その3 お兄さん




 「いつも」とは、自分の決まってる日常で、その中には人も含まれている。


 例えば、私の数メートル先にいるお兄さん。


日曜日の夕方五時前、電柱の近くで黒猫に餌をあげている。


日曜日の夕方五時前、私は散歩をする。


「くろのすけ、おいしいか?そうかそうか、おいしいか」


 「くろのすけ」と呼ばれる黒猫はお兄さんがあげた猫缶を美味しそうに頬張っている。


彼はくろのすけの頭を優しく撫で、いつも柔らかい声で話しかけている。


 私は日常として彼を認識しているが、彼の方は全く私に気づいていないだろう。


 日常の風景の一部であるお兄さんはそれ以上でもそれ以下でもないけれど、私は彼の目が好きだ。


前髪から覗く伏し目が彼の柔らかい雰囲気を更に際立たせていて、私はその部分に惹かれる。


 彼の髪はくせっ毛なのか寝癖直しをしていないのか無造作だ。

前髪はスタイルで長くしているというよりは伸ばしっぱなしという感じがする。


お兄さんも猫みたいだなっていつも、思っていて。


「あああー…はぁ…。」


 突然の大きな声に私は盛大に驚いて「ひっ」なんて女らしさの欠片もない声をだし、足を止めた。


 頭を抱えるお兄さんが目に入り、彼が出した声だと理解する。


 いつもみたいにお兄さんの横を通り過ぎようとしていたときの、緊急事態。

こんなのいつもの日常じゃない。


「くろのすけえ……どうしても頭から離れないよ、僕の愛しいぽよちゃん、はぁ…。」


 震えた声で独り言を言い、項垂れた。

目の前にいるくろのすけはそんなお兄さんなどお構いなしに美味しそうにご飯を食べる。


「…ああ、いかんいかん、独り言が暴走した。でも、頭から離れな……。」


 お兄さんの瞳が私を捕らえる。


それと同じように私の瞳も彼を捕らえていたかもしれない。


私の時は確かに一瞬止まり、そしてゆっくりと動き始めた。



「なんてことだ。醜態を晒してしまったではないか」



 私は非日常に狼狽えてしまい、日常である歩くことをすっかり忘れてしまっていた。


「お嬢さん、悪かったね。驚かせてしまって」


 お兄さんの伏し目しか知らなかったけれど、彼は意外にも切れ長の目をしていた。

柔らかい雰囲気を醸し出す彼の目はまん丸いものだと、私は勝手に思い込んでいたらしい。


私は更に非日常へ足を踏み入れた感覚に陥る。


ああ、でもその黒目は好きだなあ。まん丸い、深い海の底みたいな黒色。



「お嬢さん?僕の顔に何かついていますかね?」


「あ!いえ、すみません」


 小首を傾げて私を見る彼に気づき、私はやっとその瞳から解放された。


「あの、私もうお嬢さんなんて呼ばれる歳じゃないですよ」


 そうして私はやっと彼に返答することができた。


「ああ、僕からみたら貴方はお嬢さんという歳ですよ」


 気になったところを指摘してみれば、意外な答えが返ってきた。私と彼はさほど歳が変わらないように見えるのだけれど。


やっぱり人それぞれ見方は違うのかな。

それとも私の見た目の所為?



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