その6 お兄さんにぴったり
お兄さんは良い歳のように見える。けれど築何年か聞くのも怖い木造のアパートに何故住んでいるのだろう。
聞きたいけれどそれこそ初対面の人に話す事じゃない。じゃあ初対面である私はお兄さんのあのアパートについてなんと返答したらいいの?
綺麗なアパートですね、趣深いですね、どれが正解なのかわからない。このまま「へえ、そうなんですね」と永遠に相槌を打つべきなのか。
「私、ここ散歩コースなので思っていたことがあるんですけど、」
私は結局、アパートから話を少しだけ逸らすことにした。何かアパートについて言わなければいけない雰囲気を彼が醸し出しているわけではないのだが、私の性なのか、ちゃんと受け答えをしなければという気持ちがどうしても大きくなってしまう。
「あの車だけ、異質だなあっていつも思っていて」
私はアパートの目の前に駐車されている如何にも、な車を指さした。
車には興味がないし種類なんて全然わからないけれど、あの車が高級車ということくらいはわかる。アパートと不釣り合いな光沢のあるブラック。緩やかな曲線。
初めてその車とアパートを目にしたときは無意識に立ち止まり、交互にそれらを見て数秒静止したくらいだ。二つとも、異質なのだ。
現代には古すぎる今にも崩れてしまいそうな木造アパートと、煌びやかな高級車。
異質なもの同士が同時に視界に入ると、驚愕とも呆然とも違う、よくわからない感情になる。何故?という気持ちが一番大きく、ただただ私は困惑した。
高級住宅街にあれば納得するその車がまさかあのアパートの前にあるなんて。それを知った頃はきっと住人のお金持ちの友達が遊びに来ているんだなと勝手に推測をしていたが、通る度に必ず駐車されているその車に自分の推測は間違っていたと思い知らされた。
「ぽよちゃんのことかい?」
お兄さんの幾らか高く弾んだ声に私はきっと酷い顔をしていただろう。顔を綻ばせ、心底楽しそうで、きらきらという効果音が聞こえてくる。
柔らかい雰囲気の中にあの目が加わり大人っぽい印象だったのに、不意打ちでこんなこどもっぽいところを見せられて、私の気持ちは追いつかない。
「お嬢さん、お目が高いですね」
「はい?」
鼻高々なお兄さんに私はきょとんとしてしまった。彼は右手を指先まで綺麗に伸ばし、高級車を指した。
「僕のぽよちゃんです」
――絶句した。ぽよちゃんという車の名前らしき単語が頭の中をぐるぐる回る。
「ポルシェなのだよ、ぽよちゃんは。僕の宝物だ」
「あの、ぽよちゃん、とは……。」
「ああ、名前の由来かい?ポルシェの『ぽ』をとってぽよちゃん」
にこにこと人懐っこい顔をして笑っている。お兄さんの今日一番の笑顔を見た。
ツッコミどころ満載の彼の話を一体どうすればいいのだろうか。ぽよちゃんだって、『よ』は一体どこから出てきたんだ。
「久しぶりにぽよちゃんを運転してみたら壁にこすってしまって。本当に落ち込んでいるのだよ」
「本当に好きなんですね……。」
大人っぽいのところ、前言撤回。
お兄さんは表情がころころよく変わる。彼はきっと感受性が豊かで、俗に言う普通の人ではない。普通に朝起きて仕事に行き、多くの人の意見に自分もそう思うと合意し、人並みにコミュニケーションが取れる人。ではなく、車に名前をつけ、高級車を買えるくらいのお金があるのにも関わらずおんぼろアパートに住んでいる人。
「では、僕はこれで」
ぽよちゃんの話が終わり、気が済んだのか、満足そうに微笑み、私に小さく会釈をした。
お兄さんとはまたきっと来週の金曜日に会えるはずだ。けれど、どうしても私は惜しいと思ってしまった。
「あの!どうして高級車なのに、」
自分がこれから言おうと思っていたことに躊躇い、咄嗟に両手で口を押さえた。
どうして高級車なのに、家は木造で古いんですか?――完全に、アウト。
するりと視線が交じり合うと、お兄さんはふにゃりと笑って、頷いた。
「よく聞かれることなのだが、僕はどうしてもぽよちゃんが欲しかったから手に入れたまでだよ。生活は二の次」
「あのお仕事は……?」
衝撃が強い、壊れる。私の中の彼が崩れ、再び構成されていく。
私は常識など考える余裕がもはやなく、どんどんお兄さんに踏み込んでいってしまう。制御不能。
「ああ、小説家。この間賞がとれて、奮発してぽよちゃん買ってしまった」
小説家。お兄さんにぴったりだ。
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