揚羽_17

 気を失ってから、どれくらい時間が経ったのだろう。薄く青い空が目前に広がっている。夜は明けたみたいだが、朝はまだ来ていないといったところか。

 私は強引に意識を起こして、立ち上がらなければと思った。このままここで寝込んでいては、工場に出勤してきた人達に見つかってしまう。私は自分の吐瀉物を見ないように、仰向けから四つん這いの体勢になった。頭がくらくらするし、気持ちが悪い。けれど早く立ち去らなければと、不格好に立ち上がった。しかし足元がふらつき、シャッターに手を付くとがしゃんと大きな音を鳴らした。私は一度膝を曲げて屈むことにした。

 ゆっくり、ゆっくりでいいから息をして。落ち着きを取り戻せば大丈夫。目を閉じて、自分を励まし意識を整える。


 立ち上がれるようになると、自分が何をしなければならないのかにも注意がいくようになった。

 もう使い物にならないスタンガンが地面に転がっている。ゴミになってしまったが、ここに置いていては誰かに拾われて足を辿られる可能性もある。細かい破片まで拾うのはちょっと大変なので諦めるが、形として残っているものは持ち帰らなければならない。ウエストポーチを開き、壊れたスタンガンを収めた。

 私は着ている黒のパーカーを脱ぎ、長袖のシャツ一枚になった。もうこのパーカーは汚れが酷くて着ていられない。外側に砂利の砂が付着している。

 顔がべたべたしていて気持ち悪かったので、パーカーの内側でごしごしと拭いた。すると顔を拭いたせいか、パーカーからはつんとした臭いがするようになってしまった。このまま持っていたら、また嘔吐してしまうかもしれない。

 この黒のパーカーには少しだけ愛着があった。けれどもう、洗濯しても使えそうにない。ならばすぐに捨ててしまおう。持って帰るのも正直辛い。

 私は工場内にある、あの男が向かっていたゴミ箱にパーカーを丸めて捨てた。男の仕事場ではあるが、わざわざゴミ箱を覗いて取り出すようなことはしないだろう。それにもし男がパーカーを見つけたとしても、だからといってこれを警察に届けて話したりもしないだろうなと思った。ただもしかすると、武勇伝として周りに話すことはあるかもしれない。しかし、私を探し出すといった行動は起こさないだろうと、何となくではあるが確信があった。なので私は、スタンガンとは違い、パーカーはここで捨てていくことにした。


 自分の体全体を確認してみるが、傷や血の跡は見当たらない。軽く叩いてみても、特に骨折などもしていないようだ。ただ、脇腹を執拗に殴られていたので腹筋に鈍い痛みが残っている。また、嘔吐したせいで背筋の辺りがぴんと張っている。

 外見上は何も問題ない。しかし内部は継続的な痛みが続いている。この感覚が残っている間、どうにも男の事が忘れられそうにない。

 男は暴力に慣れている。それも、相手に自分を刻みつけるような、いやらしいやり方だった。


 不恰好な足取りではあったが、駅まで戻ってくることが出来た。しかし改札口のあった場所にはシャッターが降ろされており、ホームに向かう道が封鎖されていた。空の色合い的に、終電の時刻がとっくに過ぎていることは分かっていたが、どうやら始発の方もまだだったらしい。

 とにかく家に帰りたい一心で歩いてきたので、スマホで時間を確認するということもしてないかった。その事に気付いた私は、ウエストポーチからスマホを取り出し、時間を確認した後に、電車の乗り換えアプリで始発の時間を調べた。電車が来るまで、まだだいぶ時間がある。

 駅周辺には人の息遣いを感じることができるが、喋っているという感じではないので静かだ。地面を歩いている鳥の群れの鳴き声の方が目立つ。

 さてどうしたものかと辺りを見渡す。始発が来るまで、このまま突っ立っていようか。しかしどうにも、シャツ一枚では肌寒さを感じる。それに座りたい気分だ。幸い駅前のファストフード店が開いていたので、結局私はこの街でもお世話になることに決めた。

 

 カウンターでアイスコーヒーとパンケーキを店員に注文した。トレイを持って、なるべく奥の方で空いている席を探した。店内は思っていたよりも人がいて、本を読んでいたり、スマホの画面を見詰めていたりと様々だった。たぶんみな私と同じように、始発の電車を待っているのだろう。

 空いている席に腰を落ち着けた私は、テーブルにトレイを置いた。注文した品が並んでいる。しかしパンケーキを前にして、食欲があまり湧いてこない。胃の中は空っぽだし、お腹が空いているはずだと思って注文したのだが、まったく食べれる気がしない。

 代わりにアイスコーヒーに手を伸ばし飲もうとした。そこではたと気付く。そうだ、嘔吐した後、まだ一度も口をゆすいでいなかった。それに顔も洗っていないから、酷いものになっているはずだ。この顔を店員に見られたのだと思うと、恥ずかしさと情けなさ襲われ、いてもたってもいられなくなった。

 洗面所はどこだと、慌てて立ち上がり、辺りを見渡す。洗面所のマークを発見し、私は駆け込んだ。

 個室に入り鍵を締めた。中は綺麗で、意外とオシャレな感じだった。奥がトイレの扉、手前に洗面台がある。

 私は洗面台の前に立ったが、顔を上げて鏡を見る勇気がなかった。この顔を店員以外にも、工場から駅までの道中ですれ違った人、店内に座っている客などにも見られたはずだ。悔しさのようなものが込み上げてくる。そして強烈な恥ずかしさ。私は鏡を見ないように口の中を水でゆすぎ、そのまま顔を洗った。

 洗面台の横に備えられたペーパーで顔の水を拭った。私は状況を確認する為に、意を決して鏡と向き合った。

 鏡に顔を近づけ、首を左右に動かしてよく見てみる。体と同じように、顔にも腫れはなかった。先程顔を拭いたペーパーに血はついていなかったので、たぶん鼻血も出していない。こうしてみると、普段と変わる箇所は殆ど無い。しいていうなら、瞼の下が少し窪んでおり、唇の皮が剥がれている程度だ。この結果に安堵したからか、涙腺が緩んで、一瞬にして目玉が充血し真っ赤になった。

 私は洗面台に腕を乗せ顔を埋めた。そして声がもれないよう、必死に口を閉じた。



 帰宅してからすぐにシャワーを浴びた。冷えた体に温かいお湯がじんわりと効いていく。軽く頭を乾かし、布団に潜り込んだ。

 私は長く眠ってしまいたかった。夢の中にずっと引きこもっていたかった。しかし、強烈な吐き気と頭痛が私を現実に引き戻し、一時間ごとに目が覚めてしまった。その度に身を起こし、トイレへ駆け込む。便座の上で時間を潰して、また横になれるかなと思えるようになると、布団に戻ることができた。

 私は何度かそれを繰り返した後、ようやく深い眠りについた。

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