揚羽_21
クロエに私のアゲハ蝶を見てもらいたい。その気持は日を増すごとに強くなっていく。元々は誰にも見せる予定はなく、私の中だけで自己完結するはずだったアゲハ蝶。しかし今は、アゲハ蝶を宿す私をクロエには好きになってもらいたい。
クロエは私を美しいと言ってくれた。きっとあの時、クロエは私の中のアゲハ蝶を目撃したのだ。
施術を受けるのは、やはりあのスタジオ以外考えられない。サイトに掲載された写真のタトゥーを見ればわかる。このアーティスト以上に素晴らしいタトゥーを彫れる人はいない。果たしてそのアーティストがどんな人なのかわからない。それなのに信頼できてしまう程の説得力に溢れている。
けれどその腕で施術を受けるには、私も代替として『あれ』をしなければならない。あの日の光景は時間が過ぎればそれなりに記憶から薄れてはいる。もしかするといつしかすっかりと忘れて、殆ど思い出せなくなる日がくるのかもしれない。しかしそれは表面的なことで、胸の奥には傷が残り続けるだろう。
今だって、またやらなければならないのだと考えるとやはり怖い。
でもだからこそ、私にはアゲハ蝶が必要なのだとも思う。
自信の拠り所。私はそれが欲しかったのだ。
私とクロエはあの日気持ちが通じ合った。しかしクロエから届くメッセージはこれまでとさほど変わりはなく、「好き」や「愛してる」といった単語が直接使われることはなかった。でも私は、送られてくるメッセージに隠されている好意の気持ちをちゃんと受け取っている。だから返事を送る時は私もそれに倣って平常を装うが、その裏には沢山の想いが込められている。
そうやって、言葉では形容できない二人にしかわからないやり取りは、心が繋がっているという証であり、愛おしさと幸福感が胸の奥をうずかせた。
私は確かに一度自分を失いかけた。けれど今なら取り戻す事ができるだろう。
警笛と共にドアが開くと、電車を待っていた乗客が外から一気に雪崩込んできた。車内で立っていた人達が閉まっている奥のドアへ押しつぶされていく。
窓の外にはランドマークの複合施設が夜だというのにきらびやかにライトアップされている。ショッピングモールからの帰り客や仕事を終えた社会人たちの群れが車内に溢れかえる。
私が地元の駅から乗車した時は混んでいなかった為、座席に座ることができた。だからこの様子を我関せずと眺められる立場にいた。
ベルトに通したウエストポーチの前ポケットからスマホを取り出し、『碧色の時計盤』でターゲットの目星を付ける。この作業は電車内で済ませておく。そして今回はもし現地でイレギュラーが発生した場合は、欲を張らずに写真撮影は中止する。焦らず、翌日にまた挑戦しようと決めていた。そうすれば、前回のようなことは起きないはずだ。
ターゲットの目星をつけ終え、ウエストポーチにスマホを戻した。その際、ウエストポーチを強く握りしめ、中にあるものをしっかりと確認した。新しいスタンガン。前回壊されてしまった為、また注文した。二万五千円の出費はなかなかの痛手だったが、ここはぐっと我慢して購入に踏み切った。これは必要経費だ。こんな所でケチって失敗はしたくない。お金で済ませられるのであればそうするべきだ。アゲハ蝶を宿せるのであれば、今更気にすることではなかった。
新しいスタンガンは前回の反省を踏まえ、ストラップ付きのものを選んだ。ちゃんと対象に電流部分をあてることができれば気絶させられることはわかっている。だから気を付けなければならないのは、押しあてた時に決して気を緩めず、絶対に手を離さないことだ。
改札口を出て駅前に立った。これまで着ていた黒のパーカーはもうない。なので今日は紺のパーカーを着ていた。目立たなさでいえばそう変わりはないので構わない。
『碧色の時計盤』を起動し、詳細マップに切り替える。目星をつけていた赤い点を順にタップし、男たちの顔写真を切り替え確認していく。そして見た目と所在地を考慮し、一人の男に絞り込み移動を開始した。
コンビニで買物を終えた男はレジ袋を手に持って出てきた。私は男に見つからないよう慎重に様子を窺う。男はコンビニから少し離れると、空いている方の手をジーンズの後ろポケットに回し、スマホを取り出し電話をかけた。
男は見た目にそぐわぬ猫撫声でスマホの向こうに話しかけている。私はそれに少しおののき一瞬足が止まってしまったが、気を取り直して尾行を続けた。男の電話の内容は、これから帰宅するというものだった。通話の相手は男の子供だろうか、それとも妻や恋人だったりするのだろうか。普段からあのような声色を使っているのだろうか、などと疑問を持った。男にもそういった他人との関係性があるのだと思うと、スタンガンで気絶させて写真を撮ることに躊躇いを感じなくはない。
だが私は自分の為に、アゲハ蝶を宿すために男を犠牲にするのだ。だからただの赤い点であるターゲットのバックグラウンドなど気に留める必要はなく、存在しないと考えるべきだと意を決した。
男は角を曲がり路地に入った。私は見失わないように注意しつつ距離を詰めた。この道は街灯が少なく、中には壊れて明かりが点いていないものもあった。この辺りの住人は気にならないのだろうか。今の私にとっては身を隠すのに都合がいいが、普段だったらこんな暗い道は怖くて歩くのを遠慮したい。
私はウエストポーチからスタンガンを取り出し、ストラップを手首に巻いた。男が次の角を曲がった瞬間が勝負だと見定めた。
このタイミンを狙えと私は一気に駆けた。スタンガンのスイッチは既にONの状態だ。私は男の背中から脇腹狙って腕を突き出した。
ばちんと電気が弾ける。男は膝を崩したが、反射的に腕を伸ばすと路地の壁に寄りかかり、中腰の体勢になった。男のよろめく動作が早かったので、スタンガンは気絶させるのに十分な時間あて続けることが出来なかった。
私は焦らず状況を把握した。男は私に対してまだ背中を見せているのでチャンスは逃げていない。
男が中腰のまま首を回して背中を振り返ろうとした。私は急いでスタンガンを押しあてようとしたが、握る手が力みすぎていたのか、誤動作で電源を切ってしまった。くそっ、と舌打ちが自然と出たが、それが頭を切り替える良いきっかけとなり、私は男の脇腹に渾身の力を込めて右膝を打ち込んだ。
小さなうめき声を漏らしたのを聞いて、これならいけると私は右手を開きスタンガンを離すと、男の後頭部から髪の毛を掴み路地の壁に押し付けた。そうしてからストラップで右手首にぶら下がっていたスタンガンを左手で抜き取った。その際、右手がほんのわずかな時間男の髪の毛から離れたが、強く抵抗することはなかったので状況が変わることはなかった。
左手に持ち替えたスタンガンの電源を入れ、男の左下腹部に押しあてる。気絶するまで押し続ける。
ふとした拍子に髪の毛を掴んでいた右手が重くなり、耐え切れなくなって手を離すと男は地面に崩れ落ちた。
私は男を仰向けにしてから写真を撮り、『碧色の時計盤」から送信した。これで指示された通り三枚の写真を送り終えたことになる。私はスマホをウエストポーチに仕舞うと、すぐにこの場所から離れた。
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