めくる楽譜の初めの音は
縹嶺 あかり
プロローグ
第1話 クロイツェル・ソナタ
私にとって。
私にとって、この世界は短すぎる。
聞こえてくる音は一瞬にして消え去り、振り返ると既にどこにも姿はない。
私にとって、世界に溢れる音は、一瞬の出来事にしかすぎないのである。
しかし。
ただ一つ。
ただ一つだけ。
私の中に残り続ける音がある。
優雅に響き、心の中でいつまでも鳴り続ける。いくつもの音が心に鳴り響きながらもそれぞれがぶつかることもなく、ただひたすらに綺麗に美しく聞こえてくる。そんな音があった。それを聞いてしまってから、私はその音を聞くためにそわそわし、一日中その音のことばかり考えてしまっていた。
さて、そのことに気づいたのは去年の冬のことであるが、またこんどその話はしたいと思う。今はただ、扉から漏れ出てくるヴァイオリンの綺麗な音を聞いていたい。
誰もいない廊下のとある扉。
校舎の4階にある楽器室の前で、私はただひたすらに演奏の邪魔をしない様そっと壁にもたれかかっていた。
私にとって。
私にとって、この音は何の音にも勝てないとびっきりの音なのである。いつまでも聴いていられる、特別な音である。
長い髪を耳にかけ直し、聞き入る様に耳をすましていた。思わず、やっぱりキレイ。そう、小さくため息をついてしまう。
どれほど聴いていただろうか。流れていた音が止まっていた。廊下も先ほどよりオレンジ色に染まっている。
一人廊下に立っていたわたしは部屋に入ることにした。
「今日も、いい音。」
口に染み付いたいつもの言葉をヴァイオリンの主にかけた。
◇
夕焼けに染まり始める自分以外誰もいない部室。
今日は少し静かなのを聞きたかった。
音楽プレイヤーを取り出し、耳にイヤホンを差し込む。画面を操作し、9番目の曲の再生ボタンを押すと寂しそうなヴァイオリンの重音が耳を満たし始めた。ゆっくりと何個もの音が重なりつつ調べを奏でている。いつも聞いている曲ではあるが飽きることなく聞き続けている、とても好きな曲の一つである。
初め、部室の椅子に腰掛け曲を聴いていたが、数小節分を聞き終えると自分でもこの音が出したくなり、イヤホンを外しそっと脇に置いた楽器に持ち替えた。
楽譜も開かず楽器を構える。
目を閉じ、構えている楽器に弓を当て、弦に指を添える。窓から差し込む夕日が弦の影を壁に投じる。
す、っと息を吸い、弓を引くと、弾かれた弦がプレーヤーから流れた音と同じ音色を出し答えてくれた。
ベートーベン ヴァイオリンソナタ 9番 クロイツェル
ベートーベンの曲には自身がつけた題名は殆どない。運命だの春だのと言われる有名な作品の題名はのちにつけられた題名であったりする。見てわかる通りこの曲もそっちの部類だ。通称クロイツェルはヴァイオリンのソロから始まる優雅な曲。十あるベートーベンのヴァイオリンソナタの完成形と名高いほどの傑作故に構成・展開の秀逸度が高く、非常に難しい。ピアノとヴァイオリンのみのシンプルな構成ではあるが、綿密に絡み合い、お互いの旋律を真似していき、出来上がる音は甘美にも情熱的にも見えてくる、素晴らしい作品だ。
この曲を知ってもう何年か。第1小節を聞いた瞬間からこの曲の虜になった自分は、すぐにこの曲の練習を始めた。来る日も来る日もベートーベンが描いたこの曲の思いを必死に考え表現していた。
たまに家に遊びにくる幼馴染の
凪沙とは、うちの隣に住む幼馴染。凪沙の家はピアノ一家で、幼い頃から凪沙は英才教育を受けていて誰も凪沙の腕には敵わなかった。自分は幼馴染という縁もあり、時々(凪沙曰く息抜きと称してうちへ上がり込んで)自分の練習に付き合ってくれていた。クロイツェルも例外ではなく、この曲を知ってからずっと自分はこの曲しか考えていなかったのだが、それを見かねた凪沙はこの曲のピアノパートをいつのまにか入れてくれる様になった。もちろん完璧に。
数ヶ月、学校が終わると自分の家に、たまに凪沙の家に行ってはこの曲を練習し、曲の冒頭が徐々に仕上がってくると、曲にあてられ、二人はどんどん練習にのめり込んで行った。
と、そんないい思い出のつまった曲がこれである。今でも自分はこの曲が好きだし、暇さえあれば有名な演奏家の演奏を聴いたり、赴くままにヴァイオリンを鳴らしたりしていた。
そして今も急にこの曲を聞きたくなり聴いていたし、つい弾きたくなった。単純なやつである。今日もイントロの部分から主題の部分に入ったところでいきなり満足感がでてきて、ここで弓を離した。
「今日も、いい音。」
楽器をケースに置いたところで長い髪がきれな女の子に声をかけられた。
「あぁ……。ありがとう。いつもと変わらないけどな。」
慣れた様に自分も扉の方に振り返り、未熟さを訴える。何が言いたいのか、どう弾いて欲しいのか、選択肢が多過ぎていまだにつかめずにいる。ただ、迷いのある音であっても声の主は毎日の様にこうして褒めてくれるのである。
「黒部はいつも褒めてくれるよな?」
「うん、そうだね。」
「いつも適当なかんじなのにそう言ってくれて嬉しいよ。」
「……適当なんて。私からしたらいつまでも聴いていられる音だから、そんなことないよ。」
黒部はにっこりと返してくれる。言いはしないが可愛い。
ねぇ私も演奏するからもう一度聞かせて、と黒部は長い髪をなびかせながら顔を近づけ頼みこんで来た。
少しためらう。ただ、断る理由もなかった。
「しかたないな……。」
置いた楽器に手を伸ばし、黒部が椅子に座るのを待った。
顔をお互い合わせる。目をつぶり、お互いの呼吸の音を聞くと、今度は少し熱っぽく重音を弾きだしてみた。
いい音がした。そんな気がした。
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