狐の嫁入り

ゆきさめ

狐の嫁入り


たあん、と音がして目が覚めた。


眠る前は生憎の雨だったが、どうやら日が出てきたらしい。庭へ出ると、既に雨と太陽のどちらもが見えた。虹がかすかにかかっている。

こういうものをなんと言うのだっけ……。

ううんと呻いて、ふと視線をやった庭先、その隅。

黒い影があった。


まだ小さい影だが、その小さい腕を目一杯に大きく振り振りし、大袈裟な手振り。

どうやら私に気付いてはいないらしい。


まったく、坊やよ、尻尾が丸見えだ。



「やあやあ諸君。

まぁとにかく聞きたまえ、とりあえずだ、聞きたまえよ。もっとコッチへ寄りたまえ。いいんだいいんだ、僕に近づく事を許そうじゃないか。聞こえるか、聞こえるか、サァサァ、聞きたまえ、足をとめたまえ。

世を果敢なみながらも怨み、怨嗟と枯渇に咽び泣く声が聞こえるかね。身を投じた蒼天が天心ではなかったことを知っているかね。帰依すべきではないのだ、崇拝するべきではないのだよ。

弔いによる弔いと、あるいは切望による絶望と、ソコヘ鎮座する喪服を見た事があるかね。散華した花が蓮でなく何であるか知っているかね。心願など無意味なのだ、神への供物など無意味なのだよ。

やあヤア、諸君。

聞いているかね。僕の声は届いているかね。

この声は、どこまで届いているのかね。


サテ、右に見えるのは抗いがたい業火である。左に見えるのもまた艶やかな劫火である。コレどちらに身を委ねるべきであろうか、と。いいや、コレなるものは、いやいや、どちらも同じである、どちらもそう、地獄であるのだ。

地獄の鬼は悪鬼である。

そしてその悪鬼は空想である。

そう、そうなのだ、諸君は顔を見合わせて見ればいい。悪鬼の元になったものならばスグ目の前にあろうに。いや待ちたまえ待ちたまえ、早合点をするのでないよ、果たして我らこそ地獄の悪鬼なりと、僕はそう言いたいのではないのだ。聞きたまえ、聞きたまえ。


地獄こそ果敢なみ怨んだこの世なのだ。


この世こそ喪服に上辺の散華をする地獄なのだよ、分かるかね。

業火に身を焼かれているのだ。今もなお絶えず、その炎は消えぬのだ。

我らは愛すべき隣人の手によって放たれた漆黒の炎によってのみ全てを失い、かつ身を焼かれるのだ。皮膚を溶かし、髪を焦がし、許しを請う相手というのは、しかしコレはいつだって愛すべき隣人なのだ。

愛すべき隣人は常に悪鬼である。

そして己は常に誰かしらの隣人であるからして、我らは輪を作るのである。それはつまるところ地獄の悪鬼共の宴である。

悪鬼がいるのは地獄である。


サテ賢しい諸君。

ご理解頂けるだろう。


喪服姿の嫁狐の隣人に訊いてみるがいい、さも面白そうに両の手を打ち鳴らす事だろう。遠吠えにて果敢なみと枯渇とを主張する隣人の狐巫女に聞いてみるがいい、さも馬鹿馬鹿しいとばかりに笑声をあげるだろう。

きゃつら以外はこの汚濁に飲まれた世界を知っているのだ。きゃつらは地獄にいる事を自覚していながらも、何事もなかったようにすっくと身体を起こして立ち去るのが常套となったのだ。

常套句を構え、皆一様に揃えた外套を纏う様はいささか滑稽ではあるまいか。否、それすらをも見落しているのだ。纏う揃いの外套はどんな地獄の炎であろうとも、世を舐め尽くすいかなる大火であろうと、ものの見事に防いでしまうせいである。悪鬼は強いのだ。隣人は強いのだ。

であるからして、困難なことなど一つもあるまい。


しかしながら残念な事にこの世は地獄であるがゆえに、悪鬼のものとなっているのだ。地獄の鬼は悪鬼であり、悪鬼は地獄にいるものであるが、ハテ地獄は悪鬼のものであろうか。否、愛すべき隣人のものであるか。コレもまた否、愛すべき隣人は悪鬼の横顔である故だ。


頼るべくは狐火である。

縋るべきは狐火である。


声を上げよ、許されるべきである。

さあ、さあ、絶叫せよ!

理不尽さと秩序さに、女が売られて行くのをみた事があるか。不条理さと無情さに、七つにもならない神の使いが死ぬのを目の当たりにした事があるか。

声をあげてもよいのだ。許されぬはずがない。

絶叫を! 涙など許されぬのだ、だから僕は、せめて声をあげるのだ!


諸君、聞いているかね、聞いているかね。


愛すべき隣人は悪鬼である! 常にこの世の支配者気取りは等しく悪鬼である!

散華すべき花は椿である、躊躇なく首を落とすのである! 喪服狐に弔いを捧げ、嫁入り前の狐婿にははなむけの供物を捧げるのだ! 嫁狐への赤番傘も忘れるな!

悪鬼を怨み、我らを憎まず、罪を憎んで我らを許すのだ。この世に残響する絶叫を我らは聞きいれ、そして業火かあるいは世を焼き払う為の劫火を授けようではないか!

あああ聞いているか! 聞いているか!

業火に焼かれるきゃつらの絶叫する声が聞こえるか、この僕の声は届いているか!

天を突く、かの亀裂をも、焼き払うのだ!

サア、嫁も婿も聞くがいい!

僕はここいにいるのだ、ココにのみ存在するのだ。聞いているか、聞こえているか。諸君、耳をピタリと立てたまえ!

もはや誰もおらぬ。ただ一人で立つ、この僕の、大演説であるぞ!」



「ねえ、尻尾出てるよ」

そっと指を指したら、尻尾が跳ねた。

ぼろぼろの黒い着物の袖を翻して、狐色の尻尾ごと茂みに消えていく。ひょこり茂みからとこちらを窺う丸い目が二つ、神経質そうにきょろきょろさせてあった。

すっかり雨は上がったが、思い出した。


そうだそうだ、狐の嫁入りだ。

どこかで狐が嫁入りしたんだろう。


そんな幸せな今日この日、あぁ可哀想に、あの子狐は親か兄弟かと永遠の別れを告げたに違いない。咽び泣きながら叫ばずとも、油揚げと暖かい掛布と新しい着物くらいなら用意できたというのに……。

そんなに警戒しないでいいよと声をかける前に、四足で走り去られてしまった。


あぁ。

あの目覚めの音は、火縄の銃か。悪い目覚めになったものだと、私は溜め息を一つつく。油揚げでも買いに行こうかと、着替えるために部屋へと引っ込んだ。


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