第1楽章 真ん中のラの音

第2話 ラからのアダージョ

 暖かい春の日。

 桜が散り終わりそうな四月の半ば。珍しく校庭のベンチで楽譜を広げていた。楽譜はすでに何枚もの桜の花びらに覆われていて、紙面をほのかなピンク色に染めていた。ほのぼのした一日、ただ、さすがに楽譜を見るとわかるが今は桜をしばらく眺めていたところだ。

「今日もいい日だなぁ……。」

 ジジじみた独り言を発してしまった。こういう日は外で楽器を弾きたくなるが、楽器に砂は大敵なのでさすがにそれは抑え楽譜を読む事にした。と言うのが今の状況な訳だ。

「さて、部室に戻って練習するか。」

 校庭のはじにあるこのベンチから眺める景色はたくさんの樹と生徒が映る。遠くに見えるのはおそらくボールを追いかけるサッカー部の人たち。校舎側のゴールに向かって一斉に動き出した。

 最後に手近にある桜の木を一瞥しベンチを立つ。

「何してるの?」

 びっくりした。いつのまにか後ろに立っていた黒部が声をかけて来た。

「びっくりするじゃんか。」

「でも一回声かけたんだよ?」

 それは気づかなかった。桜に見入っていた時だろうか。

「桜がもう散っちゃうからなぁって思って、ぼーっと見てたから気づかなかった。」

 はぁ、と黒部はため息をついた。桜色の楽譜を手に取った黒部はもう一度ため息をついて楽譜を渡してくれた。

「部室、いこ?」

 うん、とひとつうなずき黒部と並んで部室に向かうことにした。

 黒部と並んで歩き出したはいいものの、何を話すか悩む。黒部もそこまでおしゃべりなタイプではないのでこう言う時に微妙な空気が流れる。

「ねぇ。」

 黒部から声をかけてくれた。

「だいぶ先なんだけどね、文化祭のこと考えたくて。」

「文化祭? 九月だからだいぶ先だけどもう考えるのか?」

「私そんなに上手なわけじゃないから、悠のレベルに揃えると練習が必要なの。」

「いや、別に自分に揃えなくてもいいし、そう言われるほど上手くはないと思うんだけど……。」

「私からしたらうまいの。」

 ふん、と拗ねるかの様な声で言う黒部。

「黒部は何がやりたいとかある?」

「クロイツェル。」

 きっぱりと答えられた。自分がいつもなんとなく弾いているこの曲を出すとは挑戦的だ。

「大丈夫か? この曲結構難しいけど……。」

「いいの。この曲を弾く悠の音が聞きたいからその曲にする。」

 俯く黒部。桜の様にほおが桃色に変わった様な気がする。

 黒部は高校からの知り合いだ。この部活には去年まで自分一人しかいなかったが、ある日いきなり黒部が入部して来た。本当に理由はわからない。ただ、黒部もまたピアノを小さい頃からやっていたらしく、たまに自分と気分で連弾することがある。黒部が来る様になった冬の日から数ヶ月経つ。何度か合わせて曲を楽しんだことがあるが、黒部の腕は凪沙には及ばないものの良い。おそらくクロイツェルも時間をかければできるはずである。

「よし、じゃあ文化祭はクロイツェルやろうか。全部やると長いし第1楽章だけでいい?」

「もちろん。ありがとう。」

 言葉使いとは裏腹に、少し嬉しそうだ。

 まだ放課後になったばかりでも人気のない4階の廊下を二人して歩く。黒部はルンルンと歩いてはしているがいつも通り口数は少ない。自分は何を話すわけでもないが、黒部の足取りに合わせて隣を歩く。ちらっと顔を見ると目も嬉しそうなのがわかる。

 目的の部屋、音楽準備室の扉を開けるとそこには8畳半ほどの部屋に机が二つ、椅子が三つあった。自分は奥の席に座る。いつもの席だ。黒部も扉側の椅子に腰掛けた。

「そういえば黒部は楽譜持ってるのか?」

「うん、この部活入った時に買ったからあるよ。」

「え、え? お、おう……。まぁ持ってるならいいや。」

 クロイツェルが好きなのかな?

 疑問におもいながら椅子から立ち、部屋の奥に置いてある楽器箱を手に取る。椅子に戻ると箱を開け、中からヴァイオリンと弓を取り出すとまず弓のテンションをかけた。松ヤニを弓に軽く擦り付け、構えておいたヴァイオリンの弦にあてる。A線の音から出し楽器の先に付いているペグを回しラの音に合わせる。他の弦も調弦し準備を整える。一方、黒部はこちらを見つめていた。いつのまにか楽譜もひらいてある。

 とりあえず自分だけ弾くか、と観念し、目を瞑る。息を吸うと低いラから一気に重音のアルペジオを奏でる。少しかすれた。

 静かにゆっくりとしたアダージョのテンポよりさらに遅めのアダージョソステヌートの指示に従って舐める様に重音を次へ次へと出していくとこのソナタの世界に入っていく感覚に襲われる。三小節の休みで合いの手の様に入るピアノの音が聞こえる気がした。ベートーベンが記した強弱の文脈を理解しながらクレッシェンドもかける。初めだけ強くするスフォルツァントがアクセントになり、か細さと力強さに感情を抑えている様な雰囲気すら感じてしまう。

 十三小節目で変わるテーマ。ピアノに心もとなく問いかける様なやりとり。そして、そうね、とそっと返してくれるピアノと寄り添う形でなんども問いかけるヴァイオリン。最後に答えを見つけたのか、自問自答を二回繰り返しそっと止まる。

 止まった時のフェルマータで演奏を止める。目を開けると部室の風景が戻って来る。春先で日の入りが早く若干夕焼け色になっていた。

 黒部はまだ楽譜を見ていたが声をかけると顔を上げて、

「よかった。」

 と一言。

「とりあえず今月中にプレストの前のここまで合わせようか。」

「わかった。」

 頷く黒部は部屋の隅にあるグランドピアノに席を移した。

 鍵盤に手を置くと黒部はピアノパートを弾き始めた。どうやら練習はしているみたいで、音は取れてる。この曲のピアノパートもまたヴァイオリンの写しの様な動静の満ちた流れで聞いていて楽しい。

「しれっと練習してたんだな。」

 さっき自分が切り上げたフェルマータのところで声をかけると黒部は笑顔になった。これは早めに出来上がりそうな予感がする。

「よし、とりあえずできそうな感じだから一回合わせてみるか。」

「そうだね。」

「じゃ、初めから。」

 見つめ合う。

 一回自分が頷くと黒部も返してくれる。

 先ほどと同じ様に目をつぶり息を軽くすうと、ラ、ミ、ド、ラの重音をだす。

 自分の音と黒部の音が絡み耳に幸せな音となる。凪沙とやった練習を思い出す。一曲弾き終わった時の達成感が得られそうな予感にワクワクする自分がいた。

「ん。いい感じだから次もやろうか。とりあえず今日はここまでな。」



 ◇



 文化祭で一緒にあの曲が弾ける。

 嬉しいなんてものじゃない。

 この部活に入って本当に良かった。

 文化祭までまだ時間はあるからしっかり練習して、もっと自分との時間を割いてもらわないと。

 わたしも、言い出しっぺでできませんでした、なんてだらしないことになって呆れられたらたまったものじゃない。しっかりやらないとね。

 悠、私、クロイツェル頑張るね。頑張って練習するから。幼馴染になんて負けないんだから。

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