揚羽_19
時間は傷を癒やしてくれなかった。あれからもう何日も経っているのに、気分は晴れない。気持ちを切り替えていかなければ仕方がないとわかってはいるのだが、なかなかうまいこと整理が出来ない。どうにかして以前の生活に戻ろうと、SNSを眺めたり、本を読んだり、音楽を聴きながら絵を描いたり、動画を視聴したりとしているのだが、どれも集中力が続かない。
私は胸の辺りにもやもやとしたものを常に抱え、時にそれは苛々となって表面化する。貧乏ゆすりが続き、指で机を鳴らし、一人悪態をつく。そしてそれらが収まると、酷い嫌悪感に襲われた。
原因ははっきりしている。けれど、その改善策が見つからない。
別のスタジオでタトゥーを彫ることはもう考えられなくなっていた。サイトの画像を見れば、このアーティスト以上のアゲハ蝶を彫る技術を持つ者など存在しないのが明白だった。私は、このアーティストにアゲハ蝶を宿してもらいたい。しかし、その願いを叶える為には『あれ』をしなければならない。
そのことを考えると私の体は強張った。もう二度とあんな思いはしたくない。
私の中で溢れかえっている激しい葛藤が、頭をおかしくさせそうだった。
あの日以来もうずっと無視しているというのに、クロエは毎日「おはよう」と「おやすみ」のメッセージを送ってきてくれていた。
しかし私はどうしても返事を返す気になれずにいた。だがいつまでも黙ったままでいることに罪悪感があり、そしてそのことを我慢することがついに辛くなり始めていた。そして私はようやく「おはよう」と返事を返した。
するとクロエからすぐにメッセージが届いた。
――揚羽からのメッセージがとても嬉しい。もっとあなたの声が聞きたい
そうして私とクロエはまたメッセージのやり取りをするようになった。
私の地元には私立の高校がある。その為ここは最寄り駅として使われている。土曜日のお昼すぎ、午前中に授業があったらしく、これから帰宅する学生服の男女が多く目についた。お喋りをしながら改札口を抜ける人。駅前のコンビニでお菓子やジュースを買い店先で広げている集団など、その騒がしさに気が滅入る。なので自分が電車を利用する時はなるべく時間が重ならないようにしているのだが、今日ばかりはそうゆう訳にはいかなかった。
私は駅前の街灯の下に立ち、両手を胸の前で組んでいた。そして改札口から目を離さず、心を妙にそわそわとさせて、彼女はいつ現れるだろうかと心待ちにしていた。
改札口に飲まれて行く学生服の集団の中、淡いピンク色のショートファーコートを着た少女が目に飛び込んできた。手には青色の紙袋をぶら下げている。
私達は視線をぶつけ合うと、お互いが駆け足で近付いた。
「なんだかとても久し振りね」
クロエはそう言って、紙袋を持っていない左手で私の手を握り、自然な手付きで指を絡ませた。
「わたしのわがまま、聞いてくれてありがとう」
私はその言葉を聞いて、それは違うと首を振り否定した。
「ううん。私はクロエが会いたいと言ってくれて、嬉しかった」
揚羽の家に遊びに行きたいとクロエからメッセージが届いたのは昨日の夜のことだった。私は何度もそのメッセージを読み直し、書かれている内容が間違いではないか確認した。
クロエに「おはよう」のメッセージを返してからは、以前にも増して頻繁にやり取りをするようになった。起きている間も寝ている間も一日中メッセージの通知音を気にしてしまう。
私は自分の葛藤が文面に出ないよう気を付けていた。クロエと交わっている間、一時的ではあるが嫌な思い出を忘れることができるから。しかしクロエはどこかでそれを察し、直接言葉にはしなかったが、私を気遣うよう優しく接してくれた。私はクロエからのメッセージによって癒やされ、救われたような気分になっていた。こうしたクロエとのやり取りがなければ私はたぶん発狂していた。
だからクロエから私に会いたいと言ってくれたことが本当に嬉しく、断る理由はなかった。
「どうしたの? どこか変かな?」
惚けていた私に、クロエが首をかしげて訊いた。
「えっ、あっ、ごめん。なんでもないよ、うん」
実際にクロエと会ったのはまだ三回目だというのに、既にもうかなり親しい存在だと感じている自分に驚いている。きっと沢山のメッセージの積み重ねが距離を縮めさせたのだろう。けれどこの感情は私が一方的に抱いているものかもしれず、それをぶつけられてもクロエが困るだけだ。だから私はこのことを悟られないよう表情を作る努力をした。
私達は手を繋ぎながらお喋りをして家までの道を一緒に歩いた。私の心臓の高鳴りが、この手を通じて伝わってしまわないかと心配でならなかった。
玄関のドアを開けると、奥からお母さんが顔を出した。家を出る前、友達が遊びに来るので迎えに行ってくると声をかけていた。
「あらっ、いらっしゃい」
いつもより声が少し高いように聞こえ、それが少しおかしい。
「おじゃまします」
そう言ってクロエは頭を下げた後、手に持っていた青い紙袋をお母さんに差し出した。お母さんはまあまあと言いながら受け取り、ゆっくりしていってねとクロエに伝えてから奥の部屋に戻っていった。
「優しそうなお母さんね」
クロエが私の腕を掴んで言った。
「そうかな? ありがとう」
私が答えると、ええ本当にと、クロエは小さく呟いた。
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