揚羽_1

 とにかくこの街から早く逃げ出したくて、走り続けた。駅までの道順、見覚えのある風景を追う。複雑に入り組んだ街路。他人とすれ違う際に、その顔が私に向けられているという、感覚。しかし私は足を緩めず、必死に駆ける。

 辺りは既に暗いので、特徴を捉えられることはないはずだ。本当はもっと自然な足取りで歩いた方が良いのだろうが、背中に感じる重圧が、そうはさせてくれない。お腹の痛み。もしかしたら、『あれ』を誰かに見られていたかもしれない。突然肩を叩かれるイメージが頭に渦巻き、それを振り切る為に、私は逃げ続ける。

 心臓が激しく鼓動する。今にも破裂してしまいそうな程だ。それは最近はずっと家に引き篭もっていたから、久し振りにこんなにも全力を出しているからだろうか。それとも、恐怖のせいだろうか。これはきっと、両方なのだと私は思った。

 大通りに出ると、眩しさに一瞬目を細め、思わず足が止まってしまった。

 これまで走り抜けてきた道を振り返ると、深い闇が、まるで大きく口を開いているかのようだ。私は頭を軽く振り、道路の脇へ移動する。

 頬に冷たい風。首筋に流れた汗を右手の甲で払い、息をゆっくりを吐いた。再度振り返り、誰も私のことなど追いかけてはいないことを確認できると、少しだけ気分が落ち着いてきた。

 とはいえまだ、安全を確保した訳ではない。家に帰り、部屋に閉じ籠もれるまでは、まだまだ油断できない。

 私は左下の腹部にパーカーの上から触れた。

 道路の向こう、正面には居酒屋のチェーン店があった。頭上に掲げられた看板の明かりは強烈な赤色で目を惹いた。

 視線を落とし軒先を見れば、スーツ姿の男女が円を作るように並んでおり、笑い合っている。その内一人が、ふとこちらに顔を向けたように見えたので、不審がられないよう慌てずこの場を離れ、歩道に沿って歩き始めた。

 走っていますぐに逃げ出したい気持ちが再燃してきているが、この辺りになると先程までの街路と違い、さすがに人の通りが増えるので、そうもいかなかった。


 もうすぐ夏も終わり、秋が近付いている。この時期、街中の人々の服装は、袖が長いのと短いのとで入り混じっている。そのおかげで、私が今着ている、目立たないことを最優先に選んだパーカーも、不自然にはならず、上手く馴染んでいる。しかしつい十分程前まで全速力で走っていたおかげで、汗ばんだ体にパーカーの下に着たシャツが肌に張り付き、気持ち悪さを感じた。

 改札機にスマホをタッチし、階段を上がる。ホームに人の数は少ない。電光掲示板を見上げると、次が終電だった。間に合って良かったと安堵の息が漏れると、地響きで足元が揺れ、一瞬だけだが、ふっと目の前が真っ暗になった。すぐにそれは回復したので、たいしたことでないのだが、それでも、早く家に帰りたい気持ちがいっそう強くなる。

 ホームに到着したのは、家とは反対方向に向かう電車だった。扉が開くと、結構な数の人間が吐き出され、騒がしくなった。私は邪魔にならないよう、今の場所から移動することにした。

 気分が悪い。どうしても口に水分が欲しくなり、自販機を探した。すぐに見つけることが出来たので、購入すると、柱の影でキャップを開け、水を喉に流し込んだ。

 むせ返りそうになったが我慢し、一度息を吐いてから、今度はゆっくり喉を潤した。330mlのペットボトル、半分程度を飲み終えると、お腹が重くなってきたので、これ以上は止すことにした。

 今日は荷物を持たないようにと家から出てきたので、鞄を持ってきていなかった。なのでパーカーポケットにペットボトルを突っ込んだのだが、不格好に膨らんでしまったので、仕舞うのは諦め、手で持ったままにすることにした。

 反対方向の電車から降りてきた人波が去ると、また静けさが戻ってきた。この時間帯だと、街から出るのではなく、帰宅する割合の方が多いのだろう。私と同じように終電を待っている人はまばらに散って、ぽつんぽつんと立っている。

 ホームにアナウンスが流れ、電車が到着した。こちら方面の電車から降りてくる人数も、そう多くはなかった。車内も空いていたので、座席に座ることもできた。

 座り込んでしまうと、急激な眠気に襲われる。先程までの慌ただしさからつかの間解放され、電車の揺れが追い打ちをかけるように夢の世界へ誘う。

 瞼を閉じ、首の力を抜くと意識が薄くなっていく。あの街の地を踏むことは、もう二度とないだろう。

 あとは家に帰るだけだと、安心感が強まる頃合いに、突然大きな音がして肩が跳ね上がった。

 お洒落な格好をした女の子が、キャリーバッグを引いていた。車両の連結部分に車輪が乗り上げた際の音が、私の意識を起こしたのだろう。同い年か、もしかしたら彼女の方が少し上かもしれない。日を跨いだ深夜帯、窓を流れる夜景に妙に馴染んだ姿をしている。彼女は次の車両を目指して、電車の進行方向に逆らい、私の目の前を横切る。彼女の視線は力強く、私など目に映っていないようだった。

 思いがけない出来事に目が冴えてしまった。気性の上下が激しいと、自覚がある。まだちゃんと、気持ちの整理がついていないからだろう。ベルトに通した、大きめのポケット型のポーチに触れると、中に仕舞われたものの外郭がはっきりと分かる。

 フラッシュバックする光景。『あれ』からもう、一時間くらいは経っただろうか。遠い出来事のように思えるし、つい先程のことのようにも感じられる。時間と記憶が曖昧になり、混乱する頭が、思考力を低下させる。

 不安が大きかったが、いざやってみると意外と案外すんなりとやれてしまった。思っていたより簡単だったなと、そう考えている自分を恐ろしくも思う。仕方のない事情とはいえ、自分勝手であるのは間違いなく、正当化は恐らくできない。それでも、矛盾を抱えながらもと留まろうとせず、実行してしまったのだから、思い悩むのはやめて、進むほかないのだ。

 ポケット型のポーチからスマホを取り出し、アプリのアイコンをタップし、スワイプでページを切り替えると、空欄だった項目に、チェックマークが一つ増えていた。

 これで一歩、望みに近付いた。

 私はスマホを両手で包み、胸の前でギュッと握りしめた。

 窓の外に目を移すと、大きな建物のシルエットが浮かんでいる。都市開発により去年完成したばかりの、商業・企業・住居を兼ね備えた複合施設だ。縦にも横にも幅を取り、市のランドマークとして大きく期待されており、都心から移り住んできた人も多いと聞く。私はまだ一度も訪れた事がなかったが、両親は何度かこの商業施設へ遊びに行っている。お母さんから聞いた話だと、施設としては、本当は夜でも照明を点けていたいのだが、近隣の住民から苦情が出たのだと言う。市が期待しているといっても、皆がすべてを歓迎している訳ではないのだ。確かに、こうして夜の車窓から見るシルエットから感じる存在感は、不気味だと思えなくもない。

 

ようやく家に着き自分の部屋に戻ると、身につけていたもの外し、ベッドに倒れ込んだ。汗をかいていたのでシャワーを浴びた方が良いのだろうが、そんな気力は残っていない。

 まずは一枚、送ることが出来た。同じ事を、あと二度繰り返さなければならない。

 今日は焦りが強かったが、次はもっとスマートに、手際よく出来ればと思う。

 時間が経つにつれて、リアル感が失われていく。

 しかしスマホを手に取り、アプリを開けば、そこには自分が犯した証明が、はっきりと残っている。一度送ってまったら、さっさと削除してしまうつもりだったのだが、アプリからでは、どうしてもその導線が見つからなかった。アプリを起動して、写真を取って、送信した。カメラアプリから呼び出せる画像フォルダには、それは保存されていなかった。恐らく、アプリ独自の保存領域に画像が格納されているのだろう。だから、このアプリから削除することができないと、いつまでもこの画像が、開けてしまう。

 いつまでも知らない男の顔写真が、それもだらしなく涎を垂らしている、悪趣味な画像がスマホに残っていると思うと、気持ちが悪かった。

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