揚羽_5

 背後に視線を感じたので振り返ると、ドアの隙間からお母さんが顔を覗かせていた。恐らくノックもしてくれていたと思うが、私の耳はイヤホンで塞がれており、音楽が流れていたから、その音に気付けなかったのだろう。イヤホンを外し、机に向かっていた椅子を回転させて、お母さんに体を向けた。

「お昼ごはんどうする? 食べれる?」

 私はお母さんの頭上にある時計に目を向けた。もうすぐ十五時。夕食までまだ少し時間があるが、我慢できない程ではない。しかし、わざわざ尋ねてくれたものを断るのも気が引ける。なので私は、食べるよと、返事を返した。

「そう、わかった。今持ってくるから、少し待っててね」

「うん、ありがとう」

 お母さんは私の部屋のドアをしっかりと閉めてから、キッチンへと向かった。そしてまたすぐに戻ってきた。

「これ、簡単なものだけど」

 おぼんにはラップで包んだおにぎりと、小皿に盛られた唐揚げが乗っている。

「ううん、ありがとう」

 私は椅子から立ち上がり、お母さんからおぼんを受け取った。

「もし足りなかったら言ってね」

「これくらいで大丈夫だよ。夜ご飯もあるし。ありがとう」

 机の上におぼんを置いたのを確認したお母さんは、なんだか少し安心したような顔をして、用事が終えたと私の部屋から出ていった。

 私は部屋の扉が完全に閉まる音を聞いてから、椅子に腰をおろした。


 SNSを眺めながら、爪楊枝で唐揚げを口に運ぶ。タイムラインは夜ほどではないけれど、なかなか活発だ。私がそのような状態を狙って作っているからでもある。フォローしているのは同年代ではなく、クリエイティブ方面のフリーで働いている人が多い。私にとってはそちらの方が情報収集に役立つし、自分へのモチベーションにも繋がる。


 遅めの昼食を終え、午前中に進めていた作業に戻る。ただし今回使うのはペンタブではなく、紙とシャーペンだ。

 アナログで絵の練習をする時間も取るようにしている。スケッチブックやノートにペンを走らせるのは、ペンタブを使う感覚と違ったものがある。どちらにも利点と欠点がある。教則本の受け売りだが、その違いを楽しみ感性を磨くのは、技術の向上に役立つという。ならば実践しておこうと、私は毎日、ペンタブとアナログ、両方で絵を描く時間を設けるようにしている。この習慣を持ってから、大体三ヶ月位経っただろうか。確かに効果はあるんじゃないかと、実感がある。効果が見えるのは嬉しいことだ。だから時間も忘れて、没頭することも出来る。


 夕食後、ペンタブで絵を描いていた時だった。PCディスプレイの横に置いたスマホの画面が点灯した。表示を確かめてみると、電話の通知だった。私の番号を知っている人は限られており、これまで殆ど電話がかかってきたことがない。電話で話すのは苦手だ。相手は非通知。そのことが、なおさら取るべきかどうか迷わせる。

 しかし、でももしかしてという思いが、今はあった。私はイヤホンを外し、スマホを手に取った。

「もしもし、こちらはあげはちょうさんのお電話で宜しいでしょうか」

 女性の声は聞き覚えのないものだったが、私をあげはちょうと呼ぶ可能性があるのは、現状一つしか考えられない。

「はい……そうです」

 心臓の音が早い。また、その音が大きく、相手の声をかき消してしまいそうだ。私はなるべく気持ちを抑え、ゆっくりと発音できるよう努めた。

「突然のお電話、失礼致します。タトゥーの件でご連絡させていただいたのですが、いまお時間宜しいでしょうか」

「はい。大丈夫です」

「ありがとうございます。では、宜しくお願い致します。まず確認ですが、あげはちょうさんは私共にタトゥーの施術を依頼しこと、間違いございませんか」

 丁寧な言葉使いだが、違和感も感じさせる話し方だった。それは自分の言葉というよりも、間違ったマニュアルに従っている感じだ。その胡散臭さに、少したじろぐ。

「はい、そうです」

「かしこまりました。では、お話を続けさせていただきますね。昨日、一枚目の写真を受け取りました。あのような感じで大丈夫です。残りはあと二枚ですね。サイトに記載した通り、全部で三枚の写真をお送りいただければ、私共はあげはちょうさんの下腹部に、タトゥーを施すことが出来るでしょう。しかしもし、写真を撮ることが辛くなり、辞めたくなったとしても、それはあげはちょうさんの自由です。それはどのタイミンであれ、ご連絡いただければ、私共がいただいたあげはちょうさんの個人情報は抹消され、どこにも痕跡は残りません。私共は決して強制しません。タトゥーの為に写真を撮るのか、それとも途中で止めるのか。それは、あげはちょうさんの自由です」

 私は首を少し下に傾け、スマホを当てた耳に意識を集中する。彼女の言葉をしっかりと考えながら聞くようにしていた。

「とはいえ、私共としては、あげはちょうさんに是非ともお会いしたいと考えております。タトゥーを入れる為におかしな条件だとお思いでしょうが、私共は己の腕に自信があります。その力を、あげはちょうさんにも実感いただけること、それが私共の願いです。なので今後も、どうぞ宜しくお願い致します」

 正直、不安は拭い去れない。何を言っているのか、その内容は果たして本当に正しいものなのか、私の中で違和感が膨らむ。しかしとにかく、条件を満たせばタトゥーを彫ってもらえるというのは確かなようだ。下腹部の左側をさする。ここに、アゲハ蝶のタトゥー。サイトに貼られていたタトゥーの画像は素晴らしかった。腕に自信があるという言葉は心強い。それに、既に昨日一枚目の写真は送っているのだ。

「あげはちょうさんから、何か訊いておきたいことはございますか?」

 私は彼女の話を聞きながら考えていた質問をすることにした。

「スタジオがあるのは、東京なんですか?」

 サイトには住所の記載がなかった。タトゥーを体に入れるには、さすがにネット上のやり取りだけでは不可能だ。アーティストが家に来てくれる、というパターンも考えられなくはないが、サイトの画像をみた感じだと、やはりそこはスタジオに感じられたから、恐らく私が行かなければならないのだと思う。東京の名前を出したのは、何となくだったが、そんな気がした。

「ええ、そうですね。まだ詳しい場所はお教えできませんが、東京近辺になります」

 遠いけれど、行けない距離じゃない。ある程度覚悟はしていたので、それを聞いても諦める理由にはならない。あと二枚写真を送れば、初めての東京だ。

「あげはちょうさんのお住まいからすると、ええ、少し距離がありますが、お越しいただけるのであれば私共には何も問題ありません」

「はい。大丈夫です。行けます」

 アカウント作成時に、住所を入力する項目はなかったはずだ。なのにどうして私の住まいを知っているのか疑問に思った。しかし少し考えてみれば何のことはない。

 『碧色の時計盤』を起動した時、GPSを使用していた。

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