揚羽_9

 チョコレートのパイは半分食べることが出来たが、コーラの方は一口が限界だった。前回程ではないが、やはり緊張している。しかしそろそろ時間だ、行かなければとテーブルを片付け、扉に向かった。

 その最中、私の肩に誰かがぶつかり、体が左に流れた。私は慌てて、ごめんなさいと頭を下げたが、そのぶつかった相手は何も言わず、ただじっと私の側に立ったままだった。あれっ、何かがおかしいなと感じて顔を上げると、そこにはにやけた顔をした男子が私を見下ろしていた。その男子の脇から見えるテーブル、ずっとうるさかった一角に目をやると、そこに座っている集団の目が、私達に向いていた。

 ああ、やられた、これは故意の嫌がらせだと察した。私の前に立った男子は、未だ黙ったまま、私をあざ笑い道を塞いでいる。テーブルからは、からかうような声が、ひそひそと聞こえてくる。

 こんなことをしている場合ではない。私はうんざりとした気分で、目の前の男子を避けて進もとした。しかしその男子は、私の進行方向に合わせて、再度道を塞いだ。私が左へ行けば右へ、右へ行けば左へと、体を揺らすことを何度か繰り返した。その度に、テーブルで見ている男子たちの声は大きくなる。さすがに私にも苛々してきて、やめてくれませんかと口に出してみたが、目の前の男子は相変わらず無言のまま、にやにやとしているだけだった。

 もう嫌だ、我慢の限界だ。私はウエストポーチに手をかけて、中にあるものを使ってやろうと思った。

 だが、ウエストポーチの上からこの硬さを手の平で感じた時、ふと冷静さが戻ってきた。こんな小さなことに構うな。彼らにとってはただの時間潰し、たかがその程度のものに乗ってやる必要はない。彼らの期待に応えることが一体何になる。私が惨めになるだけだ。

 私は彼らとは違う。学校に行って、放課後は友達とつるんでただ時間を浪費する。私はそれを有意義だとは思えない。だからここで私が立ち止まってやる必要はない。

 ウエストポーチから手を外し、私は軽く息を吐いてから、どうどうと直進した。自分が成すべきものを見失うな、私は理由があってこの街に来た、こんな所で躓く必要はない

 私が直進すると、目の前の男子は体がぶつかるぎりぎりの距離になってから、慌てて横に飛んだ。その格好があまりに無様だったので、テーブルで見ていた男子達はげらげらと笑った。その声に反応して、ようやく私を塞いでいた男子も言い訳するように口を開いたが、私は既に店内から出ていたので、何を言っているのかまでは聞き取れなかった。


住宅街を歩きながら、『碧色の時計盤』でターゲットの赤い点を確認する。男はまだ動いておらず、同じ場所にとどまっている。私は少しだけ足を早めた。男はもう一時間以上同じ場所にいることになるが、いつ動き出すか分からない。私が向かっている最中にいなくなられては困る。

 知らない街を歩くのは怖い。だからといって、知っている街、それも身近な場所で写真を撮るのは抵抗がある。絶対に失敗したくない。今回もちゃんと成功させ、次回もしっかり達成する事ができたなら、私の左下腹部にアゲハ蝶のタトゥーが宿る。その場面を想像しながら、夜の住宅街を前へ前へと進み続ける。


線路を跨いだ歩道橋を超えると、目的の男は居た。私は電柱に寄り、身を隠した。少しだけ頭を出して、男を観察する。

 男は街灯の下に座り込んでいた。夜の街中、どうしてこんな所にいるのかよく分からないが、私にとっては都合がいい。いま大事なのはそれだけなので、男の事情を考察することはしない。辺りを見回し人目を確認してみるが、恐らく付近には誰もいない。私の背中にある歩道橋から、突然人が現れるかもしれないという不安は若干残るが、足音などに気を配り、タイミングさえ間違えなければ目撃されることもないだろう。

 遠くから地響きが聞こえた。私は咄嗟にかがみ込み、頭を抱えた。眩しい光が黒のパーカをはっきりと照らす。歩道橋の下を電車が通る。一方だけからではなく、左右から来ており、すれ違いざま警笛を鳴らした。先程まで静かだった夜の住宅街にとって、その音はあまりに大きく、場所選びを間違えたかもしれないと、私は顔を歪めた。

 心臓がばくばくしている。私は蹲ったまま、しばらく何も考えられなくなった。

 

 電車が線路を走る轟音と警笛が鳴り止んでから時間が経つと、今度はその静けさがよりいっそう深まったように感じられる。私の緊張もようやく解けてきて、もう一度現状を見直そうという気分になった。

 街灯の下に座り込んでいた男はどうしているだろうか。電車が通る前まではそこでじっとしていたが、音を聞いたことにより気持ちが動き、移動してしまっただろうか。私はそっと電柱から顔を出し、確認してみた。

 その男は、まだ同じ格好で座り込んでいた。私はその様子を見て、少し安心した。しかし本当に、一体あの男はなぜこんな所で座り込んでいるのだろう。事情を考察するのはいったん捨ててはいるものの、さすがに気になってきた。まさか死んでいる訳ではないだろう。ただ動かない所を見ると、寝ているのかもしれない。もしそうだとするならば、写真を撮る難易度は前回よりもぐっと下がる。これは私に運が向いているのかもしれない。


 私はウエストポーチからスマホを取り出して、『碧色の時計盤』を立ち上げた。最終確認だ。赤い点をタップして表示された顔写真が、いまそこで、街灯の下に座り込んでいる男と一致していることを確かめた。

 落ち着け、落ち着くんだ私と、ゆっくりと息を吐きながら、手に持っていたスマホをウエストポーチに仕舞い、スタンガンと交換した。

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