揚羽_16

 これだと決めている黒のパーカーを着ることが、一つの儀式にもなっていた。ウエストポーチをベルトに通し、スタンガンを収める。

 これで最後だ。三枚目の写真を送って、私はこの左下腹部にアゲハ蝶を宿す。ここまで頑張ってきたんだ。だから今日だって必ず成功させる。

 私は自分に気合を入れて家を出た。


 今回は街に着いたらすぐに行動出来るよう、電車の中である程度ターゲットを絞っておくことにした。前回、時間潰しにファストフード店に入ったのはやはり失敗だった。同じことは繰り返さない。だから家を出る時間も遅めにしていた。

 また、反省点としてはもう一つある。行動を起こす際は、本当に周りに誰もいないことに確信を持ってからにする。前回の失敗により、クロエと出会えたことは結果的に良かったのかもしれない。喫茶店で遊んで以降も毎日メッセージのやり取りをしており、私の生活にちょっとした幸福感をもたらしてくれた。だがしかし、他人に目撃されることはやはりあってはならないのだ。あれがクロエだったから良かったものの、もしそうではなかったらと考えると恐ろしくなる。

 ここまで二回とも上手く成功できた。クロエとも友達になることができた。それらを考えると、今の私には好機の風が吹いているのかもしれない。だからこそ、気を緩めちゃいけない。慎重であることを忘れてはいけない。


 もうすぐ目的の駅に着く。

 私は少し早めではあるが、クロエへ「おやすみ」のメッセージを送った。「おはようと」と「おやすみ」を送り合うことが、最近の日課にもなっている。彼女は今頃、いつものように夜の散歩中を楽しんでいるはずだ。その最中に、私からのメッセージに気付いてくれるだろう。


 駅前の風景には既視感があった。ファストフード店が見える。高い建物はなく、見上げれば夜空が一面に広がっている。この街は、前回選んだあの街とそっくりだ。あの時と違いがあるとすれば、今日の夜空は雲が多く、月は姿を隠していた。

 『碧色の時計盤』で目星をつけた赤い点を確認しながら、その目的地まで向かう。駅から離れていくと、だんだんと明かりが少なくなる。街灯を頼りに道を進んでいく。目的の場所に向かう途中、人とすれ違うことが何度かあった。その度に私は目を伏せ、意識的に呼吸をすることで気分を落ち着かせた。

 事を起こす前のこの緊張は、たとえ三回目だとしても慣れることはない。でもこれは、私がまだ正常である証だ。もしこの気持を失ってしまえば、私はただ快楽として男を気絶させていることになってしまう。違うのだ。私はタトゥーの為に仕方なく、指示されたから実行しているだけなのだ。

 そんなことを考えている内に男を見つけた。『碧色の時計盤』に表示された画像と男の顔を見比べる。あれで間違いない。

 しかし問題があった。ターゲットに選んだ男は、女性と一緒に歩いていた。肩を並べ、しっかりと手を握り合っている。男の右手は女性の左手に、反対の手はコンビニの袋。

 『碧色の時計盤』に表示されるのは、ターゲット候補である赤い点と、私自身の現在地である青い点だけだ。それ以外の不特定多数の人間は表示されない。だから実際に目にした時、赤い点の横に人がいることは不思議ではない。

 しかしこれまで二回とも、上手く一人のターゲットを一発で選んでこれただけに、落胆があった。一応今回も一人きりだと思われる男を選んだのだが、あてが外れたということだ。

 ターゲットを変更しなければならない。私は側にあった電柱にもたれ、膝を曲げた。『碧色の時計盤』で別の赤い点を探す前に、もう一度だけ男の姿を確認しておこうと目を向けた。

 二人は指を絡ませ、顔を向き合い歩いていく。女性は足が悪いのか、引きずっているように見える。男はそれを気遣うように歩幅を合わせているみたいだ。しばらく眺めていると、角を曲がり見えなくなった。


 落胆する気持ちは残っているけれど、こうしたこともありえるだろうと考えてはいた。なので電車の中で目星を付けていたのは一人だけではない。別の候補だってちゃんと立てていたのだ。私は次のターゲットの現在位置を確認する為、『碧色の時計盤』を操作する。

 だが、いくつか候補としていた赤い点は詳細マップから既に消えていた。この街から離れてしまったか、もしくは自宅に帰ってしまったか。アプリの仕様として、赤い点は自分の家に戻ると消えるようになっているらしかった。

 私は思わず頭を抱えてしまった。やる気満々で家を出て来たのに、こんな挫折の仕方をするなんて、ショックが大きい。今日はもう中止にして、家に戻らなければならないのか。しかしここまで来ておいて辞めるのは正直嫌だ。今日で最後と決めたからにはやり切ってしまいたい。

 ああ、どうしようと悩みながらマップを眺めていると、突然近くに赤い点が浮かんだ。これはチャンスかもしれないと、私は赤い点をタップして顔写真を確認した。強そうにも弱そうにも見えない、ターゲットにするには判断に迷う男だった。もしこの画像を確認したのが電車の中だったら、候補から外していたかもしれない。しかし今、この男に頼るしかないと考えた場合は、どうだろうか。私は頭の中で何度かシミュレートし、結論を出す前に、まずはいったん実物を確認してみようと決めた。


 工場のシャター前には無人のトラックがいくつも並んおり、身を隠すのにはもってこいだった。ただ、地面は砂利になっているので、歩く時には注意が必要になる。街灯の明かりは工場の敷地まで届いておらず、シャッター上部にある蛍光灯が唯一のもので、それはその真下しか照らせていない。

 赤い点の男は一人だった。仕事を終えたばかりなのか、閉鎖したシャッターの前で、缶コーヒーと煙草を手に立っている。

 場所的には都合が良い。男の見た目も、そこまで強そうではない。出来るだろうかと、私は自問しする。できそうだ、できる、やってやる。私はそっと息を吐き、男に見つからないように屈みながらトラックの陰に移動した。三枚目の写真は、この男に決めた。

 スマホからスタンガンに持ち替える。私は目を凝らし、男の一挙一動に注視する。タイミングが重要だ。男が油断した時、気を抜いた時、スタンガンで一気に攻める。大丈夫、上手くいく。シチュエーションとしては、一枚目の時と似ている。だから落ち着いて、しっかりと状況を把握するんだと、心の中で唱える。

 男は吸い終えた煙草を地面に捨てると、その場所を足で踏み均した。砂利の音が少し耳障りで、集中力が乱される。私は左下腹部を押さえ、気持ちを整える。スタンガンを持つ手に力を込める。

 そろそろ帰る気になったのか、男は缶コーヒーを持ったまま、背中を向けた。その視線の先にはゴミ箱が見える。チャンスはここだ。空き缶をゴミ箱に入れる瞬間。私はスタンガンのスイッチを入れ、息を殺した。

 男の足取りは遅い。私の心臓はばくばくしている。背中から一撃。狙うは右の脇腹。成功するイメージを持つことが大切だ。もう少し、そう、あともう少しだ。

 今だというタイミングで、私はトラックの陰から飛び出した。

 背中から男の右脇腹を目掛けてスタンガンを突き出した。しかしその時、男が突然振り返った。私が狙っていた脇腹の位置もずれてしまう。だが、動き出したこの手をもう止めることが出来ない。

「あつっ」

 私の声が駐車場に響く。ばちんと大きな音が鳴る。私の手の甲に、男が持っていたコーヒーが飛び散る。まだ空き缶にはなっていなかったのだ。驚いた拍子にスタンガンを握っていた手が開いてしまった。まずい、と私は顔を下げスタンガンの行方を追う。砂利の上に落ちる。

 

 瞬間、視界がブレた。


 スタンガンだけではなく、私の頬も砂利に押し付けられていた。そして、平手を打たれる。顔面が熱さで腫れ上がる。耳の奥がきいんと響く。

 男は私を仰向けにすると、お腹の上にまたがった。そして、もう一度平手が飛んできた。私を見下ろす男の顔は歪んでいる。呼吸するのが辛い。顔がじんじんする。混乱する頭の中、何が起こっているのか理解しようと努める。

 

 ああ……私は失敗したのだ。

 視界には、無言の男と、曇った空だけがあった。


 馬乗りになった状態で、男はじっと黙っていた。実際はどうなのかわからないが、もう随分長い時間が経ったような気がする。ようやく私も普通の呼吸に戻り、今の状況を整理することができるようになった。

 スタンガンの当たりが浅かったのだ。男は私が背中に付けた直後に足音に気付き、振り向いた。そして自身の危険を察知して、手に持っていた缶コーヒーの中身を私にぶちまけた。男の方にも少しは電流が流れたと思うが、気絶する程ではなかったのだろう。怯まずに私の髪の毛を掴み地面に押し倒すと、平手を打ったのだ。

 状況は理解したが、何も解決していない。どうしようかと、不安が込み上げてくる。どうすればいいのだろうかと、胸が押し潰されていく。

 つばを飲み込んだその時、男に脇腹を殴りつけられた。私は悶絶し、自分でも聞いたことがないような声が漏れた。そして男は何度も執拗に脇腹を殴り続けた。

 馬乗りになった男。片方の手は私の顔を砂利に押し付け、もう一方の手で脇腹を殴り続ける。

(こわい。こわい。こわい。こわい)

 私はあまりの恐怖から、いつの間にか涙を流していた。

(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)

 自分自身が犯した罪に罰せられる。何度も謝罪の言葉を唱える。しかし実際に口から吐き出されるのは、ひどく濁った声だった。

 男は手を緩めない。顔への平手は最初の二度だけで、その後はずっと脇腹を殴り続けている。そして私は吐き気に襲われ、我慢できずに地面の砂利を汚した。

「あんた、誰の差金でこんなことをしたんだ」

 ようやく男は手を止め口を開いた。しかし私はぐったりとしており、返事をする気力はなかった。

 吐瀉物と涙と砂利が頬を濡らしている。

「誰に何を言われたのが知らないけどな、もしこれがあの女の依頼だったとしたら、あんたには関係のない話だ。いいか、これは俺達の問題だ。他人が顔を突っ込むもんじゃない」

 ぼんやりとした頭の中に声が響いている。男が発している言葉の真意がわからない。私はただ、早くこれが終わって下さいと願っている。


 男が立ち上がり、私から離れた。終わったのだろうか。しかし男はスタンガンを手にして、すぐに戻ってきた。私がネットで注文し、この男に使おうとしていたスタンガン。ああ、そうか、三回目でついに私もそのスタンガンの威力を知ることになるのか。どれくらい痛いのだろう。二人の男はすぐに気絶してしまったが、その後一体どうなったのだろうか。ちゃんと目覚められただろうか。あてる部分に注意すれば死ぬことはないとネットに書かれていたが、実際はどうなのだろう。この男は、私のどこにスタンガンをあてるだろうか。

 逃げ出す気力も体力も残っていなかった。もう諦めるしかないと思った。

 しかし男はスタンガンを私に向けることはなく、地面に叩きつけた。破損して弾け飛んだプラスチックが私の顔に当たった。

 男はふんと私の脇腹を最後に蹴りつけ、姿を消した。しばらく待ってみても、もう戻ってくることはなかった。


 ようやく終わったのだ。そう思うと私は安堵し、気を失った。

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