揚羽_24
地元の駅から四つ離れた所に長距離バスの停留所があった。まずはそこへ向かいバスが来るのを待った。なるべく待ち時間が少なくなるよう家を出る前に調べておいたので五分程度で到着し、目の前でドアが開いた。
これまで交通手段としてバスを使用することがあまりなく、なおかつ長距離となると初めての体験になるので少し緊張していた。だが車内の乗客はあまり多くなく、座席に着いてしまえばあとは東京まで座っているだけだと思えたので気分はだいぶほぐれた。
私はスマホのSNSアプリを起ち上げ、タイムラインを眺めた。月曜日週明けの気分が文章から漂っている。しかし私はといえば、学校を辞めて以来曜日を気にする生活ではなくなった。なのでタイムライン上の雰囲気にいまいち共感できなくなっていた。
スマホで音楽を聴きながら電子書籍アプリで本を読む。時折ふと窓の外を流れる風景に目を向けたりする。長距離バスだけではなく、県境を超えるのも初めての体験になるのでもっとわくわくするかなと思っていたが、意外とそんなこともなかった。そう感じてしまうのはバスの窓を通して県境を超えてしまったからで、実際に自分で地に足をつけて踏み越えていたならば、もう少し気分が変わっていただろうか。などと考えていると握っていたスマホが震え、通知欄にメッセージが表示された。
クロエから「おはよう」のメッセージ。時間的には少し遅くあるが、彼女は相変わらず夜の散歩を続けている為、起床はいつもこの位だった。そうした意味では、クロエもまた私と同じように社会の決まり事にあまり縛られずに生活している人間だった。
私もクロエに「おはよう」とメッセージを送り返す。クロエにも東京へ行くことは黙っていた。私のアゲハ蝶を彼女だけには見て欲しいと思っているが、それはすべてが終わるまで内緒だ。
クロエはアゲハ蝶を美しいと言ってくれるだろうか。そうであったら私は嬉しい。
バスから降りて辺りを見渡す。なるほどこれが東京駅なのかと好奇心が視線の移動を活発にさせる。できればちゃんと立ち止まって写真を撮りたいのだが、それをすると他人から妙な眼差しを向けられてしまうのではという不安が先行して気が引けてしまう。かといって全く撮影できなかったとなれば、後々後悔してしまうかもしれない。なので私はなるべく人目の少ない隙間の場所を探し、そこでようやく足を止めた。そうするとなんだか少し気分が軽くなった自分に気付き、どうやら私は東京に到着してうわついているのだと自覚した。やはり実際の風景を歩き空気を吸い込むと、地元とは違う遠い土地まで来たのだと実感した。
目白駅で十八時に待ち合わせなので、今から山手線で向かえばちょうどだった。改札口から駅の構内に入ると、とにかく人が多かった。私の地元である路線駅も、あの複合施設が出来てからというもの随分と人の数が増えたと思っていたが、それとは比べ物にならない程の混雑だ。改札口の中だというのに本屋や雑貨屋があり、お土産用のお菓子売り場には列が出来ている。壁に貼られている地図を見てみると、どうやら地下街まであるらしい。駅構内は電車のホームを繋ぐ為のただの通路ではないことが私にとってはちょっとした驚きだった。
興味はつのるばかりだが、しかし今は寄り道をしている余裕はなかった。天井や足元にある案内版を確認しながら山手線のホームを目指す。
私が感じた東京は、初めて見るものが多く楽しさはあるのだが、道を逸れてしまうと迷子になってしまうんじゃないかと不安になってしまうほどの密度の高さと人の多さに息苦しさを感じるなというものだった。
目白駅に到着したので改札口から出て『碧色の時計盤』を起ち上げた。電話で話していた通り、詳細マップに遷移すると緑色の点が表示されていた。私の現在地を示す青色の点からそう離れていはいない。そして赤色の点はどこにもなかった。写真を送り終えたから表示されなくなったのだろうか。私は自分の作業を終えて以来、『碧色の時計盤』をあまり起ち上げないようにしていたので、今の地元ではどうなっていいるのかわからなかった。
緑色の点が指し示す場所まで到着すると、バリゲートで封鎖されている寂れたビルが目の前に建っていた。所々塗装がはげており、夕焼けに浮かび上がるシルエットが不気味さに加担している。
タトゥーを施術する為になかなか高いハードルの条件を提示する代わりに琉金は取らないと言っていた人達だ。それを思うとなるほど確かにスタジオがどんな場所であったとしても不思議ではない。つまりこのバリゲートを跨がなければならないのだなと私はひとつ息を吐き、よし行くぞと片足を向こう側に突っ込んだ。
「あげはちょうさんで御座いますね」
足を上げている最中、後ろから肩に手を置かれた。振り返ると眼鏡の女性が立っている。首の後ろで一つに纏めた艷やかな黒髪が、右肩から前に流れて胸の上に乗っかっている。体のラインがはっきりとわかる細身のスーツが妙ないやらしさを感じさせた。
「あちらが待ち合わせの場所になります」
女性が示す先には赤い車が停まっていた。
後部座席に座らされ、アイマスクを手渡された。窓がスモークガラスになっていることも含め、さすがに不安感がつのる。
「そんなに緊張せず、どうか気分を楽にして下さい。ただ事情が御座いまして、このような方法を取らなければならないのです。そのことをどうかご了承下さい」
女性は運転席から体を捻り、後ろに座る私に微笑んだ。ここまで来たのだ、今更何があろうと問題じゃない。私がアイマスクで目元を覆い座席に腰を埋めると、車が動きだしたことを体が感じた。
声や喋り方から察するに、これまでの電話の相手は運転席に座る彼女だったに違いない。ようやく私の望みが叶う。もうすぐ私にアゲハ蝶が宿るのだという緊張感が鼓動を早くしていた。心地の良いリズムでもあった。
アイマスクを掛けたまま車から降ろされると、手を引かれエレベーターに乗せられた。上に移動しているのか下に移動しているのかわからぬまましばらく待っていると、機械が動く音が止まった。また少し歩かされてから止まり、靴をお脱ぎ下さいと言われた。私はアイマスクで目を隠されたまま靴を脱いた。
靴下の下から少しひんやりとした床の感触を感じる、彼女の手に導かれ椅子に座らされた。そしてようやくアイマスクが外された。
「ここでお待ち下さい。だだいま紫聖さんを呼んで来ますので」
そう言って女性は私に水の入ったグラスを手渡し、奥の部屋に向かうと扉を開閉して姿を消した。
喉が渇いていたので水を貰えたのは有難かった。飲んでみるといい具合に冷えており、とても美味しかった。
私は歯医者にあるようながっしりとした椅子に座っていた。目の前にも椅子が置かれているが、そちらは背もたれのない普通のパイプ椅子だった。その側にはマットレスを敷いたパイプベッドが置かれている。寝心地はあまり良くなさそうだ。
左から右に首を動かし部屋の中を観察した。部屋の隅にある大きなウォーターサーバが目を惹いた。上部には太い樽型のペットボトルが口を下に向けて機械に装着されている。私が手にしているグラスの水はあそこから注がれたものだろう。なるほどだから美味しかった訳だと納得した。
ウォーターサーバーの横には見慣れぬ機械が三台並んでいた。形をみても、どんな用途に使うのかさっぱりわからない。
染みひとつない真っ白な壁に囲まれている。蛍光灯の色は青白っぽい。ウォーターサーバのペットボトルは濃い青色をしている。清潔感があるというよりも、潔癖症であるといった方がニュアンスが近い。部屋の中心にいると、どこか心が冷えていくように感じられる。
手に持っていたグラスを椅子に備えられたホルダーに置いた。ショルダーバッグを肩から外し膝の上に乗せる。中からスマホを取り出し時間を確認してみると、寂れたビルの前にいた時から三十分以上経っていた。随分長い間アイマスクを被せられていたなとは思っていたが、まさかここまでとはと思い、時間に対する感覚が鈍ってきている気がした。
クロエからメッセージが届いていた。彼女は私からの返信がないと基本続けては送ってこない。だが逆に、私からの返信があれば必ず送り返してくくる。だから会話の終わりを決めるのはいつもクロエの方だった。なので今はメッセージを読むだけにして、返信するのは後にすることにした。
扉が開く音がして、私はスマホをいじっていた手を止めた。音のした方に顔を向けると、幼い顔立ちで黒のワイシャツを着た男の子がそこに居た。彼は私の視線に気付くと一直線に近付いて来て前に立った。
そして私は彼の手によって顎先を持ち上げられた。
「いい顔をしてるね、あげはちゃん。僕が君に素晴らしいタトゥーを刻んであげよう」
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