作を演じているのだなと、失礼ながら少し微笑まく感じてしまう。
「あげはちょうさんは本当に良い事を成し遂げていただきました。社会的にもそれは誇れることです。私共は今回の事に改めて感謝申し上げます」
神楽さんは今だけではなく、これまで電話の中でも何度も社会的に感謝をと言っていた。しかし私は、一体何に感謝をされているのか正直わかっていなかった。見知らぬ男を気絶させたことが? それともその写真を送ったが? 私にはどちらもそうとは思えなかった。だってアゲハ蝶を宿す為にやってきたことは、タトゥーを彫ることも含め全て私のエゴであり、自分自身のことしか考えていなかったのだから。
「あげはちゃん、そろそろ始めるけど、本当にいいね?」
もう承諾書にサインは終わっているのだ。今更いいかと聞かれて、頷く以外の選択があるだろうか。それが表情に出てしまったのか、紫聖さんは笑いながら口を開いた。
「ごめんごめん。あげはちゃんにとっては不必要な質問だったね。いや、この国ではなかなかタトゥーの存在意義が認められなくてね。僕も困っているんだよ。だから確認をね」
その意見に関しては私もネットで沢山目にしていた。しかしその上で私は自分自身でタトゥーが欲しいと、左下腹部にアゲハ蝶を宿すのだと熱望したのだ。タトゥーを入れたことにより「後悔」したという文字を本当にいくつも見た。だが私はそうはならない。そこに強い確信があった。
「うん。本当に良い顔をしているよ。あげはちゃん、必ず君に相応しいアゲハ蝶を施してあげよう」
神楽さんと喋っている時の紫聖さんは、なんて軽い人なんだ、この人が本当にあの私を魅了したタトゥーを施したアーティストなんだろうかと少し不安になったりもしたが、今の表情を見るとそんなことはなく、頼もしさがあった。
くるくると変わる印象がなんて魅力的なんだろうと思わされる。
「さて、こっちのベッドに移ってきてもらえるかな。上のシャツは全部脱いで、仰向けにになって」
私は椅子からパイプベッドに移動した。シャツを脱ぎ、ショルダーバッグと一緒に脇にある籠に入れた。
仰向けになると、シミひとつない天井が一面に広がった。下着は付けているけれど、上半身裸でいるの結構気恥ずかしい。
「それでは施術が終わるまで、私は奥の部屋で待っていますね」
「うん、そうしていて」
神楽さんは紫聖さんから離れ、再び奥の部屋に消えた。
白い壁に囲まれた部屋に取り残される私と紫聖さん。二人きりになるとなんだか急に距離が近付いて、これからまるで恋人に悪戯されるような気分になる。
私にはクロエという恋人がいるのに、なんてことを考えているのだと恥ずかしくなる。 紫聖さんは私と同い年くらいに見えるのに、既にいくつもの作品を手掛けてきた素晴らしいタトゥーアーティストだ。その実績や経験が、私にこうした思いを抱かせるのだろうか。もしかするとこれまで私と同じように紫聖さんの手によってタトゥーを施された他の人達もまた、同じように感じたのかなと思った。そこで同時に、そうか、他の人達も私と同じように写真を撮影したのだなと今更思い至った。画像に掲載されたタトゥーはいくつあっただろうか。何人の男たちが犠牲になったのだろうか。
「左下腹部だと……ここだね」
そう言って紫聖さんはアゲハ蝶が描かれた用紙を私の左下腹部に重ねた。
ベッドで仰向けになったまま、私はちらりと台車に視線を向けた。ネットで見たのと同じ、先端に針が付いている機械。これからあれで傷つけられるのかと思うと少し怖いが、これもアゲハ蝶を宿す為に必要な行為だ。我慢するしかない。しかしそう意識すればするほど、心拍数は上がっていく。
紫聖さんが私の胸に下着の上から手をあてた。
「凄いドキドキだ。でも大丈夫、僕を信じて」
その言葉の響きに私は心を委ねた。ネットで読んだ情報だと、タトゥーを彫る時の痛み方は人それぞで、アーティストによっても差があると書かれていた。
だからこそ、紫聖さんが大丈夫だと言うのであれば安心できる。
紫聖さんは台車の上にあった錠剤をいくつか口に入れ、グラスの水で流し込んだ。飲み終えると、コットンに消毒液を染み込ませ私の脇腹を拭った。つんとしたにおいが鼻孔を刺激する。
「じゃぁ、始めようか」
「はい、お願いします」
タトゥーを彫る機械を手に持った紫聖さんが私の肌に手を置き、針の先端を近付けた。
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