第六章 数多の地域(3)
「キリウサギ……支障なく問題なしっと」
兎目、ウサギ科、ノウサギ属、キリウサギ。まあ、つまりウサギである。
俺が見るかぎりでもそこらへんにいる(そこらの庭にいるわけではないが)ノウサギと大差ないようにみえる。
そのままピョンピョンと数匹の群れが走り去って霧の中へと消えていった。
「サナさん、タカアマテンマ、マムシ、カスミダラゾウ、その他近くに生息する動物の以上は特に見られませんでした」
ミウナキは俺たちが行っていたのと反対方向の霧からぬっと姿を現す。腰に巻かれたベルトから伸びるロープがばっちりクジラに繋がっている。無論俺たちも同様。
「ありがとう、じゃあ次行こうか」
クジラに再び乗り込み、運転手に行き先を告げるサナ。するとクジラはゆっくりと動き始める。既に街があった方角などわからない。真っ白で前に進んでいるのか、左右どちらかに曲がっているのかもよくわからないほどだ。
そんななかサナが運転手のほうに身を乗りだした。
「運転手さん、気になっていたんですけどいつもより霧がかなり濃くないですか?」
「ええ、濃いですよ。ここ一ヶ月はかなり濃くなっています。まあ、わたしたちからすればこれ以上濃くなろうがほとんど一緒ですけどね」
「一ヶ月……やはりジンがいなくなった影響ですかね? 平均気温も少なからず下がっているのも否めないですし」
サナが温度計を見ながら呟いている。
「でも、ここらにいる動物は既にほとんど視界に頼らない生態。温度変化に敏感な動物以外は問題ないと考えていいのでしょうね」
「さあ、それはわたしにはわからないです。先生方に頼みます」
「……違いないですね」
運転手はそのまま先へと進んでいく。基本的に同じ標高でずっといるため霧の濃さは変わらないし、目が慣れてくるというのもあって少しはマシになってきた。レクスはずっと濃い霧に怯える仕草を見せていたが、だいぶ落ち着いてきたみたいで、今はじっと座り込んでいる。
しばらく、そんな状態続いたのだが、ある時急に運転手はピタリとクジラを止めた。さらに右横、霧の奥に目を向ける。サナ、ミウナキ、そして俺はその霧の先に同じように目を向けると何やらうっすらと影が見えてきた気がした。
「野生のカスミクジラです」
そのとき、霧の向こうからクジラの鳴き声がかすかに聞こえた。それに反応したのか俺たちが乗っているカスミクジラも鳴き声をあげる。
そのころにはどんどん影が大きくなってきており、ついには俺たちの頭上をカスミクジラが通り過ぎていった。
「すっげぇ、結構速いスピードだな」
またたく間に通り過ぎたカスミクジラに興奮を覚える俺。だが、運転手を含めた俺以外はむしろかなり深刻で怪訝な顔を浮かべている。
「ん? なんだ? 何かあるのか?」
「シッ!!」
サナが急に人差し指を口元に立てて黙れのジェスチャーを取る。その勢いに任せしっかり口にチャックを入れるなか、サナたちはカスミクジラが去っていった方角から視線をカスミクジラが来た方角に移し替えていく。直後サナが叫んだ。
「運転手さん、すぐに出して!」
「わかっています!」
運転手はサナに指示されるとすぐにクジラに指示。移動開始する。その直後、クジラの尻尾を掠めるか掠めないところにいくつかの影がカスミクジラよりも速いスピードで横切った。
「なんだ、あれ!?」
「ユウトも見たはずよ!」
猛スピードで上昇していくなか、サナが声を張って返してくれる。
「ノシャチよ! カスミノシャチ!!」
「……あの白いシャチか!?」
「そう!」
その直後だった。鈍い音が霧の向こうで聞こえたのは。何かが何かに体当りする音。考えたくもなかったがなんとなく察しがついた。
カスミクジラにカスミノシャチが体当りしたのだ。もし、カスミノシャチが俺のいた世界の海にいるギャング、シャチと同じような生態系を持っているのだとすれば、これから始まるのは……狩り。
次に来るのはクジラの鳴き声、だけれども既に弱々しい。かなり上昇して逃げきろうとするとき、ズンという鈍い音が響く。それからしばらくして霧が揺れた気がした。
「……狩られたね」
サナは冷静にそう呟いた。そのころ、俺たちの乗るカスミノシャチは霧の海から出て霧でできた西の地平線に沈みかけている太陽がはっきり見えていた。
実に神秘的に見えるのだが、その霧の下、見えないところでノシャチがクジラを食らっているのを想像するとゾクッとする。
「カスミノシャチ……基本的な性質は海のシャチと酷似している。群れで大きな獲物に襲いかかるし、狩りを楽しむような一面も持っている。
この霧の海でもギャングよ。クジラ、ゾウといった大物も遠慮なく狩る。なんでもかんでも、多くの生物を捕食する。
もちろん、シャチ同様、個体ずつで見れば食べ物の好き嫌いができるほど、余裕を持った最強の捕食者よ。
タチが悪いのはノシャチが空中を立体移動できるのに対し、獲物となる動物の大半は二次元移動しかできないということ。カスミクジラは同じ立体機動だけど、ゾウはゾウでもカモよ」
「サナさん、そのジョークが受けると思っていたなら、鴨肉と一緒に挨拶しながら鍋で煮込まれることをおすすめしますよ」
「うっ……」
「ハッハッハ」
顔を赤くするサナと笑う運転手。残念ながら俺にとってはむしろミウナキが発したこの世界独特のジョークのほうが付いていけないのだが。
逆に、ノシャチの驚異はよくわかった。サナや運転手の判断が遅かったら標的がこのクジラのほうになっていたかもしれない。シャチというのは恐ろしく獰猛だ。子供に狩りの練習をさせるためにアザラシをすぐに殺さずいたぶるように投げたり海に叩きつけたり、陸地に放ったりして弱らせる行動も見られる。
知能も高く、集団で作戦を立てながら獲物を追い詰める。しかも、もしシャチ同様カスミノシャチも好奇心旺盛ならば気になるものに近寄ってくるかもしれないからならおさら。レクスも本能的なのかかなり怯えていた様子だった。そんなレクスを俺の腕で抱き寄せなだめる。
「しかし、本当に恐ろしいな」
「まあ、人間を捕食対象としたノシャチは確認されていないけど、今乗っているカスミクジラはノシャチにとって美味しいご飯だからね」
美味しいご飯呼ばわりされたカスミクジラがまるで抗議するように鳴き声をあげる。
「カスミノシャチは間違いなくカスミダラで食物連鎖の頂点に立っている。武器を持つ人間を除いてカスミノシャチに天敵は存在しない。動物と向き合うってことはそれ相応に危険が伴うものなの。だからこそ、あたしだって極力使いたくはないけど腰にこれを忍ばせている」
サナはシャツを少し捲り上げ腰の部分をさらけだしてきた。そこに隠されていたのはリボルバー拳銃。獣に襲われたときの最終手段らしい。
「どの種問わず人間ってのは複雑な社会を持ち道具を使うよう進化したゆえに、生身ひとりでの戦闘能力はそこらの動物より大きく劣る。
いや、生身の戦闘能力なんて必要なかった。知識、そして武器を……兵器を手に入れていったから。だからこそ、動物に対抗するにはこれを持つ必要がある。体さえ鍛え訓練された人間ならナイフ一本持つだけで動物の爪を超える」
俺が抱えているレクスにサナがちらりと視線を向けた。
「その結果、人間が好き勝手するようになってしまったのもあるけど……」
サナはゆっくりとレクスに近寄り軽く撫でた。
俺はそんな様子を見ながらも、沈みゆく太陽を見て運転手に聞いた。
「ところで、緊急回避して上にまで出ちゃってけど、戻る街の方向はわかるんですか?」
「もちろん、土地勘を舐めないでください」
……土地勘は最強だった。
その後、もうしばらく調査を続け街に帰りはしたが、その繰り返しが一週間以上。しかも、まだカスミダラが終わっただけで、それ以外の残り四分の三も調査し終えるまで相当な時間がかかったのだった。
それこそ、何度もオールトとハローを往復し、ハローで何泊もして。
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