揚羽_18

 スマホが何度も鳴っていたように思う。メッセージの通知か、それとも電話だっただろうか。けれど私はすべて無視していた。誰とも話したい気分ではなかったし、文字だって読みたくない。だからただひたすら布団に包まり、夢の世界に身を隠した。だがその夢の中も、居心地がいいものだけとは限らなかった。時には悪夢も混じっていた。しかし今はそれだって現実ではなく夢なのだと思ってしまえば、ましな気分になるのだった。


 三枚目の写真を撮ることに失敗してからまる一日を布団の中で過ごした。そして朝方、窓から差し込む太陽の光により部屋の中が明るくなった頃、私はようやく起き上がろうという気持ちが芽生えた。これ以上長い時間布団の中にいると、今度は鬱々とした気分に押しつぶされそうだった。


 喉の渇きが気になる。私は立ち上がり部屋を出ると、冷蔵庫へ向かった。冷蔵庫を開き、ペットボトルの水を取り出す。その際、冷蔵庫の奥の方にラップがかかったコロッケが目に入った。恐らく、昨日私の夕食に出される予定だったものだ。昨日は結局何も口にすることはなかった。お母さんは私の具合が悪いと判断したのだろう、ご飯の時間になっても呼びに来なかった。しかし今も食べたい気分にはならなかったので、コロッケはそのままにして冷蔵庫の扉を閉めた。

 部屋に戻り、PCの前に座る。スリープ状態なのでモニタには何も映っていない。水を飲んでも気分はあまりすっきりしない。体の力を抜いて、背もたれに寄り掛かる。

 SNSを見る気分じゃない。絵を描く気分でもない。本を読む気分にもなれない。何かをする気になれなかった。だったらまた横になろうかとも考えるが、ベッドまで移動することを体が拒否した。とにかく何もかもが面倒くさい。

 私は時間を潰す為に瞼を閉じた。

 工場のシャッター前で自分の吐瀉物の上で気を失っていた。それが何だかとても昔のように思える。


 スマホが鳴る。ベッドで寝ている時も鳴っていた。もう何度目だろう。その音に反応して瞼が開く。スマホはモニタの横に立て掛けて置いてある為、画面に表示された通知が目に入った。

 クロエから「おはよう」のメッセージ。

 スマホの時計ではもう午後だ。どうやら私は椅子の上で寝ていたらしい。そしてこのクロエからのメッセージも、いま届いたものではなく、朝のものがまだ開かれていなかったので、再通知をしめす音だったようだ。

 返事をしようかなと、少しだけその文面を考えてみるが何も思い浮かばない。それでもなにかメッセージを返した方がいいかもしれないと思うが、しかし一度それをしてしまえば、メッセージのやり取りが始まってしまう可能性がある。それを思うと、やはりこのまま無視していようと決めた。

 スマホの画面には、クロエからのメッセージだけではなく、電話の不在通知も表示されていた。かけてきたのは京子だった。

 京子は高校での同級生だった。特別親しい仲でもなかったが、私の連絡先に入っている数少ない人間だ。そういえば彼女からの電話はつい最近もあったように思う。もっとも、前回も今回と同じように、不在着信が残っていたという感じだった。あれは確かいつだったかと、記憶を漁ってみる。ああ、そうだ、京子から前に電話があったのは、私が二枚目の写真を送った日の翌日だった。私はその日、写真を撮った時の興奮でなかなか寝付けず、朝になってからようやく深く眠りにつけたのだ。その間に京子から電話があったのだが、寝入っていた私はその着信音に気付かず、夜に目が覚めてから知ったのだった。あの時も同じような時間帯に京子は私に電話をかけていた。どうも授業時間の最中にわざわざやっているみたいだ。ただ京子から着信があろうとも、正直私には話したいことなどまったくないので、前回も今回と同じように、見ない振りをしていた。


 だらだら飲んでいたペットボトルの水が空になった。シャワーでも浴びるかなと、私は着替えの洋服とバスタオルを持って部屋を出た。浴室に向かう途中、後ろからお母さんが声を掛けてきた。

「あらっ、起きれるようになった」

「あー、うん。まぁ」

「夜遊びで風邪でも引いたのかしら? ご飯どうする? 大丈夫なら用意するけど」

「うん。お腹は別に、空いてないかな」

「夜は食べれそう?」

「うん、それは食べる」

 話を終えると、お母さんはまた居間へ体を引っ込めた。


 脱衣所で裸になり、浴室に入った。昨日は帰宅してからシャワーをさっと浴びただけだった。今日は浴槽にも入りたいと思っていたので、まず追い焚きのスイッチを押しておいた。

 蛇口を撚ると、シャワーヘッドからお湯が雨のように頭を濡らす。髪の毛全体を軽く揉んでから、前髪をかきあげた。浴室に備え付けられた鏡が、私の頭頂から腿までをうつす。体の何処を探しても傷はない。

 右手が左下腹部をさする。アゲハ蝶が宿る場所。その場所の肉を掴むと痛い。

 どうして私はこんなことをしているのだろう。私は何をやめるべきなのだろうかと、自身に問いかける。タトゥーを彫りたいのなら、そこらにある普通のスタジオへ行ってお金を払えばいい。それが至極まっとうな考え方だ。年齢のことや親の承認書の問題が残るが、誤魔化しや頼み込み等、方法は色々あるはずだ。例えば、趣味でタトゥーを彫ってくれる個人がいれば問題は軽く片付く。しかしそんな人や場所が本当にあるのだろうか。スタジオを探す時、さんざん検索したはずだ。

 肉を掴んでいた手を離す。

 諦めるべきなのだろうか。タトゥーを彫ることをやめてしまえば、今の悩みはすべて片付くのだろうか。

 そもそも私はどうしてタトゥーを欲しがったのか。それがあれば、何かが変わると思っていたのだろうか。きっかけは単純だった。好きなバンドのボーカルがタトゥーをしていたから、私も同じものがほしいなと思った。すると私の中で自然にアゲハ蝶のイメージが湧き上がってきたのだ。

 そしてそのデザインを私は自分で描き始めた。頭に浮かんだモチーフを形あるデザインに落とし込む作業はとても楽しいものだった。このアゲハ蝶が私の左下腹部に宿った姿を想像すると高揚感があったのだ。あの時に感じたあの気持を手放すのは嫌だ。

 

 鏡を見つめる。そこには傷もなければタトゥーもない私の体がある。まるで他人のように感じられる。でもこれは、紛れもなく自分自身の裸だ。

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