揚羽_15
あの事を知りたいとその質問を聞いた時、私は胸に痛みを感じた。そして真っ先に、言いたくないと拒絶反応を示した。
クロエから目を逸してしまう。気持ちを改め、これから仲良くしていくぞと決めた矢先ではあるが、さすがにあれのことを言葉にするのは抵抗がある。
タトゥーを彫ってもらう為に気絶した男の写真を送っていると正直に話すことは、私は犯罪を犯していますと告白するようなものだ。また例えば言い訳として、スタンガンの威力を試してみたかったんだ等と言ってしまえば、私はただの危ない女だ。どう言い繕うにしても犯罪方面の匂いを消すことができず、自分の言語能力が高くないことを恨んでしまう。
そもそも、あれを目撃された夜からクロエには似たような事を訊かれており、興味を持っていることはわかっていたはずだ。それなのに何も対策を考えてこなかった自分の甘さに後悔する。
私が左下腹部にアゲハ蝶を宿すことは、クロエには勿論、両親にだって言うつもりはない。だからこのことに関連する一連の出来事は、すべて私の胸の内だけに閉じ込めておきたかった。
「揚羽、そんなに難しい顔をしないで。わたし、困らせたかった訳じゃないの。言いたくないなら、ごめんね、それでいいから」
「あっ……うん。私も、ごめん」
クロエが私の手をそっと両手で包んだ。
「仲良しにだって、秘密はあるものだよね」
もうこの話題には触れないよという宣言なのだろうか。私はそれを聞いて安堵した。
「でも、昨日は学校を遅刻しないで行けた? 一昨日夜は遅かったでしょう」
私は言葉に詰まった。恐らくクロエとしては話題を変えようと気を効かせてくれたのかもしれないが、私にとってこの質問は、さっきまでの話題と同じように後ろめたさがあり、答え辛かった。
クロエにだって悪気がある訳ではないだろう。それはそうだ。私達の年代にとって、学校のことを聞くのは普通だ。だって一日の半分以上が学校内での生活になるのだから、話す内容も多いはずなのだ。けれど私はそうじゃない。どうもクロエは私の地雷に踏み込むのが得意なようだ。
けれどあのこととは違い、学校の件についてはちゃんと答えた方がいい気がする。一つ嘘を吐いても、質問が続けばまた新しい嘘で凌がなければならなくなる。そんなやり取りが重なれば、いつか嘘が破綻することは分かりきっている。そして何より、私が疲れる。性質としてはタトゥーの件と違い、別に知られても問題ないといえば問題ないのだ。犯罪を犯している訳じゃない。ただちょっと、この話を聞いた相手がどう受け取るかなと、不安になるだけだ。
「えっとね……私、学校には行ってないの。だから遅刻の心配もなかったの」
口にしてしまえば案外楽になるものだと知った。私自身、もう少しダメージを受けるのかなと思っていたが、そこまででもなかった。なので私は、冷静な気分でクロエの反応を待つことが出来た。
「そうだったの! じゃぁ、わたしとおんなじね!」
クロエは表情をぱっと明るくさせ、両手で握っていた手を揺すった。
「クロエも学校に行ってないの?」
「うん、そうよ。だってつまらなじゃない」
「まぁ……そうだよね」
曖昧な表情をとって同意した。私は高校中退であるが、クロエはまだ中学生なので義務教育であるはずだ。つまり登校拒否をしているということなのだろうか。
エスプレッソのお代わりを聞かれたので、次は砂糖をなしでとお願いした。クロエはそのことに少し驚いていたが、わかった待っててねと立ち上がり、カウンターへと向かった。私はその後ろ姿を目で追いかけた。カウンターに立つ灰色の髪をした男性は父親だと言っていた。クロエと見比べて似ているかといえば、あまりそうは見えない。しかし二人のやり取りを眺めていると、なるほどたしかに親子なんだろうなと思える。
学校へ言っていない娘を持った親の気持ちはどんなものなのだろうか。クロエのお父さんは何も言わないのだろうか。そんなことを考えていると、彼と目があった。微笑みを向けられたので、私は軽く頭を下げた。
はい、どうぞと、カップが乗ったソーサーが再び私の前の置かれた。カウンターから戻ってきたクロエは椅子に座ると佇まいを直し、また話をする体勢になった。
「わたし、揚羽のことをもっとたくさん知りたいの。ねぇ、話してくれるかな」
そう言われても、私は自分の何を話せばいいのかわからなかった。私はそう面白い人間ではない。
「うーん、話してと言われても難しいな。クロエから話題を振ってくれると助かるんだけど」
「そう? なら揚羽が学校に行かなくなった理由、もうちょっと知りたいな」
「もうちょっと、ねぇ……」
この件に関してはまだそれなりの抵抗感を持っていたはずだが、クロエも同じだという事を聞いてしまい、だったらもう別にそんなに気にしなくてもいいかなという気分になっていた。とはいえ、口に出すのは初めてだし、あまり深く考えようともしてこなかった。なので私は自分の考えをある程度まとめながら喋らなければならなかった。
「一年間は学校に通っていたの。だけど、そうだな、行きたくないなって理由がいくつもあったんだけど、一番はたぶん通学が嫌だったからかな。朝決まった時間に起きて電車に乗るって行動がね、とても苦痛だった。それは体力的にも、精神的にもね。だからこれを繰り返してる時に、突然ふと思ったの。こんなことしなくても、別の方法があるんじゃないかって。だって、勉強なら家でも出来る。移動時間なんかは、好きなことをする時間にあてた方がいい。朝起きる時間だって、他人に指定されるんじゃなくて、自分の体に合わせて調整した方が有意義だって思ったの」
今になって考えてみると、こうしたことが沢山積み重なって、私は学校生活に馴染むことはおろか、拒絶する域まで達してしまったのだろう。たぶんこれは本音に近い。お父さんとお母さんに学校を辞めたいと伝えた時は、もっと曖昧に理由を濁していた。ただその時にはもう既に登校拒否状態が長く続いていたので、割とすんなり受け入れてくれて、退学を認めてくれた。言い争いなども、まったく発生しなかった。
「なんだが、わたしとおんなじ感じがするね。それで、好きなことをするって言っていたけど、それは何なの? まさか……あれのことじゃないよね」
クロエは悪戯な表情をして最後の言葉を私に向けた。
「違う違う。あれはそんなんじゃないから。絶対に違うから」
もう話題にしないと言っていたのに、ここにきてクロエがさらりと持ち出してくる。素直な子だと思っていたが、案外したたかで、地雷を踏みに来ていたのはわざとなのかもしれないと思いはじめてきた。
けれど、クロエと最初に出会った頃のような、嫌な不安を感じることはなかった。それは今日ここまで一緒に過ごしてきて、私がクロエの事を気に入ってしまっているからだろう。この子と友達になりたいと、自分から思うだなんて不思議だった。そのあたりはクロエにしてやられたと思ってしまう。たぶんクロエは、そうやって接し、その気にさせるのが上手い子なのだ。
しかし好きなことか。なんと返事をしようか考えてしまう。気絶した男の写真を集めるのが趣味な女だと思われるのは、さすがに嫌だ。
だが正直に絵を描くのが趣味だと伝えるのも恥ずかしかった。このことについて、ネットではハンドルネームを使い公表している形にはなるが、リアルで公言したことはない。例えば、お母さんが部屋に入ろうものなら私は慌ててモニタの表示を変え、ペンタブも隠してしまう。まあただ、お母さんなら恐らく察しているだろうと思う。でも、絵を描いているのねと直接言われたことはまだない。たぶん私が意識的に絵を描くことについて避けていることを感じ取り、見ない振りをしてくれているのだろう。
わかっていたことではあるが、私は誰に対して話せることが少なすぎる。たぶんこれは自己防衛本能の一種だ。この性質はSNSの使い方にも表れている。私が書き込むのは大体がテレビや漫画の感想で、ほとんど独り言のように使っている。自分から誰かに言葉を飛ばすことはなく、時折コメントを付けられた場合も、さらりと返して終わりといった具合だ。
クロエに対しt、早く返事を返さなければと思う。場の空気が持たないし、何より目の前の彼女を退屈にさせてしまう。だが言うべきことが何も思い浮かばす、焦る。
沈黙を崩したのはスマホの着信音だった。その音にびっくりし、私のスマホからだろうかとショルダーバックに手を伸ばす。しかしそれよりも早くクロエが自身の赤いポシエットからスマホを取り出し操作したので、私はそれが自分のものではないとわかった。
冷静に考えてみれば、私のスマホが電話として使われることは基本ないので、そんなに慌てる必要もなかった。
「ごめんなさい、千佳から電話が来ちゃった」
クロエは私に断ると席を立ち、スマホを耳にあてながら喫茶店の外に出た。木製の扉を開いた時に鳴る、ちりんという音が店内に響く。
私はクロエが運んでくれたエスプレッソを飲んで、一息吐いた。
急に静かになる。高校を辞めて以来、両親以外と顔を合わせて長い時間おしゃべりをするのはとても久し振りだった。楽しくはあるが、やはり疲れるものだなと思う。
なかなかクロエは戻って来なかった。席で一人座っているだけなのも暇なので、私はスマホを取り出した。時間の表示を見てみると、思っていた以上に経過していることに驚かされた。ずいぶん夢中になっていたようだ。
私はSNSアプリを起ち上げ、いつものようにタイムラインを追った。画面をスクロールし、ここ数時間の出来事を把握する。それぞれの内容を読んでいると、たとえそのアカウントのプロフィール欄に所在地が記載されていなくても、電車の遅延情報や見ているテレビの内容から、その人の住まいが関東圏なのか関西圏なのか何となく判断することができる。
今日は土曜日である為か、東京の方では様々なイベントがあるようで、ハッシュタグを通じてその盛り上がりを感じることができた。平日のタイムラインを読んでいる時は、みんな学校や会社に行っていたりするのであまり気に留めないが、こうして実際に現地で集まっている様子を知ると、東京は遠いなと感じる。
三枚目の写真を送れば、私はアゲハ蝶を左下腹部に宿す為、東京に行かなければならない。地元から東京まで、十七歳なら一人で行けない距離じゃない。ただ施術の時間によっては、もしかすると向こうで泊まらなきゃいけなくなる可能性がある。これまで一人で宿に泊まるという経験がないので、そこは少し不安だった。
ちりんという音に反応し、私はスマホを握ったまま顔を上げた。クロエはカウンターでお父さんに一言二言なにか告げてから、私の前に戻ってきた。
「待たせちゃって、ごめんね」
「ううん、大丈夫」
「それで残念なんだけど、もうすぐ千佳が家に帰ってくるみたいなの。だからそれまでにわたしも家に戻って待っていなきゃいけないから、揚羽とお話できるのはここまでになりそう」
「わかった。じゃあ、帰りの支度をしないとね」
私が席を立つ準備をしている間、クロエはテーブルの上を片付け、カウンターまで運んで行った。一度にすべては無理だったので、私も準備を終えると手伝った。
テーブルの上が綺麗になると、私はショルダーバックからお財布を取り出し、いくら払えばいいかクロエに尋ねた。
「今日はわたしの招待だから、お金は大丈夫。ねっ、素直に受け取って」
そう言いながらクロエが手を握ったので、私はお金のことについてはそれ以上言及しなかった。
「うん、ありがとう、クロエ。ごちそうさま。今日はとても楽しかった」
「ふふっ。わたしも」
感謝の言葉を伝えると、クロエはえへへと笑った。
喫茶店を出る際にクロエのお父さんに会釈すると、彼は手を振ってくれた。そして木の扉を開けた時に鳴るちりんという音に、私は少し寂しさを感じてしまった。
外に出ると、辺りは暗くなり始めていた。この喫茶店は道を外れた所にあるから、なおさらその気配が強かった。
駅まで向かう道、私の手のひらはずっと温かかった。クロエにとって、誰かと手を繋ぐという行為は、ごく自然なものなのだろうか。今日一日を振り返ってみると、私の方がクロエよりも年上であるはずなのに、彼女にはずっとリードされっぱなしだったなと思う。
改札口を通り、駅構内に入ると左右に階段が別れている。私とクロエは乗る電車がお互いに反対方面だった。だからここでお別れだ。
「ねぇ、揚羽。今度も一緒に遊んでくれる? また電話してもいい?」
私の腕を引っ張り、上目遣いにクロエは尋ねた。
「ええ、もちろん。また会いましょう」
私は力強く頷き、微笑んでいた。
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