「にい、くーん!」


 勉強する気力が湧かなくて自分の部屋でイヤホンを耳に刺しあぐらをかいてぼんやりしていると、元気二百パーセントな一姫がノックもせず部屋に入って来た。

 風呂上がりのキャミソールと短パン姿のまま、俺の膝に膝がくっつきそうな距離まで詰め寄る。

 機嫌を取ろうとことさらに明るい笑顔の一姫は、つくづく嫌になる程俺と造作が似ている。


「お願いがあってね」


 俺に対して拝むように手を合わせているが、取り合う気力は枯渇しているので無視を決め込む。


 転校したい。


 一姫と同じ学校なのが嫌だ。

 クラスでイジメがあるのが嫌だ。

 学費を親に負担させているのが嫌だ。


 自分で何も決められない、周囲に振り回されるだけのこの状況が、うんざりするほど嫌だ。


 だけど、ここで別の学校へ行くことになれば。

 今より授業のレベルが下がるかもしれない。

 今より学校風紀が悪化するかもしれない。

 今より親に経済的負担をかけるかもしれない。

 今満足しているものを失うかもしれない。


「アネキは気楽でいいよな」

「いだだだだだだ」


 鼻を摘み上げると、一姫は俺の膝をバシバシ叩いて抵抗する。


 こんなに不満だらけでも今が惜しい。

 だから動けない。


 頑張って必死に勉強してこの中学に入り、高校からの特進クラスに進学した頃自分の中で確かに増大していたエントロピーが、いつの頃か最大値に達してしまっている。


 自分が今手にした、大学への割引乗車券を捨てるのが惜しい。


 これから先、まだ七十年続く人生の、たった十五年で積み上げて来たものを全てみたいに考えて、それを無駄にするのが怖くて、必死に必死に必死に必死に、この不愉快な毎日にしがみついている。

 そんな自分が涙が出るほど情け無いのに、絶対今のままいつも通りの明日を迎えてしまうという確信がある。


「ひゃめへー! ひひへひないー!」


 全身をよじって抗い、一姫は俺の手から逃げ出した。


「はあ、はあ」


 よだれを腕で拭い、一姫は息を整える。


「お願いしに来ただけなのに、なにすねてんのよー! 仕返しだー」


 一姫は俺に飛びかかって両耳から、最初から音なんて出てなかったイヤホンを抜き、勢い余って俺を押し倒した。


「いっつ」


 本棚の角で頭を打った。激痛に身をよじる。


「アネキ、いい加減にしてくれよ」

「お願い!」


 パン! と俺の目の前で彼女は柏手を打った。

 俺の上にまたがり胸に顔面を押し付けた姿勢のまま懇願する。


「助けて! お願い。歩道橋からまた落ちた人が出てるの。被害者は皆んな、なぜか被害届を出したがらなくて、警察には情報が行ってないの。岳優人さんも犯人探しに協力してくれてるんだけど、どうしても自分が突き落とされた時間は歩道橋を直視できなくて。


 彼も怯えてるし、今のところ怪我程度で済んでるけど、また人死にになったらって思うと、怖くて心配で。大丈夫、今回は岳さんもあんたには憑依しない、憑依して肉体を持ちたくないって言ってるから、見張っててくれるだけで良いの」

「なら、アネキが見張ってりゃ良いじゃん」


 俺は胸に頭部をゴリゴリ擦り付けて来る一姫を引き剥がし起き上がる。


「悪いけど、他人に世話焼いてる気分じゃないんだ。出てってくれ」


 扉を指差す。


 しばらく一姫は、取りつく島を求めて俺の顔を見ていたが諦めて出て行った。







 久しぶりに長野と話したからだろう、その夜滅多に見ない夢を見た。

 湿度が高く寝苦しく、俺は夏掛布団を蹴り飛ばし、汗がうまく出せない閉塞感に、何度も寝返りを打った。


「飛べ」


 夢の中、耳元で囁かれる、頭蓋を震わせるように低く、強圧的な声。

 長野が俺の頭を大きな手で押す。

 すぐ目の前にはステップの狭い階段。

 あの歩道橋だ、と理解する。

 辺りはすっかり日が暮れ落ち、灯る街灯の赤い光が不穏な空気を漂わせている。


 今は多分、十九時四十四分だ。


「飛べ」


 冷酷に、温度のない声で長野が繰り返す。

 彼の吐息を耳朶に感じるのに、声だけは天啓のようにはるか彼方上空から降り注いで聞こえる。

 ぐい、と押す力が強まり、俺は必死に踏ん張る。


 逃げられない。

 前に進めば階段を転げ落ち、後ろに下がるには長野の力が強すぎる。


「やめろ」


 ジタバタと両手両足を振り回してもがくが、鉛のように重たく、視界がじりじりと前方へずれて行く。


「飛べ」

「無理だ」

「飛べ」

「やめろ、死ぬ、死んじまう」

「じゃあ、死ね」


 長野は切り捨てるように言い、俺を突き落とした。








「大丈夫?」


 浅岡が俺の肩を揺らしていた。


「あ、ああ」


 居眠りをしていたらしい。

 俺は額をさすりながら体を起こす。

 問題集に頭から突っ込んでいたらしく、左腕は体の横に、右の手にしていたはずのシャーペンは机の下に落ちていた。


「熱中症かも」

「え?」

「汗すごいし、今突然机に突っ伏したんだよ。かなり大きい音でぶつかってたけど、そのまま動かなくて。記憶、ある?」

「いや」


 だからこんなに額が痛いのか。全く思い出せない。


「気分、悪くない?」

「そう言えば、悪いかも」


 意識したら一気に吐き気が来た。

 右手で口を塞ぎ、左手で浅岡にここで待っててと示し、トイレへ駆け込む。


 胃が痙攣し、ひっくり返ろうとする。

 内容物を出さなくてはこの苦痛は悪化する。

 本能がそう告げるから、俺は迷いなく便器へ吐いた。

 お昼に食べた物が半ば溶け半ば原型を保ち、べちゃべちゃと積み重なる。

 舌がじぃん、と痺れている。

 三、四回かけて粗方吐き終えたものの、まだ不快物質が胃袋に残っているのか、胃と食道がピクピクと痙攣し続ける。

 出そうと餌付いて舌の根が痛む。

 冷や汗が全身に流れ、体温が下がる。

 それなのに、暑い気がする。

 暑いから汗を出さなきゃいけない気がする。

 体温が暴走し、頭がぼんやりとし始める。

 このまま、ここでぶっ倒れるのかな。

 みんなに迷惑をかけるんだろうな。

 そう思った時。


 とん、と背中に触れる熱があった。


 ゆっくりとそれが上下に動く。


「つらいよね」


 浅岡が横にしゃがんで俺の顔色を伺った。


「顔色、真っ青だよ。大丈夫、ゆっくり吐いて」


 トイレに静かに響く柔らかなアルト。

 発される言葉の端々から気遣う気持ちが漏れ出て来て、緊張にヒクついていた喉が緩む。

 第二弾がせり上がって舌の上を流れ落ちて行った。


「ごめんな。気にしなくていいから」


 浅岡は背中をさする。ハンカチで俺の汗を拭う。


「ここにいてもいい?」


 尋ねられた意味がわからなかった。


 浅岡は一音一音確かめるように言葉を続ける。


「心配だから」


 鼻の奥が急激に熱くなって痛みが走った。

 涙を堪えようとしたら鼻水と涎が出て来て堪えきれず、結局泣いてしまった。


 自分がとてつもなく情けなかった。


 自分がこんな風に生きていて、それで許されていることが死ぬほど恥ずかしかった。


 便座を両手で握りしめる。

 涙と胃液をボタボタと垂れ流す。


 そうだ、長野があんな口約束を守るわけがない。


 長野は人を傷付けることしか考えない。


 俺は。


 けど、俺は。



「浅岡」


 左手で彼を探す。シャツの裾を鷲掴む。


「ここにいてくれ」



 俺は、長野とは違うんだ。








 どれくらいトイレにいたのかわからない。

 俺が吐き続けている間、浅岡はずっと横にいて、背中をさすったり汗を拭いたり外の自販機から水分を調達したりしてくれた。

 ようやく立てるほどに回復したのは夜の七時を回った頃。

 浅岡は、勉強道具をそれぞれの鞄に片付けてから俺を追ってくれたらしい。勉強に戻る体力もなく彼から差し出された鞄を肩にかけ、俺たちは帰路につく。


 厚い雲に塞がれた夜空は地上の明かりを照り返して薄墨色に光っている。

 雨はまばらに降ったり止んだりを繰り返していた。


 俺を気遣う浅岡に悪いと思いつつも傘を持ってもらい、さらに肩も貸してもらう。

 日曜日のこの時間、病院は休日夜間急患診療所くらいしか空いていないだろうから、救急車を呼ぶか明日まで待つしかないと浅岡は言う。


「病院行くほどじゃ」


 断りかけた俺のセリフを、ラインの軽快なコール音が遮った。


 スマホ画面を見る。一姫だ。


「もしもし」

「ねえ、にぃくん、今どこにいる?」

「ごめん、アネキからだ」


 浅岡にちょっと話させてくれ、と断りを入れてから通話に戻る。


「公民館の前」

「よかった! 間に合った! ねえ、そのまま歩道橋まで来てもらいたいの。来るだけでいい。にぃくんには迷惑かけないから。ほんとだから。にぃくんに降霊はさせない。約束する」

「いいよ」


 俺の返事が想定外過ぎたのか、電話向こうで息を呑むような気配がした。


「いいの……? ほんとに?」


 掠れた声で一姫が最終確認を取る。


「いいよ。助けたいんだろ。協力する」

「どういう風の吹き回し?あんなに嫌がってたのに」

「別に、いいだろ」

「そりゃあ」


 もこもごと彼女は聞き取れない声量で何事か言って、じゃあ、四十四分頃に歩道橋、よろしくね、と残して通話を切った。


「浅岡、迷惑かけるけど、ちょっと回り道してくれない?」

「僕はいいよ」







 嫌な顔ひとつせず付き合ってくれる浅岡と共に歩道橋へ向かう。

 公民館は学校から近く、学校を挟んで俺たちがいつも通学に使う駅がある。


 まだ少し残留する吐き気と、吐いたことで失った体力に足元のふらつきを覚えながら歩道橋を登る。

 手入れの届いていない植木が学校側の端にかかり、歩道橋の見通しを悪くしている。


 雨滴をしとどにはらんだ木の枝をくぐった俺は、前方に人影を認めた。

 南、つまり左手の方、こちらとは九十度違う方角を向くそれは、一姫の姿だ。

 この暑いのにGジャンを羽織り、野球帽をかぶって、後ろの調節穴からポニーテールを垂らしている。

 野球帽はおそらく俺のものだ。


 本来なら声が届く距離になれば、彼女を呼んでいただろう。

 一姫も、そう思って待っていたはずで、けど、この時の俺は本来の状態ではなかった。

 熱中症で体調を崩し、体力も赤ランプ点滅で、少しでもむだなアクションを減らしたかった。

 彼女の名前を大声で口にする余裕はなかった。


 それが、俺たちにとって一つ目の誤算だった。


 足を引きずるようにして向かう。

 住宅街はまだ八時前だというのに奇妙なくらい静かで、相変わらず怖気がするくらい肌寒く、一歩ごとに強まる雨足が外界から歩道橋を遮断し始めた。


 変だ。


 と思ったのは真ん中辺りを過ぎた頃。

 一姫は歩道橋の柵にもたれる風ではなく、ステップの最上段に佇んでいた。

 ちょうど、夢の中で長野に押される俺が立っていた場所だ。

 でも、それのどこがおかしいのかわからない。

 浅岡の右腕に掴まり彼女へ近づきながら考えようとするが、思考回路は水深千メートルに沈み込んだように重たくぴくりとも動かない。


 ただ、じりじりと彼女へ近づくのみだ。


 雨のせいもあるし、俺たちの歩みがかなり緩やかだったのもある。


 一姫はこちらに気付かないのか、スマホ画面で時間をチェックする動作を何度かするだけでじっと階段下を眺めている。

 髪をアップにしているため外気にさらされる耳の、黒子が見えるくらいの近さになる。


 後一歩で彼女に辿り着く。


 そう思った時。


 ぐい、と何者かに頭部を引っこ抜かれた。


 違う。

 これはよく知っている感覚だ。


 地面に植わった根菜を引き抜くように、俺の意識が体からズルズルと抜き取られる。

 体の制御権が別の誰かに明け渡され、俺は抵抗することもできないまま、一姫に騙されたのだと知った。


「岳さん?」


 一姫がゆっくりと振り返る。

 その左手には、いつもここに供えられている花束が握られている。


 俺の体が浅岡の腕を離す。


 一歩下がり、足の裏を地面に押し付ける自分の体の動きから、次に起こることがわかった。


 やめろ!


 叫ぶがもちろん、それは音にならない。

 空気を震わせることはない。


 視界いっぱい、百二十度展開するパノラマの中、一姫がいつもは重たそうな瞼を持ち上げ目を見開くのが見えた。

 浅岡が心配そうに俺を振り返るのが見えた。


 逃げてくれ!


 がむしゃらに叫ぶ俺を他所に、自分の両腕が一姫のいる階段側へ突き出される。


 浅岡を突き飛ばす。


 突き飛ばした瞬間、体が戻った。



 一姫が歯をくいしばり、浅岡を抱きかかえるように腕を伸ばし、巻き込まれ、一緒に階段を落ちて行く。



 その後を色とりどりの供花が追う。

 色のない世界に色彩を散らす。

 はらはらと、ひらひらと、渦を巻いて遠ざかっていく。


 人を突き飛ばした衝撃が、手のひら、膝、肩と伝って登る。

 浅岡の体温、体の柔らかさ、そういったものが神経に焼き付く。


 俺は呆然と、階段下まで落ちて行った二人を見下ろした。


 俺たちにとって二つ目の誤算。


 それは、浅岡がいたことだった。

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