其の二

「いかがなさいました?」

 急に話しかけられ、無駄に大きな胸が高鳴りました。

 耳に馴染みのある、男性のお声でございます。

 そちらを見やれば、予想通りの男性がいらっしゃいました。

 彼の名は、及川おいかわ勇貴ゆうき。お歳は29歳だそうです。

 市役所職員にしておくにはもったいないほど整った容姿でして、細身且つ長身に白シャツと薄墨色のスラックスが似合っております。

 彼に微笑みかけられまして、顔が熱くなってしまいました。

 気候のせいでございます。

 9月といえど、残暑はまだまだ厳しゅうございます。

 とはいえ、もう絽の着物を着るわけにはゆかず、気合いを入れて単衣ひとえに袖を通しました。

 深い紺色の無地の単衣に、淡い朱色で紅葉が描かれた帯を締めまして、向かいましたのは長野市役所。

 目的の課がわからずに庁舎案内を眺めていたところ、彼が声をかけて下さったのです。

 市役所に行くだけなのになぜ着物なのか、という無粋な突っ込みは受け付けておりませぬ。

 わたくしにとって着物は、洋装より馴染みのある衣類でございますゆえ。



 住民票の写しを新しい職場に提出しなければならない、と彼にお話ししますと、担当の窓口まで案内して下さいました。

「本当にありがとうございました」

 彼に頭を下げようとしましたが、彼がそれを許しません。

かえでちゃん」

 耳朶に吐息がかかります。

「秋の帯も綺麗だね」

 耳元でささやかれますと、鼓膜がとろけてしまいそうです。

 メープルシロップよりも甘い声は、わたくしには薬でもあり毒でもあるのです。

 駄目押しに「では、また今夜」と言われてしまいまして、わたくしは市民課の窓口の前で悶絶せぬように耐えたのでございます。



 彼と出会って1年が、交際開始から9か月が経とうとしています。

 しかし情けないことに、未だに彼の何気ない言動に照れてしまうのでございます。

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